各時代の大争闘
改革者ベルカン
苦難と嘲笑の中で、勇敢にキリストのあかしを立てたのは、卑しい貧民だけではなかった。城や王宮の邸宅に、真理を、富や地位、あるいは生命よりも高く評価した気高い人々があった。堂々たる武装の下に、司教の衣や冠をいただいた人々よりも、高尚で堅実な精神が隠されていた。ルイ・ド・ベルカンは、貴族の出であった。彼は、勇敢で、上品な騎士で、学問に熱心で、その動作は洗練され、道徳的に潔白であった。ある著者は次のように言っている。「彼は、法王制機構の熱心な支持者で、ミサや説教を熱心に聞いた。……そして、彼のすべての他の美徳に加えて、ルター派に対して特別の嫌悪を持っていた」。しかし、他の多くの者と同様に、彼は摂理によって聖書に導かれ、そこに「ローマの教義ではなくて、ルターの教義」を見いだして驚いた。その後、彼は、福音のためにすべてをささげたのである。 GCJap 249.2
「フランス貴族中の最も博学な者」であった彼の天才と雄弁、不屈の勇気と熱心、そして宮廷における影響力(彼は国王から愛顧を受けていた)などの理由で、多くの者は、彼はフランスの改革者になる運命にあると思った。「もしフランソア一世が第二の選挙侯であったなら、ベルカンは第二のルターになっていたことであろう」とベザは言った。「彼は、ルターより始末に負えない」と法王側は叫んだ。実際、彼は、フランスの法王側の人々から、ルター以上に恐れられた。彼らは、彼を異端者として投獄したが、彼は王に釈放された。争闘は、長年続いた。フランソアは、ローマと改革との間をぐらつき、修道士たちの激しい熱意を許したり、禁じたりした。ベルカンは、法王側の当局者によって三度投獄された。しかし、日ごろから彼の天才と高潔な品性を賞賛していた王は、彼を釈放し、彼が教権の敵意の犠牲になることを拒んだ。 GCJap 250.1
ベルカンは、フランスにおいて彼の身に迫る危険について繰り返し警告を受け、自発的に逃亡して身の安全を確保した人々の例にならうように勧められた。臆病で、迎合的なエラスムスは、学問的には非常に優れていたけれども、真理のためには生命も栄誉も捨てるというあの道徳的偉大さに欠けていて、ベルカンに次のように書いた。「どこかの国の大使として送られることを求めてはいかがであろう。ドイツに行って旅をされよ。あなたは、ベダを知っている。彼は、一千の頭をもった怪物のように、至るところに毒気を放っている。あなたの敵の数は多い。あなたの主張がイエス・キリストの主張よりよいものであれば、彼らは、あなたを無残に殺すまでは手放さないであろう。王の保護に頼りすぎてはならない。とにかく、神学の教授間において、わたしに累を及ぼさないでほしい」 GCJap 250.2
しかし、危険が増すにつれて、ベルカンはますます熱心になった。彼は、エラスムスの政略的で自己本位の勧告に従うどころか、かえって、いっそう大胆な手段に出る決意をした。彼は、真理を擁護するだけでなく、誤りを攻撃するのであった。法王側が彼に向けようとした異端の非難を、彼は彼らに向けたのである。彼の最も激烈な反対者たちは、偉大なパリ大学の神学部の、学識ある博士たちや修道士たちであった。 GCJap 250.3
パリ大学は、パリだけでなく、フランス全体においても最高の宗教的権威の一つであった。ベルカンは、この博士たちの著書から、一二の論題を掲げて、それが「聖書に反するもので、異端である」ということを公然と宣言した。そして彼は、王にその論争の審判官になることを請うた。 GCJap 251.1