各時代の大争闘
律法不要論との戦い
ウェスレーの時代の直前に、英国に起こった霊的衰退は、律法廃棄論の教えの結果であった。キリストは道徳律を廃棄されたのであるから、キリスト者はそれを守る必要がない、また、信者は「善行のくびき」から解放されている、と多くの者は主張した。また他の者は、律法の永続性を認めながらも、牧師が人々にその戒めに従うように勧めることは無用であると言った。なぜならば、神が救いに選ばれた人々は、「抵抗できない神の恵みの衝動にかられて、敬虔と徳の実行へと導かれる」し、他方、永遠の滅びの運命にある者は、「神の律法に従う力を持っていない」からである、というのであった。 GCJap 300.2
そのほかにも、「選ばれた者は、恵みを失い、神の愛顧を失うことはあり得ない」と主張し、「彼らが犯す悪行は、真に悪いものではなく、神の律法を犯すものと考えるべきではない。したがって、彼らの罪を告白することも、悔い改めによって罪から離れることも、必要ではない」というさらに恐るべき結論に到達する者たちもいた。それゆえに、もしも選ばれた者の一人の罪であれば、どんなに恐ろしい罪で「一般に神の律法のはなはだしい違反であると思われているものでも、神の前に罪ではない。なぜならば、神のみ心を痛めたり、律法によって禁じられていたりするようなことは、何一つすることができないというのが、選ばれた者の本質的な、そして顕著な特徴の一つだからである」と彼らは断言するのであった。 GCJap 301.1
このように恐ろしい教義は、後世の人気のある教育家や神学者たちの教えと、本質的に同じである。すなわち、義の標準としての不変の神の律法はない。道徳の標準は、社会自体が示すものであって、常に変化するものである、と彼らは言うのである。こうした考えは、みな、同じサタンの精神の影響によるもので、彼は、罪のない天の住民たちの間にいた時でさえ、神の律法の正当な抑制を破ろうとしたのである。 GCJap 301.2
人間の品性を動かすことができぬように決めたという神の定めの教義は、多くの者に、神の律法を事実上拒否させるに至った。ウェスレーは、この律法廃棄論者たちの誤りに断固として反対し、律法廃棄論に至らせるこの教義は、聖書に反するものであることを示した。「すべての人を救う神の恵みが現れた」「これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた」(テトス2章11節、テモテ第一・2章3~6節)。すべての人が救いの道を悟ることができるように、神の霊が豊かに与えられている。こうして「まことの光」であられるキリストは、「すべての人を照」らされる(ヨハネ1章9節)。人は、生命の賜物を故意に拒否することによって、救いを受け損じるのである。 GCJap 301.3