患難から栄光へ

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第39章 カイザリヤにおける裁判

本章は使徒行伝24章に基づく AA 1515.1

パウロがカイザリヤに到着してから5日後に、告訴人たちは、彼らが顧問として頼んだテルトロという弁護人を連れて、エルサレムからやって来た。この件の審問は、直ちに開かれることが許された。そこで、パウロは、裁判廷に呼び出されて、「テルトロは論告を始めた」。狡猾な弁護人は、ローマの総督には、へつらいのほうが、事実と正義についての簡単な陳述よりも効果があると判断し、まずペリクスを賞賛して、彼の弁論を始めた。「ペリクス閣下、わたしたちが、閣下のお陰でじゅうぶんに平和を楽しみ、またこの国が、ご配慮によって、あらゆる方面に、またいたるところで改善されていることは、わたしたちの感謝してやまないところであります」。 AA 1515.2

テルトロはここで、しらじらしい偽りを平気で言った。というのは、ペリクスの品性は、卑劣で卑しむべきものだったからである。彼について、次のように言われていた。「彼は、あらゆる種類の欲望と残酷な行為において、奴隷の気質をもって王の権力を振るった」(タキトゥス『歴史』第5章第9節)。テルトロの話を聞いた人々は、彼のへつらいの言葉が偽りであることを知っていた。しかし、真理を愛するよりは、パウロを罪に定めようとする願いのほうが強かった。 AA 1515.3

テルトロは彼の陳述の中で、もし証拠立てられるとすれば、政府に対する反逆罪に値する罪をパウロに負わせた。テルトロは言った。「この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります、この者が宮までも汚そうとしていたので(あります)」。それからテルトロは、ユダヤ人が彼らの律法に従って彼をさばこうとしていた時に、エルサレムの兵営の千卒長ルシヤが、パウロを強奪し去ったので、ペリクスの前にこの件が訴えられることになったと言った。このような言葉は、ユダヤの裁判廷にパウロを引き渡すことを総督に促すためのものであった。そこにいたユダヤ人は、すべての告発を熱烈に支持し、囚人パウロに対する彼らの憎しみを隠そうとしなかった。 AA 1515.4

ペリクスは、パウロを告発する人々の性質と品性とを読み取る十分な洞察力を持っていた。ペリクスは、彼らが何の目的で彼にへつらったかを知った。そして彼はまた、彼らがパウロに対する告発の十分な証拠を提出し得ないことをも見た。彼は被告に向かって、自己の弁明をするように合図した。パウロは、儀礼的なむだな言葉を言わないで、簡単に、ペリクスの前で自分を弁護できることを非常にうれしく思うと言った。それは、ペリクスが、長年にわたって総督を勤め、ユダヤ人の律法と習慣をよく理解していたからである。パウロは、彼に対する告発が、1つとして真実のものではないことを明らかに示した。彼は、エルサレムのどの場所においても、騒ぎを起こしたことはな く、また、神殿を汚してもいなかった。彼は、次のように言った。「そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません」。 AA 1515.5

彼は、「彼らが異端だとしている道にしたがって」、彼の先祖たちの神を礼拝していたことを認めたが、しかし「律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを」常に信じ、聖書の明白な教えに一致して、死者の復活を信じていることを主張した。さらに彼は、彼の生涯の主要な目的は、「神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように」することであると述べた。 AA 1516.1

彼は率直で誠実な態度で、エルサレムを訪問した目的と、捕らえられて裁きを受けた事情を話した。「さてわたしは、幾年ぶりかに帰ってきて、同胞に施しをし、また、供え物をしていました。そのとき、彼らはわたしが宮できよめを行っているのを見ただけであって、群衆もいず、騒動もなかったのです。ところが、アジヤからきた数人のユダヤ人が——彼らが、わたしに対して、何かとがめ立てをすることがあったなら、よろしく閣下の前にきて、訴えるべきでした。あるいは、何かわたしに不正なことがあったなら、わたしが議会の前に立っていた時、彼らみずから、それを指摘すべきでした。ただ、わたしは、彼らの中に立って、『わたしは、死人のよみがえりのことで、きょう、あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです」。 AA 1516.2

パウロは、熱誠こめて真心から語ったので、彼の言葉には、人々を感動させる力があった。クラウデオ・ルシヤは、彼のペリクスへの手紙の中で、パウロの行動に関して同様の証言をしている。さらに、ペリクス自身、多くの者が想像する以上に、ユダヤの宗教について深い知識を持っていた。パウロの明白な事実の陳述によって、ペリクスは、ユダヤ人がどのような動機に動かされて、パウロを扇動と反逆の罪に陥れようとしているかを、さらに明らかに理解することができた。ペリクスは、ローマの市民を不当に罰して彼らに満足を与えることも、あるいは、パウロを彼らに引き渡して、正当な裁判をせずに死刑に処することもしたくなかった。とは言え、ペリクスは、私利私欲以上の高尚な動機を知らす、賞賛を愛する心と昇進を欲する心に支配されていた。彼は、ユダヤ人を怒らせることを恐れたので、パウロに罪がないと知りつつも、彼を全面的に釈放することを差しひかえた。そこで、彼は、ルシヤが来るまで裁判を延期することに決め、「千卒長ルシヤが下って来るのを待って、おまえたちの事件を判決することにする」と言った。 AA 1516.3

パウロは囚人ではあったが、ペリクスは百卒長に、「彼を寛大に取り扱い、友人らが世話をするのを止めないようにと、命じた」。 AA 1516.4

この後しばらくして、ペリクスと彼の妻ドルシラは個人的にパウロを呼び出して、「キリスト・イエスに対する信仰のことを」彼から聞いた。彼らは、これらの新しい真理を、喜んで、熱心にさえ聞いたのであるが、もし彼らが、ふたたび聞くことのないこれらの真理を拒否するならば、これらの真理は、神の日に彼らを罪に定める速やかなあかしとなるのである。 AA 1516.5

パウロは、これを神がお与えになった機会だと思い、忠実にそれを活用した。彼は、自分を殺すことも、自由にすることもできる人の前に立っていることを知っていた。それでも彼は、ペリクスやドルシラに賞賛やへつらいの言葉を言わなかった。彼は、自分の言葉が、彼らにとっては、生命のかおりとなるか、あるいは死のかおりとなるかであることを知っていた。だから、彼は利己的な考えを全く忘れ去って、彼らに自分たちの陥っている危険を認めさせようとしたのである。 AA 1516.6

パウロは、福音が、彼の言葉に耳を傾けるすべての者に対して、要求する権利を持っていることを自覚した。すなわち、やがて彼らは、大いなる白いみ座のまわりの純潔な清い人々の中にいるか、それとも、キリストが、「不法を働く者どもよ、行ってしまえ」と言われる人々の中にいるかのどちらかになるのである(マタイ7:23)。彼は、天の審判廷において、彼の聴衆の一人一人に会い、ただ彼のすべての言行だけでな くて、彼の言葉と行為の動機と精神に対しても、言い開きをしなければならないことを知っていた。 AA 1516.7

ペリクスの行動は、非常に凶暴で残酷であったので、彼の品性と行為に欠陥があることをあえてほのめかした者は、これまでほとんどなかった。しかし、パウロは、人を恐れなかった。彼は、率直に、キリストに対する彼の信仰とその信仰の理由を表明し、特に、クリスチャン品性に不可欠な徳について語ったのであったが、彼の前にいる高慢な夫婦は、はなはだしくこうした徳に欠けていたのである。 AA 1517.1

彼は、ペリクスとドルシラの前に、神の品性、すなわち、神の義、正義、公正、神の律法の性質などを高く掲げた。彼は、まじめに生活して、節制し、情欲を理性の支配の下におき、神の律法に従い、肉体的、知的能力を健康な状態に保つことが、人間の本分であることを明確に示した。彼は、すべての者が自分の行ったことに応じて報いを受ける審判の日が、必ず来ることを宣言した。そしてその時には、富も地位も、あるいは称号も、人に神の恵みを得させ、または、罪の結果から逃れさせる力がないことが、明らかにされるのである。彼は、現世が、来世のための準備の時であることを示した。もし人が、現在の特権と機会をなおざりにするならば、永遠の損失をこうむるのである。噺たな恩恵期間は、もはや与えられないのである。 AA 1517.2

パウロは特に、神の律法の遠大な要求について詳しく語った。パウロは、律法が人間の道徳性の奥深い秘密をさぐり、他の人々が見も知りもしない隠れたことをあらわに示すものであることを示した。手が行い、または口が語ることなど、外的生活があらわすことは、人間の道徳的品性を十分に示していない。律法は彼の思想と動機と目的を探る。人目に触れずにひそんでいる嫉妬、憎しみ、情欲、野心などの隠れた邪念、また、魂の奥深くで思いめぐらされたが、機会がなかったために実行されなかった邪悪な行為など、これらすべてを、神の律法は有罪と宣告するのである。 AA 1517.3

パウロは、罪のための大いなる犠牲キリストに、聴衆の心を向けようと努力した。彼は、犠牲が、きたるべき良いことの影であることを示し、その次に、これらすべての儀式の実体として、キリストを紹介したのである。実に、彼こそ、これらの儀式が、堕落した人類の生命と希望の唯一の根源として指し示したお方であった。古代の聖人たちは、キリストの血を信じる信仰によって救われた。彼らは、犠牲の動物の死の苦しみを見て、各時代の深淵のかなたに、世の罪を取り除く神の小羊を見たのである。 AA 1517.4

神が、造られたすべてのものの愛と服従を要求なさるのは、当然のことである。神は、律法の中に、義の完全な標準をお与えになった。しかし、多くの者は、彼らの創造主を忘れ、神のみこころに反して自分勝手な道を選んだ。彼らは、天のように高く、宇宙のように広い愛に、敵意を示すのである。神は邪悪な人々の標準に迎合するために、神の律法の要求を下げることはおできにならない。また、人間は自分の力で、律法の要求に従うこともできないのである。罪人は、ただ、キリストを信じる信仰によって、罪から清められ、創造主の律法に従うことができるようになるのである。 AA 1517.5

こうして、囚人パウロは、ユダヤ人と異邦人に対する神の律法の要求について力説し、軽べつされたナザレ人、イエスを、神のみ子、世のあがない主として紹介した。 AA 1517.6

ユダヤの王女ドルシラは、彼女が恥知らずにも違反した律法の、神聖な性質を熟知していたのであるが、カルバリーの救い主に対する偏見のゆえに、心をかたくなにして、いのちのことばを受け入れなかった。しかしペリクスは、それまで1度も真理を聞いたことがなかった。そして、神の霊が彼の心に罪の自覚を与えた時に、彼は激しく動揺した。今や、良心が目覚め、良心の声が聞こえてきた。そしてペリクスは、パウロの言葉が真実であると感じた。過去の罪の記憶がよみがえった。彼の若い時の放蕩と流血の秘密、また、後年の暗い記録が、恐ろしいばかりに鮮やかに彼の前にあらわれた。彼は、自分が、放蕩で残酷で強欲な人間であることを悟った。真理がこのように彼の心に罪を自覚させたことは、これまでになかっ た。彼が、このように恐怖におののいたこともなかった。彼の生涯の犯罪の秘密がすべて、神の前に明らかであって、彼はその行為に従って審判を受けなければならないという思いが、彼をふるえおののかせた。 AA 1517.7

しかし、彼は、罪を自覚して悔い改めに至る代わりに、これらの不快な記憶を忘れ去ろうとした。そこで、パウロとの会談は短縮された。「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」と彼は言った。 AA 1518.1

ペリクスの行動とピリピの獄吏の行動との間には、なんと大きな相違があったことだろう。パウロがペリクスの囚人であったのと同様に、主のしもべたちは獄吏の囚人であった。彼らが神の力に保護されているという証拠、苦難と屈辱のもとにあって喜び、地震によって地がゆれ動く時に恐れず、キリストのようなゆるしの精神を彼らが持っていることなどが、獄吏の心に罪を悟らせるに至り、彼は、ふるえおののいて罪を告白し、ゆるしを与えられた。ペリクスもふるえた。しかし、彼は悔い改めなかった。獄吏は、喜んで神の霊を彼の心と彼の家庭に迎え入れた。ペリクスは、神の使者に去ることを命じた。1人は神の子となって天国の世嗣となることを選び、もう1人は悪をなす者と運命を共にしたのである。 AA 1518.2

その後、2年の間、パウロに対して何の処置も取られなかったが、しかし彼は、監禁されたままであった。ペリクスは、幾度か彼を訪れ、彼の話に熱心に耳を傾けた。しかし、彼の、一見友好的な態度の真の動機は、利益を得たいからであった。そして彼は、多額の金を支払えば釈放されることができると、ほのめかすのであった。しかし、パウロは、高貴な品性の持ち主であったので、わいろを使って自由を得ることは、とうていできなかった。彼は、何の犯罪も犯していなかったのであるから、自由を得るためにあえて悪を犯そうと思わなかった。さらに、彼は、身代金を支払いたいと考えたとしても、貧しくて彼自身はとても払えなかった。そして、自分のために、信者たちの同情と寛大さに訴えたくはなかった。また彼は、自分が神の手の中にあるという自覚を持っていた。だから、自分に対する神のみこころに介入したくなかったのである。 AA 1518.3

ペリクスは、ついに、ユダヤ人に対する重大な罪悪のゆえにローマに召還された。ペリクスは、召還に答えてカイザリヤを去る前に、「ユダヤ人の歓心を買おうと思って」、パウロを監禁したままにしておいた。しかし、ユダヤ人の信任をもう1度得ようとするペリクスの試みは、うまく行かなかった。彼は、恥をこうむって免職された。そして、ポルキオ・フェストが彼の後任として任命を受けて、カイザリヤに司令部を設けた。 AA 1518.4

パウロが、正義、節制、未来の審判などについて論じた時に、天からの光がペリクスの心に輝いた。それは、彼が自分の罪を認めて、それを捨て去るために、天から与えられた機会であった。しかし、彼は、神の使者にむかって、「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」、と言った。彼は、憐れみの最後の機会を軽視した。その後、彼は、2度と神からの召しを受けなかったのである。 AA 1518.5