各時代の大争闘

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宗教改革におけるカルバンの位置

彼らにさらに大きな力を与えるために、宗教裁判所再建の教書が出された。この恐ろしい裁判所はカトリック国においてさえ、嫌悪の念をもって見られていたにもかかわらず、法王教の支配者たちによってふたたび設置され、白日の下では行いえないような残忍な行為が、ひそかな牢獄において行われた。多くの国々において、国家の花とも言うべき幾千幾万の純潔で高潔な人、最も知的で高い教養を持った人、敬虔で献身的な牧師、勤勉で愛国的な市民、聡明な学者、才能ある芸術家、技量ある職人などが殺され、あるいは他国に逃れねばならなかった。 GCJap 271.2

ローマは、このような方法で、宗教改革の光を消し、人間から聖書を取り去り、暗黒時代の無知と迷信を回復しようとした。しかし、神の恵みのもとに、そしてルターに続いて神が起こされた高潔な人々の努力によって、プロテスタント主義はくつがえされなかった。その力は、諸侯の好意や武力に頼ってはならなかった。最も小さい国々、最もつつましく力ない国々が、その要塞となった。それは、滅亡をはかる強敵のただ中にあった小さなジュネーブであった。また、北海の沿岸にあって、当時強大さと富を誇ったスペインの圧政に対抗していたオランダであった。また、宗教改革が勝利したのは、荒涼とした不毛のスウェーデンであった。 GCJap 271.3

カルバンは、三〇年近くジュネーブで働いた。最初は、聖書の道徳を守る教会の設立のため、その後は、ヨーロッパ全体に宗教改革を進展させるためであった。彼の公の指導者としての行動は、無傷ではなく、彼の教義にも誤りがなかったわけではない。しかし、彼は、その当時特に重要であった真理を宣布する器であった。彼は、急速に回復しつつあった法王権に対抗して、プロテスタント主義の原則を維持した。また、ローマの教えのもとに助長された高慢や腐敗の代わりに、単純で純潔な生活を改革教会において促進させた。 GCJap 272.1

ジュネーブから、印刷物や教師が出ていって、改革の教義を広めた。各地の迫害を受けた人々が、この地点に、教えと勧告と励ましを求めた。カルバンの都市ジュネーブは、西ヨーロッパ全体のかり立てられた改革者たちの避難所となった。幾世紀も続いた恐ろしい嵐を逃れて、避難者たちがジュネーブの門に来た。家と親族を離れ、飢え、傷ついた彼らは、ここで温かく迎えられて看護された。彼らは、ここに住みつき、その技量、学問、敬虔さによって、この都市を祝福した。ここに避難した者の多くは、ローマの圧政に対抗するために自国に帰っていった。勇敢なスコットランドの改革者、ジョン・ノックス、多くの英国の清教徒たち、オランダやスペインのプロテスタントたち、また、フランスのユグノーたちは、彼らの故国の暗黒を照らす真理のたいまつを、ジュネーブから持っていったのである。 GCJap 272.2