各時代の大争闘
揺るがぬ信仰に立って
その時が過ぎてキリストがあらわれないなら、再臨運動全体が放棄されるであろうと期待しながら、世の人々は見守っていた。しかし、激しい試練のもとにあって、信仰を捨てた者も多かったが、堅く立った者もいくらかあった。再臨運動の実であるところのもの、すなわち、その働きに伴ったところの、謙遜と自己吟味の精神、世俗を捨てて生活の改革を行う精神は、それが神によるものであることを証明していた。彼らは、再臨の宣布に対して聖霊の力のあかしがあったことを否定できなかった。また、自分たちの預言の期間の計算に間違いを見いだすことができなかった。最も有能な反対者でさえ、彼らの預言の解釈法を覆すことができなかった。彼らは、神の聖霊に照らされた精神とその生きた力に燃やされた心とが、熱心な祈りをもって聖書を研究して得た結論を、聖書の証拠がないかぎり、放棄することはできなかった。一般の宗教家や世の知者たちの激烈な批評に耐え、学識と雄弁による攻撃にも、上層下層の人々のののしりと冷笑とにも堅く立ってきた結論を、放棄することはできなかった。 GCJap 465.3
たしかに、期待した出来事について間違いはあったが、それでさえ、神の言葉に対する彼らの信仰を揺るがすことはできなかった。ヨナが、ニネベの町で、四〇日のうちに町が滅ぼされると宣言した時、主はニネベの住民の悔い改めを受け入れて、彼らの恩恵期間を延長された。しかし、ヨナのメッセージは、神から送られたものであった。そして、ニネベは、神のみこころに従って、試みられたのである。 GCJap 466.1
同様に神は、再臨信徒を導いて、審判の警告を宣布させられたのであると、彼らは信じた。彼らはこう言った。「それは、それを聞いたすべての者の心を試し、主の出現を愛する心を起こさせるか、それとも再臨に対する嫌悪―─程度の差はあろうが、しかし神はご存じである―─を起こさせるかした。それは、一線を画した。……自分の心を吟味する者は、主がその時来られたならば、自分たちはどちらの側にいたか―─『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる』と叫んだか、それとも山と岩とに向かって、われわれを覆って、み座にいますかたのみ顔と小羊の怒りとからかくまってくれと叫んだか―─を知ることができる。こうして、神は、ご自分の民を試み、彼らの信仰を試して、彼らが試練の時に、神が彼らを置こうとされたその場所からしりごみするかどうか、そして彼らがこの世を捨てて、神の言葉を絶対的確信をもって信じるかどうかを、見られたのであるとわれわれは信じる」 GCJap 466.2
過去の経験において神の導きがあったことをなお信じた人々の気持ちが、ウィリアム・ミラーの次の言葉に表現されている。「あの時と同じ証拠が与えられて、もう一度生活をし、神と人とに対して正直であろうとすれば、わたしは、わたしがしたとおりのことをするであろう」「わたしは、自分の衣には人々の魂の血がついていないことを望む。わたしは、自分のなしえたかぎりにおいて、人々の罪の宣告に関し責任を問われるものではないと感じる」「わたしは二度失望したけれども、落胆や絶望はしていない。……キリストの再臨に対するわたしの希望は、これまでと同様に強い。わたしは、長年まじめに研究したあとで、自分の厳粛な義務と感じたことを行ったにすぎない。もしわたしが間違っていたとしても、それは、同胞を愛し、神への義務を堅く信じてのことであった」「わたしが知っているただ一つのことは、わたしは自分の信じたこと以外は何も説教しなかったということである。そして、神はわたしと共におられた。神の力が働きの中にあらわれ、多くのよい結果が生じた」 GCJap 466.3
「再臨の時期についての説教の結果、幾千のものが、聖書を研究するようになった。そしてそれによって彼らは、信仰とキリストの血の注ぎによって、神と和らいだ」「わたしは、高慢な人の好意を求めず、世の非難にもおじけなかった。わたしは今、彼らにへつらって好意を得ようとも、分を越えて彼らの憎しみを買おうとも思わない。わたしは、彼らに命乞いしようなどとは決して思わないし、また、もし神のみこころであるならば、生命を失うこともあえて恐れてはいないつもりである」 GCJap 467.1