国と指導者
第59章 理想のイスラエル
今日地上の神の教会は、永遠の福音をあらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えて、「イスラエルは芽を出して花咲き、その実を全世界に満たす」という古代の預言を成就している(イザヤ27:6)。イエスの弟子たちは、天使たちと力を合わせて、急速に地の荒れ地を占領している。そして、彼らの働きの結果、多くの尊い魂が豊かに実りつつある。今日、献身的教会の働きによって、聖書の真理はこれまでになかったほどに広く伝えられて、幾世紀も前にアブラハムとすべてのイスラエル人、および各時代の神のすべての教会に与えられた約束の祝福を人々にもたらしている。「わたしは……あなたを祝福し……あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:2)。 PK 646.8
この祝福の約束は、イスラエルの人々が、捕囚の国々から帰還したあとの何百年かの間に、その大半が成就すべきものであった。今日キリストの再臨のための準備が行われているように、全地がキリストの初臨に対して準備をすることが、神の計画であった。屈辱的捕囚の年月が終わった時に、神はゼカリヤによって、神の民イスラエルに恵み深い確証をお与えになった。「わたしはシオンに帰って、エルサレムの中に住むδエルサレムは忠信な町ととなえられ、万軍の主の山は聖なる山と、となえられる。」そして神の民について、「見よ、……わたしは彼らの神となって、共に真実と正義とをもって立つ」と言われた(ゼカリヤ8:3、7、8)。 PK 646.9
こうした約束は、服従を条件にしたものであった。イスラエルの人々の、捕囚前の特徴となっていた罪は繰り返してはならなかった。主は再建に携わっていた人々に次のように勧告をお与えになった。「真実のさばきを行い、互に相いつくしみ、相あわれみ、やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、しえたげてはならない。互に人を害することを、心に図ってはならない。「あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行わなければならない」(同7:9、10、8:16)。 PK 646.10
こうした義の原則を実行する者に約束された物質的また霊的報賞は、実に豊かなものであった。主は言われた。「そこにはぐ平和と繁栄との種がまかれるからである。すなわちぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を与える。わたしはこの民の残れる者に、これをことごとく与える。ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする」(同8:12、13)。 PK 646.11
イスラエルの人々は、バビロンの捕囚によって完全に偶像礼拝から立ち直った。彼らは帰還後、宗教的教えに大いに心を用い、真の神の礼拝について、 律法と、預言者によって記されたことを研究することに留意した。神殿の再建によって、彼らは聖所の儀式を十分に行うことができた。彼らはゼルバベル、エズラ、ネヘミヤなどの指導のもとに、主のすべての戒めとさだめを守ることを繰り返し契約した。その後の繁栄の時は、神が喜んで彼らを受け人れ、許してくださったことの十分な証拠であった。しかし彼らは、致命的にも遠くを見ることができずに、幾度となく彼らの輝かしい運命に離反し、無数の群衆にいやしと霊的生命をもたらすところのものを、自分自身のものとしてしまったのである。 PK 646.12
こうして神のみこころの達成の失敗が、マラキの時代に著しくあらわれた。主の使者は、イスラエルから物質的繁栄と霊的力とを奪っていた罪悪を厳しく責めた。預言者は、罪人を贖責するにあたって、祭司も国民も容赦しなかった。マラキによって、「イスラエルに臨んだ主の言葉の託宣」は、過去の教訓を忘れてはならないということと、主が、イスラエルの家となされた契約は忠実に守られるということであった。神の祝福は、真心からの悔い改めによってのみ与えられるものである。「あなたがたは、神がわれわれをあわれまれるように、神の恵みを求めてみよ」と、マラキは訴えたのである(マラキ1:1、9)。 PK 647.1
しかし、人類の贖罪のための代々にわたる計画は、イスラエルの一時的失敗によって挫折するものではない。預言者が語りかけた人々が、その言葉を無視したとしても、主のみこころは着実にその完遂に向かって進んでいかなければならなかった。主は、その使者によって宣言された。 PK 647.2
「日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が国々のうちにあがめられているからである」(同1:11)。 PK 647.3
神がレビの子孫と結ばれた「生命と平安」の契約、すなわち、もし守るならば限りない祝福をもたらしたものを、主は今ここで、かつては霊的指導者でありながら、罪のために「すべての民の前に侮られ、卑しめられるように」なった人々に更新しようと申し出られたのである(同2:5、9)。 PK 647.4
悪を行う人々には、来たるべき審判の日と、すべての罪人を速やかに滅ぼされる主のみこころについて、厳粛な警告が発せられた。しかし誰1人として、希望を与えられずに放置されてはいなかった。マラキの審判の預言には、かたくなな人々に対して神と和らぐようにという招待が伴っていた。「わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろう」と主は言われるのであった(マラキ3:7)。 PK 647.5
このような招待には、すべての人が答えなければならないと思うのである。天の神は誤りに陥りやすい人々に神に帰るように訴えておられるのである。それは彼らが、地上における神の働きを推進するために、再び神と協力するためである。主は手をのばしてイスラエルの手を取り、彼らを克己と自己犠牲の狭い道に導き、主と共に神の子の相続権にあずからせようとしておられる。彼らは、その訴えに耳を傾けるであろうか。彼らは、彼らの唯一の望みを認めることであろうか。 PK 647.6
マラキの時代のイスラエルの人々が、彼らの高慢な心を屈服させて直ちに愛の服従をなし、心から協力することを躊躇したとは、なんという悲しい記録であろう。「われわれはどうして帰ろうか」と彼らが答えていることは、彼らの自己弁護をあらわしている。 PK 647.7
主は、神の民の特有の罪の1つを示されるのである。「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる」と、彼は言われる。不服従な人々はなお罪を認めず、「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか」と尋ねる(同3:7、8)。 PK 647.8
まことに主の答えは明確である。「10分の1と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。わたしの宮に食物のあるように、10分の1全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否か を見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる」(同3:8下句~12)。 PK 647.9
神は人間の手のわざを祝福される。それは彼らが、神の分を神にお返しするためである。神は、彼らに日光と雨とをお与えになる。神は草や木を繁茂させられる。神は、健康と財産を得る力をお与えになる。すべての祝福は、神の恵み深い手から来る。そして神は、男も女も、10分の1と献げ物、すなわち感謝の献げ物、心からの献げ物、また罪祭などによって神の分をお返しして、彼らの感謝を表すことを望まれるのである。彼らは、神のぶどう畑が荒れ果てたままにならないように、神の奉仕のために彼らの財産を献げなければならない。彼らは、もし神が彼らの立場にあれば、何をなさるであろうかを探り調べなければならない。彼らはあらゆる困難なことについて、神に祈り求めなければならない。彼らは、世界のあらゆる場所における神の働きを推進するために、私心のない関心を示さなければならない。 PK 648.1
イスラエルの人々は、異教の敵の圧迫から学んだのと同じく、旧約聖書の最後の預言者マラキが伝えた言葉によって、真の繁栄は神の律法に従うことにあるという教訓を学んだ。しかし、多くの人々にとって服従は、信仰と愛からあふれ出るものではなかった。彼らの動機は利己的なものであった。 PK 648.2
国家を強大なものにするための手段として、外面的奉仕が行われた。選民は世界の光とはならず、偶像礼拝に陥らない安全策として、自分たちを世界から隔離してしまった。神が、神の民と異邦人との雑婚を禁じ、イスラエルが周囲の国々の偶像礼拝の習慣に加わることを禁じてお与えになった制限命令は、はなはだしく曲解されて、イスラエルの人々と他のすべての国民とを隔離する壁が築かれるに至った。こうして神が、世界に与えることをイスラエルにお命じになった祝福そのものから、他の人々を締め出すに至った。 PK 648.3
それと共にユダヤ人は、彼ら自身の罪のゆえに神から離反していった。彼らは、象徴的儀式の深い霊的意義を認めることができなかった。彼らは自らを義とし、自分たちの行為、犠牲や儀式そのものに頼り、こうしたことのすべてが指示していた主の功績に頼ることをしなかった。こうして彼らは、「自分の義を立てようと努め」自己満足的形式主義に凝り固まってしまった。彼らは、神の聖霊と恵みとに欠けていたので、その欠点を宗教的儀式と礼典を厳格に守ることによって補おうとした。彼らは、神ご自身がお命じになった儀式では満足せずに、彼ら自身が考案した無数の禁令によって、神の戒めを繁雑なものにした。彼らは、神から遠く隔たれば隔たるほどますます厳格にこうした形式に固執したのである。 PK 648.4
こうした微細な点にわたった繁雑な禁令のために、人々が、実際に律法を守ることは不可能であった。十戒に示された義の大原則と、象徴的儀式に示されていた輝かしい真理は、共におびただしい人間の伝説と戒律の下に埋もれてわからなくなってしまった。真に神に仕えようと望む者、そして祭司やつかさたちの命じるおきてを全部守ろうと努めた人々は、重苦しい荷の下であえぎ苦しんだ。 PK 648.5
イスラエルの人々は国をあげて、メシヤの来臨を待望しながらも、その心と生活においては、神から遠くかけ離れていたので、約束の贖い主がどのような方で、どんな任務をもっておられるかを真に理解することができなかった。彼らの心は、罪からの救いと潔めにあずかることの栄光と平和を求めるかわりに、国家的敵からの解放と、世俗的権力の回復に向けられていた。彼らは、メシヤが征服者として来られて、すべてのくびきを砕き、イスラエルを高めて、あらゆる国々を支配するに至ることを望んだ。こうしてサタンは、救い主が来られた時に、彼を否定するように人々の心を備えることに成功した。彼らはその心の誇りと、 メシヤの性質とその任務についての誤った考え方とによって、主がメシヤであられることの証拠を正しく評価することができなかったのである。 PK 648.6
ユダヤ民族は1000年以上にわたって、約束された救い主の来臨を待望していたのであった。彼らの最も輝かしい希望は、このでき事にかかっていた。1000年の長きにわたって、歌に預言に、神殿の儀式に家庭の祈りに、救い主のみ名は大切に覚えられてきた。それにもかかわらず彼が来られた時に、人々は、彼が長く待望していたメシヤであることを認めることができなかった。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)。愛する神のみ子は、世俗を愛する彼らの心にとっては、「かわいた土から出る根のよう」であった。彼らの目にとって、彼は、見るべき姿がなく、威厳もな」かった(イザヤ53:2)。彼らは彼に慕うべき美しさを認めなかった。 PK 649.1
ユダヤ民族の中におけるナザレのイエスの全生涯は、彼らが農夫として雇われていたぶどう園の所有主の、正当な権利を快く認めようとしなかった態度にあらわれた彼らの利己心に対する譴責であった。彼らは、主の誠実と敬神の模範を憎んだ。そして、最後の試練がきた時に、すなわち服従して永遠の生命を受けるか、それとも服従しないで永遠に滅びるかを意味した試練に会った時に、彼らはイスラエルの聖者を拒んで、彼をカルバリーの十字架につけることになってしまった。 PK 649.2
キリストは、彼の地上のお働きの終わり近くにおいて、ぶどう園のたとえをお語りになって、イスラエルに与えられた豊かな祝福にユダヤの教師たちの注意をお引きになった。そして、これらの祝福によって神が彼らに服従を求めておられることをお示しになった。キリストは、彼らが服従によって達成し得たはずの輝かしい神のみこころを彼らにお示しになった。彼は、将来の幕を開いて、彼らが神のみこころを達成しないために、国民全体が神の祝福を受け損じて、国家に破滅をもたらすことをお示しになった。 PK 649.3
「ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」とキリストは言われた(マタイ21:33)。 PK 649.4
こうして、救い主は預言者イザヤが幾世紀も前に、「イスラエルの家」であると言った「万軍の主のぶどう畑」に言及されたのである(イザヤ5:7)。 PK 649.5
キリストは引き続き言われた。ぶどう園の主人は、「収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した」(マタイ21:34~39)。 PK 649.6
キリストは祭司たちの前に、彼らの罪悪の中の最も邪悪な行為を描き出された上で、彼らにお尋ねになるのである。「このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」祭司たちは深い関心をもってこの物語に耳をかたむけていた。そして、扱われている主題が、彼ら自身に関することであるとも気づかずに、人々と共に答えた。「悪人どもを皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」(同21:40、41)。 PK 649.7
彼らははからずも、自分自身の運命を宣告したのである。イエスは、彼らをごらんになった。そして彼らは、彼の凝視のもとにあって、彼が彼らの心の秘密を読まれたことを知った。イエスの神性が、間違いを許さない力で彼らの前にひらめいた。彼らは、農夫が自分たちを指していることを認めて、思わず、「断じてそうではない」と叫んだのである。 PK 649.8
キリストは厳粛に、そして悲しみながらお尋ねになった。「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがない のか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(同21:42~44)。 PK 649.9
キリストは人々が彼を受け入れるならば、ユダヤ民族を破滅の運命から救いたいと望まれた。しかし、彼らはねたみとしっと心を抱いて和解しようとしなかった。彼らはナザレのイエスをメシヤとして受け入れないことを決意した。彼らは、世の光を拒んだのであるから、その後の彼らの生涯は真夜中のような暗黒に閉ざされてしまった。預言された破滅がユダヤ民族を襲った。彼ら自身の常軌を逸した恐ろしい怒りが彼らを滅ぼした。彼らは盲目的激怒を抱いて互いに殺し合った。彼らはその反逆的で頑強な高慢さによって、ローマの征服者たちの怒りをかった。エルサレムは破壊され、神殿は荒廃し、その場所は畑のように耕された。ユダの人々は最も恐るべき死に方をして滅び失せた。幾百万という人々が、異邦の地に奴隷として売られた。 PK 650.1
選民であるイスラエルによって、神が世界のためになそうとご計画になったことを、神はついに今日の地上の教会によって達成なさるのである。神は忠実に「季節ごとに収穫を納める」神の契約を守る「ほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与え」られた。主のお働きを自分たちの働きとする真の代表者を、主がこの地上に持っておられなかった時はなかった。こうした神のための証人たちは、霊的イスラエルの中に数えられる。そして、主なる神が古代の人々に約束されたすべての契約が、彼らに成就するのである。 PK 650.2
今日神の教会は、失われた人類に対する神の救いの計画を何の妨げもなく、その完成に向かって推進することができる。 PK 650.3
神の民は幾世紀にわたってその自由を束縛されてきた。福音をその純粋なままに説教することが禁じられて、人間の法律に従わない者には、最も厳しい罰が課せられた。そのために主の大いなる霊的ぶどう園はほとんど全くといっていいほど、働きが行われなかった。人々は神の言葉の光を奪われた。誤りと迷信の暗やみが真の宗教の知識を今にもぬぐい去ろうとした。この地上の神の教会は、イスラエルの人々が、捕囚期間中バビロンに捕らえられていたのと全く同じように、この長い冷酷な迫害期間中、捕囚状態にあったのである。 PK 650.4
しかしありがたいことに、神の教会はもはやつながれていない。バビロンから救い出された時に、神の民に与えられた特権が、霊的イスラエルに回復された。地の至る所で、人々は、黙示録の筆者ヨハネが、キリストの再臨に先だって宣言されると預言した天からの使命に答えている。「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである」(黙示録14:7)。 PK 650.5
悪の軍勢は、もはや神の教会を捕らえておく力はない。なぜなら「その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた」「大いなるバビロンは倒れた」からである。そして、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」という言葉が、霊的イスラエルに与えられている(同14:8、18:4)。異国に捕らわれていた人々が、「バビロンのうちからのがれ出」よ、という言葉に従って、約束の国に回復されたように、今日、神を恐れる人々は、霊的バビロンから出よという言葉に心を留めている。やがて彼らは新たにされた地、すなわち天のカナンにおいて、神の恵みの記念として立つのである(エレミヤ51:6)。 PK 650.6
マラキの時代に、悔い改めない人々はあざけりながら、「さばきを行う神はどこにあるか」と問うたが、それに対して厳粛な答えが与えられた。「主は、たちまちその宮に来る。……契約の使者が来る……その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。 PK 650.7
彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビ の子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。その時ユダとエルサレムとのささげ物は、昔の日のように、また先の年のように主に喜ばれる」(マラキ2:17、3:1~4)。 PK 650.8
約束のメシヤが現れようとしていた時に、キリストの先駆者ヨハネは、取税人と罪人よ悔い改めよ。バリサイ人とサドカイ人よ悔い改めよ、「天国は近づいた」と叫んだのである(マタイ3:2)。 PK 651.1
今日、神の任命を受けた使者たちは、エリヤとバプテスマのヨハネの精神と力とを持って、審判に当面した世界の注目を、恩恵期間の終了と王の王、主の主としてのキリストの出現とに関して、やがて起ころうとしている厳粛な諸事件に向けている。間もなくすべての人は、その行為によってさばかれる。神のさばきの時がきた。そして、地上の神の教会の会員には、今にも永遠に滅びうせようとしている人々に、警告の言葉を発する厳粛な責任が負わせられている。われわれは広い世界で耳を傾けるすべての人に、今、行われている大争闘の問題点である原則と、全人類の運命にかかわる原則とを明らかにすべきである。 PK 651.2
間もなくすべての人の運命が永遠に決定される人類最後の恩恵期間において、天地の主なる神は、神の教会がこれまでになかったような行動を起こすことを期待しておられる。主イエスは、現代の真理を知ってキリストにある自由を得た人々を、この地上の他のどんな民よりも恵まれた神の選民としてみなされるのである。そして彼は、彼らが暗やみから驚くべきみ光に招き入れてくださった方のみわざを語り伝えることを期待しておられる。豊かに与えられた祝福は、他の人々に伝えなければならないのである。救いの福音は、あらゆる国民、部族、国語、民族に及ぼなければならない。 PK 651.3
キリストの再臨に先だつ暗黒と不信の時代において、栄光の主は、神の教会に特別の光をお与えになることがいにしえの預言者たちの幻の中で示されていた。彼は、「その翼には、いやす力を備えている」義の太陽として、神の教会の上にのぼられる(マラキ4:2)。そしてすべての真の弟子からは、生命、勇気、援助、真のいやしのための力が発散するのであった。 PK 651.4
キリストの来臨は、この地上歴史の最も暗黒な時代に起こるのである。人の子が来られる寸前の世界の状態は、ノアやロトの時代と同じである。聖書はその時を予見して、サタンはあらゆる偽りの力と「あらゆる不義の惑わし」をもって活動すると言っている(Ⅱテサロニケ2:10)。暗黒、数々の誤った教え、異端、終末時代の惑わしなどの急速な増加によって、サタンの活動を知ることができる。サタンは、単に世俗を捕らえるだけでなく、彼の欺瞞はわれわれの主イエス・キリストの教会と称するところにまで及んでいる。大背教は真夜中の暗やみのようになるのである。神の民にとって、それは試練の夜、涙の夜、真理のための迫害の夜である。しかし、その暗い夜から神の光が輝き出るのである。 PK 651.5
神は「やみの中から光」を照らし出される(Ⅱコリント4:6)。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記1:2、3)。そのように霊的暗黒の夜の中に、神の言葉が、「光あれ」と語られる。神は、神の民に、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」と言われる(イザヤ60:1)。 PK 651.6
「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくにのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」(同60:2)。神の栄光の輝きであられるキリストが、この世界に世の光として来られた。彼は人々に神を代表するために来られた。そして、彼は「聖霊と力とを注がれ……よい働きをしながら……巡回され」たと記されている(使徒行伝10:38)。彼は、ナザレの会堂で次のように言われた。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのであ る」(ルカ4:18、19)。彼が弟子たちにせよとお命しになったのは、これであった。「あなたがたは、世の光である。」「そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:14、26)。 PK 651.7
預言者イザヤも、この働きを描写して次のように言っている。「また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる」(イザヤ58:7、8)。 PK 652.1
こうして、霊的暗黒の夜に、神の教会によって神の栄光が輝き出て、うずくまっている者をかかえ起こし、嘆き悲しむ者を慰めるのである。 PK 652.2
われわれの周囲の至る所に、世界の嘆き悲しむ叫び声が聞こえる。どちらを向いても、貧しい者や困っている者がいる。人生の苦労や悲惨に救いの手を伸べて和らげるのが、われわれの務めである。人の心の欠乏は、ただキリストの愛だけが満たすことができるのである。もしキリストがわれわれのうちに住んでおられるならば、われわれの心は、神からの同情心で満ちあふれる。閉じた泉が開かれて、キリストのような熱烈な愛の泉となる。 PK 652.3
希望を失った者が多くいる。彼らに太陽の光を取りもどそう。勇気を失った者も多い。彼らに励ましの言葉を語ろう。彼らのために祈ろう。生命のパンが必要な人々もある。彼らに神の言葉を読んで聞かせよう。多くの者は、地上のどんな薬も医者もいやすことのできない心の病にかかっている。こうした人々のために祈ろう。彼らをイエスのところに連れていこう。ギレアデに乳香あり、医者であられる主がおられることを彼らに告げよう。 PK 652.4
光は、祝福、すなわち普遍的祝福で、感謝を知らず、汚れ、堕落した世界にその宝を注ぎかけている。義の太陽の光もそれと同じである。罪と悲しみと痛みの暗黒に包まれた全地は、神の愛を知る知識で照らされなければならない。どのような宗派、また地位、階級の人々も、天の御座から出る光から除外されてはならない。 PK 652.5
希望と憐れみの使命は、地の果てまで伝えなければならない。誰でも望む者は、手を伸ばして神の力に頼り神と和らぐことができる。異邦人たちは、もはや真夜中の暗黒に包まれていてはならない。暗黒は、義の太陽の輝かしい光の前から消え去らなければならない。 PK 652.6
キリストは彼の教会が世の光に照らされ、インマヌエルの栄光に輝く改変された一団の人々となるために、あらゆる備えをなされた。すべてのキリスト者が、光と平和の霊的雰囲気に包まれることをキリストは望まれる。彼は、われわれが彼自身の喜びをわれわれの生活にあらわすことを望んでおられる。 PK 652.7
「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」(イザヤ60:1)。キリストは力と大いなる栄光をもって来られる。キリストは、彼ご自身の栄光と父なる神の栄光とをもって来られる。そして聖天使たちが、彼につき従って来る。全世界が暗黒に閉ざされている時に、聖徒たちのすべての住居には光がある。彼らは、キリストの再臨の最初の光を認める。彼の華々しいお姿からは、汚れのない光が輝き出る。そして、贖い主キリストは、彼に仕えたすべての人々からあがめられる。悪人たちは逃げるのであるが、キリストに従った人々は、彼のみ前で喜びに満ちるのである。 PK 652.8
人々の中から贖われた者たちが約束の嗣業を受けるのは、この時である。とうして、彼のイスラエルに対するみこころは、文字通りに成就するのである。神がご計画になることを人間は取り消す力がない。悪の活動のさなかにあっても、神のみこころは着実にその完成に向かって進んでいった。これは分裂した王国の歴史全体を通じて、イスラエルの家について言えることであった。それは今日の霊的イスラエルについても同じである。 PK 652.9
パトモスの預言者は、地が新たにされてイスラエルが回復されるこの時を、はるか幾世紀のかなたに眺 めて次のようにあかしした。 PK 652.10
「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、『救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる』。 PK 653.1
御使たちはみな、御座と長老たちと4つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、『アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン』」(黙示録7:9~12)。 PK 653.2
「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう』」(同19:6、7)。「小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」(同17:14)。 PK 653.3