国と指導者

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第58章 救い主を待望する人々

われわれの祖先が、エデンの故郷を失った日から、神のみ子が罪人の救い主として現れる時まで、「悩みと暗きと」「苦しみのやみ」(イザヤ8:22)の長い幾世紀間を通じて、罪と墓のきずなから人々を解放する救い主の来臨が、堕落した人類の希望の中心であった。 PK 637.2

この希望について、アダムとエバに最初に与えられた暗示は、エデンにおいてへびに向かって言われた宣告であった。主は、彼らの聞いているところでサタンに宣言されたのである。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3:15)。 PK 637.3

罪に陥った2人が、この言葉を聞いて希望を抱いた。サタンの力が砕かれるという預言の中に、彼らは罪の結果もたらされた破滅からの救いの約束を認めたのである。彼らは敵の惑わしに陥って、主の明白な命令にそむいたために、敵の力のもとにあって苦しまなければならなかったが、絶望するには及ぱなかった。神のみ子が、彼らの罪のためにご自身の血潮によってあがなうことを申し出られたのである。彼らには、猶予の期間が与えられ、その期間中に彼らは、キリストの救いの力を信じる信仰によって、もう1度神の子となることができるのであった。 PK 637.4

サタンは首尾よく人間を服従の道から離反させたために、「この世の神」となった。(Ⅱコリント4:4)。かつてアダムのものであった統治権が、横領者の手に移った。しかし神のみ子は、この世界に来て罪の価を払い、こうして人類を贖うだけでなくて、失われた統治権をも回復しようとなさったのである。ミカが次のように預言したのは、この回復のことである。「羊の群れのやぐら、シオンの娘の山よ、以前の主権はあなたに帰ってくる」(ミカ4:8)。使徒パウロはそれを「神につける者が全くあがなわれ」と言っている(エペソ1:14)。また詩篇記者が、「正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる」と言ったのは、人間本来の嗣業がついに回復される同じ時のことを指していたのである(詩篇37:29)。 PK 637.5

神のみ子が、救い主としてまた王として来臨されて、贖いを行われるというこの希望は、人々の心の中から消えたことはなかった。暗いこの世のかなたに、来たるべき現実の世界を信仰によって待望した人々が最初からあった。アダム、セツ、エノク、メトセラ、ノア、セム、アブラハム、イサク、ヤコブなどにより、またその他の勇者たちによって、主は神のみこころの尊い啓示を保存されたのである。こうして、選民イスラエルの人々によって、約束のメシヤが世界に与えられるのであった。彼らによって神は、神の律法の要求と神の愛するみ子の贖罪の犠牲によって救いが成し遂げられることを、人々に告げられたのである。 PK 637.6

イスラエルの希望は、アブラハムが召された時に与えられ、後に彼の子孫に繰り返して与えられた「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」という約束に含まれていた(創世記12:3)。人類を贖うという神のみこころがアブラハムに示された時に、義の太陽が彼の心に輝いた。そして彼の心の暗黒は追い散らされた。そしてついに、救い主ご自身が人間の間を歩き語られた時に、彼は、贖い主の来臨による救いという、輝かしい希望を、家長たちが抱いていたことを、ユダヤ人にあかしされた。「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」とキリストは言われた(ヨハネ8:56)。 PK 638.1

死の床にあった家長ヤコブが、息子のユダに与えた祝福の言葉の中に、この同じ祝福された希望が預言されている。 PK 638.2

「ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。 PK 638.3

あなたの手は敵のくびを押え、 PK 638.4

父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。 PK 638.5

つえはユダを離れず、 PK 638.6

立法者のつえはその足の間を離れることなく、 PK 638.7

シロの来る時までに及ぶであろう。 PK 638.8

もろもろの民は彼に従う」。 PK 638.9

(創世記49:8~10) PK 638.10

また約束の国の国境において、世界のあがない主の来臨が、バラムの預言の中に予告されていた。 PK 638.11

「わたしは彼を見る、しかし今ではない。 PK 638.12

わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。 PK 638.13

ヤコブから1つの星が出、 PK 638.14

イスラエルから1本のつえが起り、 PK 638.15

モアブのこめかみと、 PK 638.16

セツのすべての子らの脳天を撃つであろう」。 PK 638.17

(民数記24:17) PK 638.18

堕落した人類のために神がみ子をお送りになるという神のみこころは、モーセによってイスラエルに示されていた。ある時モーセは、彼の死の少し前に次のように言った。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」。モーセは、来るべきメシヤの働きについて、イスラエルに教えるように明白な指示を受けた。「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう」と、主はモーセに言われた(申命記18:15、18)。 PK 638.19

家長時代においては、礼拝の時にささげられていた犠牲が、常に救い主の来臨を人々に思い起こさせていた。そしてイスラエルの歴史を通じて、聖所の務め全体がそうだったのである。幕屋の務めにおいて、そしてそれに代わった聖所の務めにおいて、人々は毎日、型と影によって、キリストが贖い主、祭司、王として来られることについての大真理を教えられた。そして1年に1度、彼らの心は、キリストとサタンとの間の大争闘が終わりを告げ、宇宙の最後の清めが行われて、罪と罪人が除かれる時のことを思わせられたのである。モーセの律法の犠牲と供え物とは、常にはるかにすぐれた務め、すなわち天の務めを指さしていた。 PK 638.20

地上の聖所は、「今の時代に対する比喩である」。そこで供え物やいけにえが共にささげられた。その2つの部屋は、「天にあるもののひな型」であった。われわれの大祭司であられるキリストは、今日「人間によらず主によって設けられた真の幕屋なる聖所で仕えておられる」(ヘブル9:9、23、8:2)。 PK 638.21

主がエデンの園でへびに、「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に」(創世記3:15)と言われた日から、サタンはこの地上の住民に対して絶対的支配権をふるうことができないことを知った。アダムとその子らが神のお定めになった儀式の犠牲を、来たるべきあがない主の型としてささげ始めた時に、サタンは、これら の中に天と地の間の交わりの象徴を見たのである。その後幾世紀間の長きにわたって彼は、絶えずこの交わりを妨げようと努力してきたのである。彼はうまずたゆまず神を誤表し、救い主を予表した儀式を誤って解釈することに努めて、人一類の大多数を陥れるのに成功した。 PK 638.22

神は、ご自分が人々を愛しておられるゆえに、彼らをご自分に和解させるための賜物としてイエスをお与えになることを、人々に教えようと望まれたが、人類の大敵は、神が彼らの滅びるのを喜ぶ方であるかのように思わせようと努めた。こうして神の愛をあらわすために天の神がお定めになった犠牲や儀式は曲解されて、罪人がささげ物や善行によって、神の怒りをいたずらに和らげようとする方法と化してしまったのである。それと共に、サタンは人間に邪悪な欲望を起こさせ、それを刺激して、多くの者が罪に罪を重ねて神から遠く離れ、罪のかせに縛られて、逃れられないようにするのであった。 PK 639.1

ヘブル人の預言者によって文字に書かれた神の言葉が与えられた時に、サタンはメシヤに関する言葉を熱心に研究した。彼は、キリストが人々の間で、苦悩する犠牲として、また勝利する王としてなさる働きについて、紛れもない明瞭さをもって記されている言葉を注意深く調査した。彼は、旧約聖書の巻物の中で、来たるべき方は「ほふり場にひかれて行く小羊のように」であり、「彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていた」とあるのを読んだ(イザヤ53:7、52:14)。 PK 639.2

約束された人類の救い主は、「侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。……彼は……神にたたかれ、苦しめられた」。それにもかかわらず彼はまた「民の貧しい者の訴えを弁護」するために、彼の大いなる力を行使されるのであった。彼は「乏しい者に救を与え、しえたげる者を打ち砕」かれるのであった(イザヤ53:3、4、詩篇72:4)。こうした預言は、サタンをふるえおののかせた。しかし彼は、主が失われた人類を贖うために取られる恵み深い処置を、できることならば妨害しようとする彼の計画を捨てなかった。彼はメシヤに関する預言の真の意義について、できる限り人々の目をくらまそうと決意した。そして、キリストが来られた時に、彼を拒否させようとしたのである。 PK 639.3

洪水直前の数世紀間において、広く全世界を神に反逆させようとしたサタンの努力は成功を収めた。そして、洪水のこの教訓さえ、人々は長く覚えていなかった。サタンは巧みなほのめかしによって、人々を再び大胆な反逆へと、1歩1歩陥れていった。サタンはもう1度勝利したかのように思われたが、堕落した人類に対する神のみこころは、このようなことで挫折するものではなかった。セムの家系の忠実なアブラハムの子孫によって、主の恵み深い計画についての知識が、将来の世代の人々のために保存されるのであった。時折、神の任命を受けた真理の使者が立ち上がって、犠牲をささげる儀式の意味、特にすべての犠牲制度の儀式が指し示していたお方の来臨についての主の約束に、人々の注意を引くのであった。こうして、世界全体が背信に陥ってしまわずにすむのであった。 PK 639.4

神のみこころを遂行するためには、最も断固とした反対に遭うことを覚悟しなければならなかった。真理と義の敵は、あらゆる方法を用いてアブラハムの子孫に彼らの神聖で大いなる召しを忘れさせて、偽りの神々を礼拝させようとした。そして彼の努力は、まさに成功しようとしたのである。キリストの初臨の前の数世紀間は、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおったのである。サタンは、彼の憎むべき影を人間の道に投げかけて、彼らが神と来世のことを知るのを妨害しようとしたのである。大勢の人々が死の陰にすわっていた。彼らの唯一の希望は、この暗黒が取り去られて、神があらわされることであった。 PK 639.5

神に油を注がれたダビデは、預言的幻のなかで、キリストの来臨は、「朝の光のように、雲のない朝に、輝きでる太陽のよう」であることを予見したのである(サムエル下23:4)。またホセアは「主はあしたの光のように必ず現れいで」るとあかしした(ホセア6:3)。朝の光は音もなく静かに地上に輝き、暗黒 の影を追い散らし、地を生命に目覚めさせる。そのように義の太陽は昇り、「その翼には、いやす力を備えている」(マラキ4:2)。「暗黒の地に住んで」いる多くの人々は、大いなる光を」見るのであった(イザヤ9:2)。 PK 639.6

預言者イザヤは、この輝かしい救いを見て喜びに打ちふるえ、次のように叫んだ。 PK 640.1

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、 PK 640.2

ひとりの男の子がわれわれに与えられた。 PK 640.3

まつりごとはその肩にあり、 PK 640.4

その名は、『霊妙なる議士、大能の神、 PK 640.5

とこしえの父、平和の君』ととなえられる。 PK 640.6

そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、 PK 640.7

ダビデの位に座して、その国を治め、 PK 640.8

今より後、とこしえに公平と正義とをもって PK 640.9

これを立て、これを保たれる。 PK 640.10

万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」 PK 640.11

(イザヤ9:6、7) PK 640.12

キリストの初臨までのイスラエル歴史の最後の数世紀において、次の預言の中にメシヤの来臨が言及されているということが、広く一般に理解されていたのである。「主は言われる、『あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう』」。「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」と預言者イザヤは預言したのである(同49:6、40:5)。後にバプテスマのヨハネが、大胆に「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」と宣言してあかしを立てたのは、この光のことであった(ヨハネ1:23)。 PK 640.13

またキリストについて次のような預言的約束の言葉が与えられた。「イスラエルのあがない主、イスラエルの聖者なる主は、人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、……主はこう言われる、……『わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。わたしは捕らえられた人に「出よ」と言い、暗きにおる者に「あらわれよ」と言う。……彼らは飢えることがなく、かわくこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれるからだ』」(イザヤ49:7~10)。 PK 640.14

ユダヤ国民の中で信仰の固い人々、すなわち、神の知識を保存してきた聖なる家系の子孫は、これらの聖句やこれに似た聖句を心に留めて、彼らの信仰を強化した。彼らは大いなる喜びをもって、主がこのかたに油を注ぎ、「貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね……心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、……主の恵みの年」を告げさせられることを読んだ(同61:1、2)。しかし彼が神のみこころを遂行するために耐えなければならない苦難のことを考えて、彼らの心は悲しみに満たされるのであった。彼らは、深くへりくだった思いをもって、預言の巻物の言葉をたどったのである。 PK 640.15

「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 PK 640.16

主の腕は、だれにあらわれたか。 PK 640.17

彼は主の前に若木のように、 PK 640.18

かわいた土から出る根のように育った。 PK 640.19

彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、 PK 640.20

われわれの慕うべき美しさもない。 PK 640.21

彼は侮られて人に捨てられ、 PK 640.22

悲しみの人で、病を知っていた。 PK 640.23

また顔をおおって忌みきらわれる者のように、 PK 640.24

彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 PK 640.25

まことに彼はわれわれの病を負い、 PK 640.26

われわれの悲しみをになった。 PK 640.27

しかるに、われわれは思った、 PK 640.28

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 PK 640.29

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 PK 640.30

われわれの不義のために砕かれたのだ。 PK 640.31

彼はみずから懲らしめをうけて、 PK 640.32

われわれに平安を与え、 PK 641.1

その打たれた傷によって、 PK 641.2

われわれはいやされたのだ。 PK 641.3

われわれはみな羊のように迷って、 PK 641.4

おのおの自分の道に向かって行った。 PK 641.5

主はわれわれすべての者の不義を、 PK 641.6

彼の上におかれた。 PK 641.7

彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、 PK 641.8

口を開かなかった。 PK 641.9

ほふり場にひかれて行く小羊のように、 PK 641.10

また毛を切る者の前に黙っている羊のように、 PK 641.11

口を開かなかった。 PK 641.12

彼は暴虐なさばきによって取り去られた。 PK 641.13

その代の人のうち、だれが思ったであろうか、 PK 641.14

彼はわが民のとがのために打たれて、 PK 641.15

生けるものの地から断たれたのだと。 PK 641.16

彼は暴虐を行わず、 PK 641.17

その口には偽りがなかったけれども、 PK 641.18

その墓は悪しき者と共に設けられ、 PK 641.19

その塚は悪をなす者と共にあった。」 PK 641.20

(イザヤ53:1~9) PK 641.21

苦難に会われる救い主について、主なる神ご自身が、ゼカリヤによって「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ」と言われた(ゼカリヤ13:7)。 PK 641.22

キリストは罪深い人間の身代わりと保証人として、神の刑罰を受けなければならなかった。彼は正義が何であるかを知らなければならなかった。彼は、罪人が仲保者なしに神の前に立つことが、どんなことであるかを知らなければならなかった。 PK 641.23

贖い主は、詩篇記者を通じて、ご自身のことについて預言された。 PK 641.24

「そしりがわたしの心を砕いたので、 PK 641.25

わたしは望みを失いました。 PK 641.26

わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、 PK 641.27

慰める者を求めたけれども、ひとりも見ませんでした。 PK 641.28

彼らはわたしの食物に毒を入れ、 PK 641.29

わたしのかわいた時に酢を飲ませました。」 PK 641.30

(詩篇69:20、21) PK 641.31

彼が受ける取り扱いについて、次のように預言された。「まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」(同22:16~18)。 PK 641.32

約束されたお方の痛々しい苦難と残酷な死のこうした描写は、悲痛なものではあったが、約束に満ちていた。「とがの供え物」とするために、「彼を砕くことは主のみ旨であり」、主は彼を悩まされたが、主は彼について言われた。 PK 641.33

彼は「その子孫を見ることができ、 PK 641.34

その命をながくすることができる。 PK 641.35

かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 PK 641.36

彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 PK 641.37

義なるわがしもべはその知識によって、 PK 641.38

多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 PK 641.39

それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に PK 641.40

物を分かち取らせる。 PK 641.41

彼は強い者と共に獲物を分かち取る。 PK 641.42

これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、 PK 641.43

とがある者と共に数えられたからである。 PK 641.44

しかも彼は多くの人の罪を負い、 PK 641.45

とがある者のためにとりなしをした。」 PK 641.46

(イザヤ53:10~12) PK 641.47

キリストが贖罪の価を払ってくださったのは、罪人を愛してくださったからである。「主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた」(イザヤ59:16)。 PK 641.48

「わたしの支持するわがしもべ、 PK 642.1

わたしの喜ぶわが選び人を見よ。 PK 642.2

わたしはわが霊を彼に与えた。 PK 642.3

彼はもろもろの国びとに道をしめす。」 PK 642.4

(同42:1) PK 642.5

彼の生涯には自己主張が混ざってはならなかった。世俗の人々が、地位、富、才能などにささげる敬意は、神のみ子にとって礼無縁のものでなければならなかった。メシヤは人々の忠誠をかち得たり、または尊敬の念を起こさせることは、何1つ行ってはならなかった。彼が全く自己を放棄されたことは、次のような言葉で予告されていたのである。 PK 642.6

「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、 PK 642.7

その声をちまたに聞こえさせず、 PK 642.8

また傷ついた葦を折ることなく、 PK 642.9

ほのぐらい灯心を消すことなく。」 PK 642.10

(同42:2、3) PK 642.11

救い主は、彼の時代の教師たちとは全く対照的に、人々の間で行動すべきであった。彼の生涯には、騒がしい議論や仰々しい礼拝、人の賞賛を得ようとする行為は、何1つ見られてはならなかった。メシヤは神のうちに隠れ、み子の品性のなかに神があらわされなければならなかった。 PK 642.12

人類は、神を知らなければ、永遠に失われるのであった。男も女も、神の助けがなければ、ますます深みに沈んでいくのであった。世界を創造されたお方によって、生命と力とが与えられなければならなかった。人間の必要は、他のどんな方法によっても満たされることはできないのであった。 PK 642.13

メシヤについては、さらに次のように預言されていた。「彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。」神のみ子は「その教を大いなるものとし、かつ光栄あるものと」されるのであった(同42:4、21)。彼は律法の重要性と守るべき条項を低下させてはならなかった。彼はむしろ、それを高めなければならなかったのである。それと共に、彼は、人間が神の戒めに付加していた重苦しい苛酷な要求から、神の戒めを解放しなければならなかった。多くの人々は、そのような苛酷な要求のために、神に喜ばれる奉仕はできないものと失望したのである。 PK 642.14

救い主の任務について、主なる神の言葉はこうであった。「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。見よ、さきに預言した事は起った。わたしは新しい事を告げよう。その事がまだ起らない前に、わたしはまず、あなたがたに知らせよう」(イザヤ42:6~9)。 PK 642.15

イスラエルの神は、約束のすえによって、シオンに救いをもたらされるのであった。「エッサイの株から1つの芽が出、その根から1つの若枝が生えて実を結」ぶ。「見よ、おとめがみこもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。その子が悪を捨て、善を選ぶことを知るころになって、凝乳と、蜂蜜とを食べる」(同11:1、7:14、15)。 PK 642.16

「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさずその耳の聞くところによって、定めをなさず正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。」「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある」(同11:2~5、10)。 PK 642.17

「見よ、その名を枝という人がある。……彼は主の 宮を建て、王としての光栄を帯び、その位に座して泥める。その位のかたわらに、ひとりの祭司がい」る(ゼカリヤ6:12、13)。 PK 642.18

「罪と汚れとを清める」1つの泉が開かれるので麦った(同13:1)。人々は恵み深い招待を聞くので麦った。 PK 643.1

「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。 PK 643.2

金のない者もきたれ。 PK 643.3

来て買い求めて食べよ。 PK 643.4

あなたがたは来て、金を出さずに、 PK 643.5

ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。 PK 643.6

なぜ、あなたがたは、 PK 643.7

かてにもならぬもののために金を費し、 PK 643.8

飽きることもできぬもののために労するのか。 PK 643.9

わたしによく聞き従え。 PK 643.10

そうすれば、良い物を食べることができ、 PK 643.11

最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。 PK 643.12

耳を傾け、わたしにきて聞け。 PK 643.13

そうすれば、あなたがたは生きることができる。 PK 643.14

わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、 PK 643.15

ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。」 PK 643.16

(イザヤ55:1~3) PK 643.17

イスラエルに約束が与えられた。「見よ、わたしは彼を立てて、もろもろの民への証人とし、また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民はあなたのもとに走ってくる。これはあなたの神、主、イスラエルの聖者のゆえであり、主があなたに光栄を与えられたからである」(同55:4、5)。 PK 643.18

「わたしはわが救を近づかせるゆえ、その来ることは遠くない。わが救はおそくない。わたしは救をシオンに与え、わが栄光をイスラエルに与える」(同46:13)。 PK 643.19

メシヤは彼の地上の伝道生涯の言葉と行為において、父なる神の栄光を、人類にあらわさなければならなかった。彼の生涯のすべての行為、語るすべての言葉、行うすべての奇跡において、彼は堕落した人類に神の無限の愛を示さなければならなかった。 PK 643.20

「よきおとずれをシオンに伝える者よ、 PK 643.21

高き山にのぼれ。 PK 643.22

よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、 PK 643.23

強く声をあげよ、 PK 643.24

声をあげて恐れるな。 PK 643.25

ユダのもろもろの町に言え、 PK 643.26

『あなたがたの神を見よ』と。 PK 643.27

見よ、主なる神は大能をもってこられ、 PK 643.28

その腕は世を治める。 PK 643.29

見よ、その報いは主と共にあり、 PK 643.30

そのはたらきの報いは、そのみ前にある。 PK 643.31

主は牧者のようにその群れを養い、 PK 643.32

そのかいなに小羊をいだき、 PK 643.33

そのふところに入れて携えゆき、 PK 643.34

乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」 PK 643.35

(イザヤ40:9~11) PK 643.36

「その日、聞こえない人は書物の言葉を聞き、 PK 643.37

見えない人の目はその暗やみから、見ることができる。 PK 643.38

柔和な者は主によって新たなる喜びを得、 PK 643.39

人のなかの貧しい者は PK 643.40

イスラエルの聖者によって楽しみを得る。 PK 643.41

心のあやまれる者も、悟りを得、 PK 643.42

つぶやく者も教えをうける。」 PK 643.43

(同29:18、19、24) PK 643.44

こうして神は、型や象徴によると共に、家長や預言者たちによって、罪からの救い主の来臨について、世界に語られたのである。霊感によって与えられた預言は、長い間「万国の願うところのもの」の来臨を指示していたのである(ハガイ2:7・文語訳)。彼の誕生の場所そのもの、彼の出現の時でさえも、詳細に指摘されていた。 PK 643.45

ダビデの子は、ダビデの町でお生まれにならなければならなかった。預言者はベツレヘムから「イスラエルを治める者が……出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」と言った(ミカ5:2)。 PK 644.1

「ユダの地、ベツレヘムよ、 PK 644.2

おまえはユダの君たちの中で、 PK 644.3

決して最も小さいものではない。 PK 644.4

おまえの中からひとりの君が出て、 PK 644.5

わが民イスラエルの牧者となるであろう。」 PK 644.6

(マタイ2:6) PK 644.7

救い主の初臨と彼の生涯の働きにまつわる重要な諸事件が、天使ガブリエルによってダニエルに知らされた。「あなたの民と、あなたの聖なる町については、70週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです」と天使は言った(ダニエル9:24)。 PK 644.8

預言では、1日は1年をあらわしている(民数記14:34、エゼキエル4:6参照)。70週、すなわち490日というのは、490年のことである。この期間の始まる時が示されている。「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい」(ダニエル9:25)。それは69週すなわち483年になるのである。エルサレムを再建せよという命令が、アルタクセルクセス・ロンギマネスの勅令によって完了して実施されたのは、紀元前457年の秋であった(エズラ6:14、7:1、9参照)。この時から483年経過すると、紀元27年の秋に至るのである。預言によれば、この時に、油注がれた者、メシヤが現れるのであった。紀元27年に、イエスはバプテスマを受けて、聖霊の油を注がれた。そしてその後間もなくして、伝道をお始めになったのである。その時、「時は構ちた」という宣言がなされたのである(マルコ1:15)。 PK 644.9

さらに天使は、「彼は1週の間(7年間)多くの者と堅く契約を結ぶでしょう」と言った。救い主が伝道をお始めになってから7年間は、特にユダヤ人に福音が伝えられることになっていた。3年半はキリストご自身の宣教であった。そしてその後は、使徒たちによるものであった。「そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう」(ダニエル9:27)。真の犠牲であられるキリストは、紀元31年の春、カルバリーでささげられたのである。その時、神殿の幕が2つに裂けて、犠牲制度の神聖さとその意義が失われてしまったことを示したのである。地上の犠牲と供え物とが廃される時が来たのであった。 PK 644.10

1週間すなわち7年間は、紀元34年に終わった。 その時ユダヤ人はステパノを石で打って、ついに福音を拒否したことを決定的なものにした。迫害のために広く四散した弟子たちは、「御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた」(使徒行伝8:4)。その後しばらくして、迫害者サウロが改心して、異邦人への使徒パウロとなった。 PK 644.11

救い主の来臨に関して多くの預言があるので、ヘブル人たちは常に主を待望しながら生活していた。約束のものを受けることなく、信仰をもって死んでいった者も多かった。 PK 645.1

しかし彼らは、はるかにそれを望み見て、自分たちはこの地上では旅人であり寄留者であると信じてそう告白した。エノクの時代以来、家長や預言者たちによって繰り返されてきた約束が、主の来臨の希望を人々の心に燃やし続けてきたのである。 PK 645.2

神は最初から初臨の正確な時をお知らせになったのではなかった。そしてダニエルの預言がこの点を明らかにした時にも、すべての者がその言葉を正しく解釈したわけではなかった。 PK 645.3

幾世紀もの時が過ぎ去った。そしてついに預言者の声もやんだ。イスラエルは、圧迫者の手に強くおさえられていた。イスラエルは神から離反するにつれて信仰はうすらぎ、希望はほとんど将来を明るく照らさなかった。多くの者は、預言者の言葉を理解しなかった。そして、信仰を堅く持ち続けるべき人々が、「日は延び、すべての幻はむなしくなった」というに至った(エゼキエル12:22)。しかし天の会議においては、キリストが来られる時は定められていた。そして、「時の満ちるに及んで、神は御子を……おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」(ガラテヤ4:4、5)。 PK 645.4

教えは人間の言葉によって人類に与えられなければならなかった。契約の使者が、お語りにならなければならなかった。彼の声がご自身の神殿で聞かれる必要があった。真理の創始者であられるお方が、真理の力を失わせている人間の言葉というもみがらから、真理を分離なさらなければならなかったのである。神の統治の原則と贖罪の計画とが、明白に示されなければならなかった。旧約聖書の教えが、人々の前に十分に示されなければならなかった。 PK 645.5

救い主がついに「人間の姿」をとって現れ(ピリピ2:7)、恵みのわざをお始めになったときに、サタンはただ、かかとを砕くことができるだけであったが、他方キリストは、その屈辱、または苦難の1つ1つの行為によって、彼の敵のかしらを砕かれたのである。罪が引き起こした苦悩が、罪なきお方の胸へと注がれた。 PK 645.6

しかしキリストは、ご自身に対する罪人の反対に耐えておられた時に、彼は罪人のための価を払い、人間が束縛されていた奴隷のきずなを打ち破っておられたのである。心の苦悩と受けられた侮辱の1つ1つは、人類に救いをもたらしていたのである。 PK 645.7

もしサタンが、ただ1つの誘惑においてもキリストを打ち負かすことができたならば、またサタンが、1つの行為または思想においても、彼の完全な純潔を汚すように導くことができたならば、暗黒の君は人間の保証人となられたお方に勝利し、全人類を自分の側に引き入れたことであろう。ところがサタンは苦しめることはできても、汚染することはできなかった。彼は、悩ますことはできても、その神聖さを汚すことはできなかった。彼はキリストの生涯を長い争闘と試練の生涯にしたけれども、攻撃を加えるごとに、人類に対する彼の影響力を失っていた。 PK 645.8

われわれの救い主は、荒野の誘惑において、ゲッセマネの園において、そして十字架上において暗黒の君と闘われたのである。彼の傷は人類のための彼の勝利を記念するものとなった。キリストが十字架にかかって苦悩された時に、そして悪の霊たちが喜び、悪人たちがののしっていたその時、キリストのかかとはサタンに砕かれたのである。しかしその行為自体は、へびのかしらを砕いていたのである。彼は死によって「死の力を持つ者、すなわち悪魔を」滅ぼされた(ヘブル2:14)。この行為が、反対の首領の運命を決定し、救いの計画を永遠に確保したのである。彼は死によってその力に勝利されたのであ る。そしてよみがえることによって、彼は、彼のすべての弟子たちの墓の門を開かれた。あの最後の大争闘において、「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」という預言が成就するのを見る(創世記3:15)。 PK 645.9

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(Ⅰヨハネ3:2)。われわれの贖い主は、道を開いてくださった。それは、われわれがどんなに罪深く、どんなに困窮に陥り、どんなに圧迫を受け、さげすまれていても、父なる神に近づくことができるためである。 PK 646.1

「主よ、あなたはわが神、 PK 646.2

わたしはあなたをあがめ、み名をほめたたえる。 PK 646.3

あなたはさきに驚くべきみわざを行い、 PK 646.4

いにしえから定めた計画を PK 646.5

真実をもって行われたから。」 PK 646.6

(イザドヤ25:1) PK 646.7