各時代の大争闘
律法と福音
キリストの死によって十戒は礼典律と共に廃された、という主張に答えて、ウェスレーは言った。「十戒に含まれ、預言者が強調した道徳律を、主は廃されなかった。彼が来られたのは、そのどれをも廃止するためではなかった。これは、廃することができない律法で、『天の証人として堅く立つ』ものである。……これは、世のはじめから、『石の板にではなく』すべての人の心に、創造主の手によって造られた時に書かれた。しかし、ひとたび神の指によって書かれた文字は、今は罪のために大部分損なわれてはいるが、善悪に関する良心があるかぎり、文字を全部消し去ることはできない。この律法のすべての部分は、各時代のすべての人類が守るべきものとして存続すべきものであって、時や場所や環境などによって左右されるものではなく、神のご性質と人間の性質及びその相互間の不変の関係によっているのである。 GCJap 302.1
『廃するためではなく、成就するためにきた』……このところの意味は(その前後の関係から見て)、疑いもなく、次のような意味である。わたしは、人々のあらゆる曲解にもかかわらず、それを完全に成就するために来た。その不明また不明瞭な点は、なんであれ完全に明らかにするために来たのである。その各部分の真の完全な意味を宣言するために、そこに含まれているすべての戒めの長さと広さ、すなわちその全範囲、そして、そのあらゆる分野における高さと深さ、すなわち人間の思いも及ばぬ純潔と霊性を示すために、わたしは来たのである」 GCJap 302.2
ウェスレーは、律法と福音の完全な一致について、次のように言っている。「それゆえに、律法と福音の間には深い関係がある。一方において律法は、絶えずわれわれを福音へ導き、われわれに福音を指し示す。また、他方において、福音はわれわれを導いて、もっと正しく律法を成就させようとする。たとえば律法は、神を愛し隣人を愛し、柔和で謙遜で聖潔であるようにと、われわれに要求する。われわれは、こうしたことにおいて、不十分であることを感じる。たしかに、『人にはそれはできない』。しかし、その愛をわれわれに与え、われわれを謙遜、柔和、聖潔にするという神の約束を見る。われわれは、この福音、この喜ばしいおとずれをつかむ。それは、われわれの信仰に従って行われるのである。そして、イエス・キリストを信じる信仰によって、『律法の要求が……わたしたちにおいて、満たされる』のである」 GCJap 303.1
またウェスレーは、こう言った。「キリストの福音の最大の敵の中には、公然とあからさまに、『律法をさばき』『律法をそしる』人々があり、また、律法の中の一つ(最大のものであれ最小のものであれ)というのではなく、すべての戒めを、一撃のもとに破壊する(廃止する、解消する、その義務を解く)ことを人々に教える者がある。……この強力な欺瞞に伴う状態で最も驚くべきことは、それに没頭している人々が、キリストの律法をくつがえすことによって、キリストをあがめていると信じ、彼の教義を廃しながら、彼の務めを大いならしめていると信じこんでいることである。実に彼らは、ちょうどユダが、『「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した』ようにして、主をあがめているのだ。 GCJap 303.2
キリストは、このような人々に対して、同じく『あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか』と言われることであろう。彼の血について語りながら、彼の冠を取り去り、福音の進展という名目のもとに、彼の律法のどの部分であれ軽々しく廃することは、接吻をもって彼を裏切ることにほかならない。直接であれ間接であれ、服従のなんらかの部分を廃するというやり方で信仰を説こうとする者、また、神の戒めのどんなに小さいものでも、それを取り消したり、または少しでも弱めたりして、キリストを宣べ伝える者は、この非難を免れることはできない」 GCJap 304.1
「福音を宣べ伝えれば、律法の目的はみな達せられる」と主張する人々に、ウェスレーは答えた。「このことをわれわれは、全く否定する。それは、律法の第一の目的、すなわち、人々に罪を自覚させること、まだ黄泉の淵で眠っている者を覚醒させるということを果たしていない」。使徒パウロは、「律法によっては、罪の自覚が生じる」と宣言している。「人間は、罪を自覚しないかぎり、キリストの贖罪の血の必要を本当には感じない。……われわれの主ご自身も、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である』と言われた。それゆえに、丈夫な者、または、少なくとも自分は丈夫であると思っている者に、医者を与えても意味がないのである。まず、彼らが病人であることを自覚させなければならない。さもないと、彼らは、あなたがたの労力に感謝しないであろう。これと同様に、心が丈夫で、まだ砕かれたことのない者に、キリストを示すことも、意味のないことである」 GCJap 304.2