国と指導者

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第22章 アッスリヤの首都ニネベ

イスラエル王国が分裂していた時代の古代世界の都市の中で、アッスリヤ帝国の首都ニネベは最大の都市の1つであった。バベルの塔から人々が離散して行った後、間もなく、チグリス川の肥沃な岸に建設されたこの都は、その後、幾世紀も繁栄を続けて、「これを行きめぐるには、3日を要するほど」の大きな町になった(ヨナ3:3)。 PK 491.1

ニネベは、その物質的に繁栄すると共に、犯罪と不正の中心地であった。霊感は、ニネベを「血を流す町。その中には偽りと、ぶんどり物が満ち」ているとその特色を描写している。預言者ナホムは、象徴的言葉を用いて、ニネベを残忍な飢えた獅子にたとえている。「あなたの悪を常に身に受けなかったような者が、だれひとりあるか」(ナホム3:1、19)。 PK 491.2

しかし、ニネベは、悪に染まったとは言っても、全く罪悪に満ちてしまったのではなかった。「すべての人の子らを見」られる方、そして、「もろもろの尊い物を見」られるお方は、その町の多くの人々が、より良くより高尚な何物かを得ようとしており、もし生ける神を知る機会が与えられれば、その悪い行いを捨てて、神を礼拝するようになることを、ごらんになった(詩篇33:13、ヨブ28:10)。そこで、神は、神の知恵をもって、間違いようのない方法で、ご自分を彼らに現し、できることならば、彼らを悔い改めに導こうとされた。 PK 491.3

この働きのために召された器は、アミッタイの子、預言者ヨナであった。彼に主の言葉が臨んで言った。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」(ヨナ1:1、2)。 PK 491.4

ヨナは、この任命の困難さと、一見不可能に思われるところから、この召しが賢明かどうかを疑うように誘惑された。人間的見地からするならば、あの高慢な町に、このような使命を宣言しても、何の益するところもないように思われた。 PK 491.5

彼は、自分の仕えている神が、全知全能の神であることを、一時忘れたのである。彼が、なおも、ためらい、疑っているうちに、サタンは、彼を失望に陥れてしまった。ヨナは、大きな恐怖心に襲われて、「タルシシへのがれようと」した。ヨッパへ行くと、すぐ出帆する船があったので、「船賃を払い、……人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った」(同1:3)。 PK 491.6

ヨナは、この任命が与えられて、大きな責任を負わせられたのであった。しかし、彼に行けと命じられたお方は、彼のしもべを支え、彼に成功を与えることがおできになるのであった。もしヨナが、何の疑いもはさまずに従ったならば、彼は多くの苦い経験に遭うこともなく、豊かに祝福されたことであろう。しかし、ヨナが失望に陥った時にも、主は、彼をお見捨てにならなかった。種々の試練と不思議な摂理によって、神とつきることのない神の救いの力に対するヨナの確信は、回復されるのであった。 PK 491.7

召しが最初に与えられた時に、もしヨナが立ちどまって冷静に考えたならば、彼に負わせられた責任を逃れようとする彼の努力が、どんなに愚かなものであるかを知ることができたのであった。彼の狂的逃亡は、なんの妨げも受けずに、長く続くことは許されなかった。「時に、主は大風を海の上に起されたので、船が破れるほどの激しい暴風が海の上にあった。それで水夫たちは恐れて、めいめい自分の神を呼び求め、また船を軽くするため、その中の積み荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船の奥に下り、伏して熟睡していた」(ヨナ1:4、5)。 PK 491.8

水夫たちが彼らの異教の神々に助けを祈り求めている時に、船長は、困り果てて、ヨナをさがし出して言った。「あなたはどうして眠っているのか。起きて、あなたの神に呼ばわりなさい。神があるいは、われわれを顧みて、助けてくださるだろう」(同1:6)。 PK 491.9

しかし、義務の道から離れ去った人の祈りは、助けをもたらさなかった。水夫たちは、嵐があまりにも激しいので、これは、彼らの神の怒りによるものであると考えた。そして、最後の手段として、くじを引くことに した。 PK 491.10

彼らは言った、「『この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう』。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った。そこで人々はヨナに言った、『この災がだれのせいで、われわれに臨んだのか、われわれに告げなさい。あなたの職業は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。あなたはどの民か』。 PK 492.1

ヨナは彼らに言った、『わたしはヘブルびとです。わたしは海と陸とをお造りになった天の神、主を恐れる者です』。 PK 492.2

そこで人々ははなはだしく恐れて、彼に言った、『あなたはなんたる事をしてくれたのか』。人々は彼がさきに彼らに告げた事によって、彼が主の前を離れて、のがれようとしていた事を知っていたからである。 PK 492.3

人々は彼に言った、『われわれのために海が静まるには、あなたをどうしたらよかろうか』。それは海がますます荒れてきたからである。ヨナは彼らに言った、『わたしを取って海に投げ入れなさい。そうしたら海は、あなたがたのために静まるでしょう。わたしにはよくわかっています。この激しい暴風があなたがたに臨んだのは、わたしのせいです』。 PK 492.4

しかし人々は船を陸にこぎもどそうとつとめたが、成功しなかった。それは海が彼らに逆らって、いよいよ荒れたからである。そこで人々は主に呼ばわって言った、『主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです』。そして彼らはヨナを取って海に投げ入れた。すると海の荒れるのがやんだ。そこで人々は大いに主を恐れ、犠牲を主にささげて、誓願を立てた。 PK 492.5

主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは3日3晩その魚の腹の中にいた。 PK 492.6

ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、言った、 PK 492.7

『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、 PK 492.8

主はわたしに答えられた。 PK 492.9

わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、 PK 492.10

あなたはわたしの声を聞かれた。 PK 492.11

あなたはわたしを淵の中、 PK 492.12

海のまん中に投げ入れられた。 PK 492.13

大水はわたしをめぐり、 PK 492.14

あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。 PK 492.15

わたしは言った、 PK 492.16

「わたしはあなたの前から追われてしまった、 PK 492.17

どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか」。 PK 492.18

水がわたしをめぐって魂にまでおよび、 PK 492.19

淵はわたしを取り囲み、 PK 492.20

海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。 PK 492.21

わたしは地に下り、 PK 492.22

地の貫の木はいつもわたしの上にあった。 PK 492.23

しかしわが神、主よ、 PK 492.24

あなたはわが命を穴から救いあげられた。 PK 492.25

わが魂がわたしのうちに弱っているとき、 PK 492.26

わたしは主をおぼえ、 PK 492.27

わたしの祈はあなたに至り、 PK 492.28

あなたの聖なる宮に達した。 PK 492.29

むなしい偶像に心を寄せる者は、 PK 492.30

そのまことの忠節を捨てる。 PK 492.31

しかしわたしは感謝の声をもって、 PK 492.32

あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。 PK 492.33

救は主にある』」。 PK 492.34

(ヨナ1:7~2:9) PK 492.35

ついに、ヨナは、「救は主のもの」であることを学んだ(詩篇3:8)。彼が、悔い改めて、神の救いの恵みを悟った時に、救いが与えられた。ヨナは、大いなる淵の危険から解放されて、陸地に吐き出されたのである。 PK 492.36

神のしもベヨナはもう1度、ニネベに警告の言葉を発するように命じられた。「時に神の言葉は再びヨナに臨んで言った、『立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ』」。こんど彼は、問い返すことも疑惑をさしはさむこともせずに、ためらうことなく従ったのである。「そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った」(ヨナ3:1 ~3)。 PK 492.37

ヨナは、町に入るや否や、「これに向かって呼ばわ」り、「40日を経たらニネベは滅びる」と言った(同3:4)。彼は、警告の言葉を発しながら、通りから通りを進んだ。 PK 493.1

その使命はむだではなかった。神を信じない町の通りに鳴りひびいた叫びは、口から口に伝えられて住民全体は、驚くべき宣言を聞いたのである。神の霊が、すべての人の心にこの使命を強く印象づけて、多くの人々が彼らの罪のためにふるえおののいて、深く恥じいり、悔い改めるに至った。 PK 493.2

「ニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう』」(ヨナ3:5-9)。 PK 493.3

王と大臣たちが、地位の上下を問わず、一般の国民と共に、「ヨナの宣教によって悔い改め」、心を1つにして、天の神に呼び求めたときに、彼らに、神のあわれみが与えられた(マタイ12:41)。「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった」(ヨナ3:10)。彼らは、滅びを免れ、イスラエルの神は、異邦世界全土において、賛美され栄光を帰せられ、神の律法はあがめられた。ニネベが、神を忘れ、傲慢になったがために、周囲の国々の犠牲になるのは、それからずっと後になってからであった。〔アッスリヤの没落については、第30章参照〕 PK 493.4

ニネべは、邪悪ではあったが、荒布をまとい、灰の中に座して悔い改めたので、神は町を滅ぼすことをおやめになった。それを知ったヨナは、神の驚くべき恵みをまず第一に喜ぶべきであった。しかし、彼は、そうせずに、自分が偽預言者であると思われるのではないかとばかり心配したのである。彼は、自分の名声を守ることに心を奪われて、その悲惨な町のなかの人々に、大きな無限の価値のあることを忘れていた。悔い改めたニネベの人々に示された神のあわれみを、「ヨナはこれを非常に不快として、激しく怒」った。彼は主に言った。「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです」(ヨナ4:1、2)。 PK 493.5

彼は、ふたたび、疑惑の念にかられて、またもや、失望の淵に沈んでしまった。彼は、他の人々の幸福のことなど何も考えず、生きていて町が救われるのを見るよりは、死んだ方がましだと考えて、不満げに叫んだ。「それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。 PK 493.6

「主は言われた、『あなたの怒るのは、よいことであろうか』。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために1つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ」(同4:3~6)。 PK 493.7

ここで主は、ヨナに、1つの実物教訓をお与えになった。「ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、『生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ』」。 PK 493.8

神は、また預言者ヨナにお語りになった、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言っ た、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。 PK 493.9

「主は言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは12万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか』(同4:7~11)。 PK 494.1

ヨナは、困惑し、面目を失い、ニネベを救われた神のみこころを理解することができなかったが、それでも、神があの大きな町に警告を発するように彼に命じられた任務は、果たしたのである。預言された事件は起こらなかったけれども、警告の使命は、やはり、神から出たものであった。そして、それは、神が計画なさった目的を果たしたのである。神の栄光が異教徒の間にあらわされた。長い間「暗黒と深いやみの中にいる者、苦しみと、くろがねに縛られた者」が、「その悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、暗黒と深いやみから彼らを導き出して、そのかせをこわされた」。「そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助け出された」(詩篇107:10、13、14、20)。 PK 494.2

キリストは、彼の地上の伝道中に、ヨナのニネベにおける宣教のよい働きに言及し、あの異教の中心地における住民と、彼の時代の神の民と自称する人々とを対照された。「ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」と彼は言われた(マタイ12:41)。商業の騒音と取引の口論が満ち、人々ができるだけ自分の利益を得ようとしている忙しい世界に、キリストはおいでになったのである。そのような混乱を越えて、彼の声が神のラッパのように聞こえた。「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マルコ8:36、37)。 PK 494.3

ヨナの宣教が、ニネベの人々に対するしるしであったように、キリストの宣教は、彼の時代の人々に対するしるしであった。しかし、言葉の受けかたがなんと異なっていたことであろう。しかし、救い主は、人々の無関心と嘲笑に遭いながらも、たゆまず働き続けて、彼の任務を達成されたのであろ。 PK 494.4

これは、今日の神の使命者たちに対すろ教訓である。諸国の都市は、古代のニネベと同様に、真の神の性質と目的とを知らなければならない、キリストの使者たちは、人々の心から、ほとんど忘れ去られてしまったより高貴な世界を彼らに示さなければならない。聖書の教えによるならば、いつまでも続く唯一の都は、神がもくろみ、建てられた都である。人間は、信仰の目によって、神の輝かしい栄光にきらめく天の門口を見ることができる。主イエスは、彼に仕えるしもべたちを用いて、人々に清い望みをもって永遠の嗣業を確保するために努力するように呼びかけておられる。彼は、神のみ座のそばに宝を貯えるように、人々に訴えておられるのである。 PK 494.5

罪悪が頑強に増加し続けるので、都市の住民は、急速にしかも確実に、全世界的ともいうべき罪に陥りつつある。一般の腐敗状態は、描写することができないほどはなはだしい。毎日、争闘、贈賄、詐欺などが新しく暴露されている。毎日、暴力、不法、人間の苦難に対する無関心、また、残忍きわまる悪魔的生命の殺害が、いまわしい記録をとどめている。毎日、発狂、殺人、自殺が増加している。 PK 494.6

サタンは、世々にわたって、主の恵み深い計画を人々に知らせまいとしてきた。彼は、神の律法の偉大さ、すなわち、そこに示されている正義と憐れみと愛の原則を人々の前から取り去ろうと努めてきた。人々は、われわれが、現在生存している時代の驚くべき進歩と開化とを誇っている。しかし、神は、地が、悪と暴力に満ちているのをごらんになるのである。人々は、神の律法は廃され、聖書は確実ではないと言う。その結果として、ノアの洪水や背信したイスラエルの時代以来かつてなかったような罪悪の潮流が、世界をおおっているのである。魂の高潔さ、温和な性質敬神の念などは、禁じられた欲望を満たすために失われてしまった。自分の利益のために行った犯罪の暗い記録は、血液を凍らせ、心を恐怖で満たすに十分である。 PK 494.7

われわれの神は、あわれみの神である。神は、神 の律法を犯した罪人たちを忍耐深く、憐れみをもって扱われる。 PK 494.8

今日、人々は、聖書に啓示されている神の律法に親しむ多くの機会があるにもかかわらず、町々には暴力と犯罪が力をふるい、罪悪にあふれているのをごらんになって、宇宙の支配者であられる神は到底満足されない。かたくなに、神に背き続ける人々に対する神の忍耐の限度が急速に近づいているのである。 PK 495.1

至上権を持っておられる神が、堕落した世界に対する扱いを急激に予期しない方法で変更されたとしても驚くに当たるであろうか。罪悪と犯罪の増加に対して刑罰が下ったとしても、驚くに当たるであろうか。欺瞞と詐欺によって得た不正な利益を得た者に対して、神が滅亡と死をもたらされたからと言って、驚くに当たるであろうか。神の要求しておられることについて、ますます明るい光が、彼らの道を照らしたにもかかわらず、多くの者は、主の支配権を認めず、天の統治に対するあらゆる反逆の創始者の黒い旗のもとにとどまることを選んだのである。 PK 495.2

神の忍耐は、実に大きい。われわれが神の聖なる戒めを侮辱し続けていることを考える時に、その大きなことに驚嘆するばかりである。全能者は、ご自身の特質を制御してこられたのである。しかし、神は、必ず立ち上がって、十戒の正当な要求を大胆不敵にも無視する悪者たちを罰せられるのである。 PK 495.3

神は、人間に猶予の期間をお与えになる。しかし、神の忍耐の尽きる時がくる。そして、神の刑罰が必ず下るのである。主は、人々や町々を長く忍んで、神の怒りから彼らを救うために、彼らを憐れんで警告を発せられる。しかし、憐れみを請い求める声がついにやみ、真理の光を拒否し続けた人々は、消し去られる。それは、彼ら自身と、彼らの行為によって影響を受けるであろうと思われる人々に対する憐れみからなされることなのである。 PK 495.4

人間の力ではいやすことのできない悲しみが、この世界に起こる時が、近づいている。神の霊が取り去られつつある。海にも陸地にも、次々と急速に災害が起こる。地震、大竜巻、火事、洪水による破壊、人命財産の大損害などを、なんと度々耳にすることであろう。 PK 495.5

一見、こうした災害は、人間の力を超えた自然の猛威が突発的に起こしたものと思われるであろう。しかし、その中にあって、神のみこころを悟ることができるのである。神は、こうした方法によって、人々に、彼らの危険を自覚させようとしておられるのである。 PK 495.6

大都会における神の使命者たちは、救いのよきおとずれを伝える一方において、当面しなければならない罪悪、不正、堕落などについて失望してはならないのである。主は、罪悪に満ちたコリントにおいて使徒パウロにお与えになったのと同じ言葉をもって、こうしたすべての働き人を励まされるのである。「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」(使徒行伝18:9、10)。救霊の働きに従事している者は、多くの者が神のみ言葉の中の神の勧告に耳を傾けないであろうが、全世界が、光と真理、長く耐え忍ばれる救い主の招きを拒むのではないことを忘れてはならない。暴力と犯罪に満ちたどの町においても、正しく教えられるならば、イエスの弟子になることができるものが多くいるのである。このようにして、幾千の人々に救いの真理が伝えられて、キリストを個人的救い主として受け入れるようになるのである。 PK 495.7

今日、地上の住民に対する神の言葉はこれである。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」(マタイ24:44)。今日の社会に行きわたっている状態、特に、諸国の大都会における状態は、神のさばきの時がきて、万物の終わりが近いことを、雷のような音で、宣言している。われわれは、どのような時代にもなかったような危機の門口に立っている。火事、洪水、地震、戦争、流血などの神の刑罰は、続々とくだっている。われわれは、この時において、大きな決定的事件が起こっても、驚いてはならない。なぜならば、あわれみの天使は、悔い改めない者を保護するためにあまり 長くとどまることはできない。 PK 495.8

「見よ、主はそのおられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。 PK 496.1

地はその上に流された血をあらわして、殺された者を、もはやおおうことがない」(イザヤ26:21)。神の怒りの嵐が迫っている。ヨナが宣教した時のニネベの住民のように、あわれみの招待を受け入れて、支配者であられる神の律法に従って、清められる者だけが、それに耐えることができる。滅びが過ぎ去るまで、キリストと共に神のうちに隠されるのは、義人だけである。われわれは、次のように歌おう。 PK 496.2

わがたましいを愛するイエスよ、 PK 496.3

波はさかまき風ふきあれて、 PK 496.4

沈むばかりのこの身を守り、 PK 496.5

天のみなとにみちびきたまえ。 PK 496.6

われには外の隠れ家あらず、 PK 496.7

頼るかたなきこのたましいを、 PK 496.8

委ねまつれば、みいつくしみの PK 496.9

つばさの蔭に守らせたまえ。 PK 496.10

(讃美歌273番) PK 496.11