各時代の大争闘
再臨の約束
救い主は、弟子たちから離れていこうとするにあたり、また来るという確証を与えて、彼らの悲しみを慰められた。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。……わたしの父の家には、すまいがたくさんある。……あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」(ヨハネ14章1~3節)。「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集め」る(マタイ25章31、32節)。 GCJap 346.1
キリストの昇天後、オリブ山にとどまっていた天使たちは、キリスト再臨の約束を弟子たちに繰り返した。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1章11節)。また、使徒パウロは、霊感に動かされて次のようにあかしした。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる」(テサロニケ第一・4章16節)。パトモスの預言者も、「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」と言っている(黙示録1章7節)。 GCJap 346.2
彼の再臨には、「神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時」の輝かしい光景が関連している(使徒行伝3章21節)。その時、長く続いた悪の支配が砕かれて、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(黙示録11章15節)。「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」「主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる」。主は、「その民の残った者のために、栄えの冠となり、麗しい冠となられる」(イザヤ書40章5節、61章11節、28章5節)。 GCJap 347.1
長く待望してきた平和なメシヤの王国が、全天のもとで建設されるのは、この時である。「主はシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、そのさばくを主の園のようにされる」「これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる」「あなたはもはや、『捨てられた者』と言われず、あなたの地はもはや『荒れた者』と言われず、あなたは『わが喜びは彼女にある』ととなえられ、あなたの地は『配偶ある者』ととなえられる」「花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる」(イザヤ書51章3節、35章2節、62章4、5節)。 GCJap 347.2
主の再臨は、各時代において、神の真の弟子たちの希望であった。また来るという、オリブ山上での救い主の、離別にあたっての約束は、弟子たちの未来を明るく照らし、彼らの心を喜びと希望で満たし、どんな悲しみも試練もこれを消し去ることはできなかった。苦難と迫害のただ中にあって、「大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現」は、「祝福に満ちた望み」であった。生きて主の来臨を見たいと望んでいた愛する者たちを葬って、悲しみのうちにあったテサロニケの人々に、彼らの教師パウロは、救い主の再臨の時に起こる復活を指し示した。その時には、キリストにあって死んだ人々がよみがえり、生きている人々と共に引き上げられて、空中で主にお目にかかる。こうして、「いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい」と彼は言った(テサロニケ第一・4章16~18節)。 GCJap 347.3
岩角険しいパトモス島において、愛する弟子ヨハネは「しかり、わたしはすぐに来る」という約束を聞いた。そして、「主イエスよ、きたりませ」という彼の切実な応答は、流浪のうちにある教会の祈りでもあった(黙示録22章20節)。 GCJap 348.1