各時代の大争闘

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再臨直前の教会の状態

キリストはご自分の民に、彼の再臨のしるしによく注意し、きたるべき王のしるしが見えたならば喜べとお命じになった。「これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」と主は言われた。彼は、春芽を出す木々を指さして、弟子たちに言われた。「はや芽を出せば、あなたがたはそれを見て、夏がすでに近いと、自分で気づくのである。このようにあなたがたも、これらの事が起るのを見たなら、神の国が近いのだとさとりなさい」(ルカ21章28、30、31節)。 GCJap 354.3

しかし、教会の中の謙遜と献身の精神が、高慢と形式主義に変わった時、キリストに対する愛と彼の再臨に対する信仰が冷えていった。世俗と快楽の追求に熱中して、神の民と自称する人々は、再臨のしるしについての救い主の教えに、盲目になった。再臨の教義は、ないがしろにされた。再臨に関する聖句は、曲解されて不明瞭となり、ついにはその大部分が無視されて、見失われてしまった。こうしたことは、特に、アメリカの諸教会で起こった。社会のすべての階層が自由と安楽を享受することができるので、人々は、富とぜいたくにあこがれ、金もうけに熱中し、だれもが手に入れられると見える名誉と権力を追求し、この世の事物に関心と希望を集中させ、現在の秩序が崩壊するあの厳粛な日を、はるか将来に押しやってしまった。 GCJap 355.1

救い主は、再臨のしるしを弟子たちに示された時に、再臨の直前における背教の状態を予告された。ちょうど、ノアの時代のように、世俗の事業と快楽の追求に忙殺されて、売り買い、植えつけ、建築、とつぎ、めとりなどして、神と来世のことを忘れてしまうのである。このような時代に生存する者に、キリストは、次のように勧告される。「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい」「これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」(ルカ21章34、36節)。 GCJap 355.2

この時の教会の状態は、黙示録の中の「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」という救い主の言葉の中に指摘されている。そして、その軽率な安心感から目覚めようとしない者に、次のような厳粛な警告が発せられている。「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない」(黙示録3章1、3節)。 GCJap 355.3

人々は、自分たちの危険に目覚めなければならない。恩恵期間に関連した厳粛な出来事の準備をするために、目を覚まさなければならない。神の預言者は、「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう」と言っている。「目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者」であられるお方があらわれる時に、だれが立つことができようか(ヨエル2章11節、ハバクク書1章13節)。「わが神よ、われわれは……あなたを知る」と言いながら、神の契約を破り、ほかの神を選び、心に悪を隠し、不義の道を愛する人々には、主の日は、「暗くて、光がなく、薄暗くて輝きがない」のである(ホセア書8章2、1節、アモス書5章20節、詩篇16篇4節参照)。「その時、わたしはともしびをもって、エルサレムを尋ねる。そして滓の上に凝り固まり、その心の中で、『主は良いことも、悪いこともしない』と言う人々をわたしは罰する」と主は言われる(ゼパニヤ書1章12節)。「わたしはその悪のために世を罰し、その不義のために悪い者を罰し、高ぶる者の誇をとどめ、あらぶる者の高慢を低くする」(イザヤ書13章11節)。「彼らの銀も金も、……彼らを救うことができない」「彼らの財宝はかすめられ、彼らの家は荒れはてる」(ゼパニヤ書1章18、13節)。 GCJap 356.1

預言者エレミヤは、この恐るべき時を予見して叫んだ。「わたしは苦しみにもだえる。……わたしは沈黙を守ることができない、ラッパの声と、戦いの叫びを聞くからである。破壊に次ぐに破壊があ」る(エレミヤ書4章19、20節)。 GCJap 356.2

「その日は怒りの日、なやみと苦しみの日、荒れ、また滅びる日、暗く、薄暗い日、雲と黒雲の日、ラッパとときの声の日」(ゼパニヤ書1章15、16節)。「見よ、主の日が来る。……この地を荒し、その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る」(イザヤ書13章9節)。 GCJap 356.3