国と指導者
第21章 預言者工リシャの貢献
アハブがまだ治めていたころに、預言者の務めに召されたエリシャは、イスラエルの国に起こった多くの変化を見るまで生きのびた。スリヤのハザエルの治世中、イスラエル人には次々と刑罰が下った。ハザェルは背信した国家を懲らしめるむちとして召されたのであった。エヒウが始めた厳格な改革方策によって、アハブの全家が殺されてしまった。エヒウの後継者エホアハズは、スリヤとの長期戦によって、ヨルダンの東の町々をいくつか失った。一時はスリヤ人が全国を支配するかのように思われた。しかし、エリヤが開始し、エリシャが実行に移した改革によって、多くの人々は神を求めるようになった。バアルの祭壇は顧みられなくなり、神のみこころは心から神に仕えようとする人々の生活の中に徐々に、しかしながら着実になしとげられていった。 PK 487.1
神がスリヤびとにイスラエルをむちうつことをお許しになったのは、誤りに陥ったイスラエルを神が愛されたためであった。神がエヒウを起こして邪悪なイゼベルとアハブの全家を殺されたのは、道徳力の弱い人々を神が憐れまれたからであった。神の憐れみ深い摂理によって、バアルとアシタロテの祭司たちが除かれて、彼らの異教の祭壇が破壊されたのである。知恵に富んでおられる神は、もし誘惑が除かれるならば、異教を捨てて、その顔を天に向けるようになる者があることを予見された。災禍が次々に彼らの上にくだることを神が許されたのは、このためであった。神の刑罰には、憐れみが混じっていた。神は、神のみこころが達成された時に神を求めることを学んだ人々のために、形勢を一変されたのである。 PK 487.2
善と悪の勢力がその優劣を争い、サタンがアハブとイゼベルの治世においてなしとげた破壊を完ぺきなものにしようと全力をあげている時に、エリシャは彼のあかしを立て続けた。彼は反対に遭ったが、誰1人彼の言葉に反駁できる者はなかった。彼は全国においてあがめられ、尊敬された。彼のところに勧告を求めてくる者が多かった。 PK 487.3
イゼベルがまだ生きていたとき、イスラエルの王ヨラムが彼の勧告を求めた。そして、ダマスコにいたときにはスリヤの王、ベネハダデの使者が彼のところを訪れたことが1度あった。スリヤ王はその時かかっていた病気が死に至るものかどうかを聞きたかったのである。預言者は至るところで真理がまげられ、大部分の人々が天の神に公然と反逆していたとき、すべての人に忠実なあかしを立てた。 PK 487.4
そして、神は神が選ばれた使者をお見捨てにならなかった。スリヤの侵略が行われたある時、スリヤの王は、エリシャが敵の計画をイスラエルの王に通告したことを理由に、彼を殺そうとしたのである。スリヤの王は家来たちと評議して「しかじかの所にわたしの陣を張ろう」と言った。主はこの計画をエリシャに示された。そこで彼は「イスラエルの王に『あなたは用心して、この所をとおってはなりません。スリヤびとがそこに下ってきますから』と言い送った。それでイスラエルの王は神の人が白分に告げてくれた所に人をつかわし、警戒したので、その所でみずからを防ぎえたことは1、2回にとどまらなかった。 PK 487.5
スリヤの王はこの事のために心を悩まし、家来たちを召して言った、『われわれのうち、だれがイスラエルの王と通じているのか、わたしに告げる者はないか』。ひとりの家来が言った、『王、わが主よ、だれも通じている者はいません。ただイスラエルの預言者エリシャが、あなたが寝室で語られる言葉でもイスラエルの王に告げるのです』」(列下紀下6:8~12)。 PK 487.6
スリヤの王は、エリシャを殺そうとして命じた。「『彼がどこにいるか行って捜しなさい、わたしは人をやって彼を捕らえよう』。時に『彼はドタンにいる』と王に告げる者があったので、王はそこに馬と戦車および大軍をつかわした。彼らは夜のうちに来て、その町を囲んだ。神の人の召使が朝早く起きて出て見ると、軍勢が馬と戦車をもって町を囲んでいた」(同6:13~15)。 PK 487.7
エリシャの召使は驚いてエリシャに知らせに来た。 「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」と彼は言った(同6:15下句)。 PK 487.8
エリシャは答えた。「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。そして、召使が自分でこの事を知ることができるように、「エリシャが祈って『主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください』と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった」(同6:16、17)。神のしもべと武装した敵兵の軍勢との間には、天使たちの軍勢がいて、彼らを取り囲んでいた。天使たちは大いなる力をもって下ってきたが、それは滅ぼすためでも、人からの尊敬を強要するためでもなくて、主の弱い無力な人々のまわりに陣をしいて仕えるためであった。 PK 488.1
神の民が窮地に陥り、一見、逃げ場がないかのように思われる時に、ただ神だけが彼らの頼りでなければならない。 PK 488.2
スリヤの軍勢が天の見えない軍勢の存在も知らずに、大胆に前進してきた時に、「エリシャは主に祈って言った、『どうぞ、この人々の目をくらましてください』。するとエリシャの言葉のとおりに彼らの目をくらまされた。そこでエリシャは彼らに、『これはその道ではない。これはその町でもない。わたしについてきなさい。わたしはあなたがたを、あなたがたの尋ねる人の所へ連れて行きましょう』と言って、彼らをサマリヤへ連れて行った。 PK 488.3
彼らがサマリヤにはいったとき、エリシャは言った、『主よ、この人々の日を開いて見させてください』。主は彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、見よ、彼らはサマリヤのうちに来ていた。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った、『わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか』。エリシャは答えた、『撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって、捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい』。そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った」(列王紀下6:18~23)。 PK 488.4
この後しばらくの間、イスラエルはスリヤの攻撃を受けなかった。しかし、決然と立ち上がった王ハザエルの強力な指揮のもとに、スリヤの軍勢はサマリヤを包囲した。イスラエルはこの包囲の時ほど大きな苦難に陥ったことはなかった。実に、父の罪が子のまた子に報いられたのである。長く続いた恐ろしいききんのために、イスラエルの王は非常手段をとろうとしていた。その時、エリシャは、翌日、救いが与えられることを予告したのである。 PK 488.5
次の朝、夜明けごろ、主は、「スリヤびとの軍勢に戦車の音、馬の音、大軍の音を聞かせられた」。そこで彼らは恐れおののいて、「たそがれに立って逃げ」、「その天幕と、馬と、ろばを捨て、陣営をそのままにしておいて」豊富な食糧を残していった。彼らは「命を全うしようと逃げ」ヨルダンを渡ってしまうまでは途中で休まなかった(同7:6、7)。 PK 488.6
軍隊が逃亡した夜、町の門にいた4人の重い皮膚病の患者たちは、ひもじさの余り、スリヤの陣営に行こうと話し合った。そして、包囲軍に投降して、彼らの憐れみの情に訴えて、食物を得たいものであると望んだ。ところが、彼らが陣営に入った時に、「そこにはだれもいなかった」のを見て、彼らはどんなに驚いたことであろう。妨げる者も禁じる者もいないので彼らは「1つの天幕にはいって食い飲みし、そこから金銀、衣服を持ち出してそれを隠し、また来て、他の天幕に入り、そこからも持ち出してそれを隠した。そして彼らは互に言った、『われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙って』」いる。彼らは喜ばしい知らせをもって急いで町に帰った(同7:5下句、8、9)。 PK 488.7
ぶんどり物は多かった。食糧は非常に多く、前日エリシャが予告したとおり、その日「麦粉1セアは1シケルで売られ、大麦2セアは1シケルで売られ」た。イスラエルの主の預言者によって語られた「主の言葉のとおりに」神のみ名がもう1度、異教の前で高く掲げられたのである(同7:16)。 PK 488.8
こうして、神の人エリシャは、毎年、忠実に務めを行って、人々と親しく接触して働き続けた。そして、危機においては王たちの傍に立って、賢明な助言者となった。 PK 489.1
王たちと国民が背信して偶像を礼拝したことは悲しむべき結果を生んだ。背信の暗い影はなお、至るところに明白ではあったが、ここかしこに断固としてバアルにひざをかがめることを拒否した人々があった。エリシャが彼の改革事業を続けた時に、多くの人々が異教主義から改宗した。そして、彼らは真の神の礼拝の喜びを知ったのである。エリシャはこうした神の恵みの奇跡に勇気づけられて、心の正しいすべての人々に救いの手をのばそうという大望をいだいた。彼はどこへ行っても、義の教師となるように努力したのである。 PK 489.2
人間的見地からするならば、国家の霊的再生を期待することは、今日、世界の暗黒な場所で働いている神のしもべたちの前の展望と同様に、絶望的なものであった。しかし、キリストの教会は真理を宣べ伝えるための神の代理者である。教会は特別の働きをするように神の力が授けられているのである。そしてもし教会が神に忠実で、神の戒めに服従するならば教会の中に卓越した神の力が宿るのである。もしも教会がその忠誠の誓いに忠実であるならば、どんな権力も教会に対抗して立つことはできないのである。敵の勢力は、もみがらがつむじ風に立ち向かうことができないように、教会を圧倒することはできないのである。 PK 489.3
もし教会が、キリストの義の衣を着て、世俗に忠誠をつくすことをすべてやめるならば、教会の前には明るく輝かしい夜明けがある。 PK 489.4
神は、不信仰で、希望を失った人々を勇気づけるように、神を信じる忠実な人々に呼びかけておられる。あなたがた、望みをいだく捕われ人よ、主に帰れ。生ける神であられる神から力を求めなさい。心を低くして、神の力と神の豊かな救いに対する確固とした信仰を表しなさい。われわれが、信仰をもって、神の力をしっかりと把握するときに、神はどのような失望落胆すべき状態をも、不思議に変えてくださるのである、神は神のみ名の栄光のためにこうしてくださるのである。 PK 489.5
エリシャはイスラエル国内をあちらこちらと旅行することが可能なかぎり、預言者の学校を盛り立てていくために、活発な関心を持ち続けた。彼のいくところへは、どこでも神が彼と共におられて、彼に語る言葉と奇跡を行う力とをお与えになった。 PK 489.6
あるとき、「預言者のともがらはエリシャに言った、『わたしたちがあなたと共に住んでいる所は狭くなりましたので、わたしたちをヨルダンに行かせ、そこからめいめい1本ずつ材木を取ってきて、わたしたちの住む場所を造らせてください』」(列王紀下6:1、2)。エリシャは彼らと一緒に行って、そこにいることによって、彼らに励ましを与え、指示を与えた。そして、彼らの働きを助けるために奇跡さえ行った。「ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った、『ああ、わが主よ、これは借りたものです』。神の人は言った、『それはどこに落ちたのか』。彼がその場所を知らせると、エリシャは1本の枝を切り落し、そこに投げ入れて、そのおのの頭を浮ばせ、『それを取りあげよ』と言ったので、その人は手を伸べてそれを取った」(同6:5~7)。 PK 489.7
エリシャの働きは非常な力に満ち、広範囲に及んでいたので、彼が死ぬ病気にかかった時には、敬神の念に欠け、偶像を礼拝していた若い王ヨアシでさえ、預言者エリシャが彼らの間にいることは、危急の場合に騎兵や戦車を持っていることよりももっと価値があることを認めたほどであった。次のように記録されている。「さてエリシャは死ぬ病気にかかっていたが、イスラエルの王ヨアシは下ってきて彼の顔の上に涙を流し、『わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ』と言った」(同13:14)。 PK 489.8
助けを必要とする多くの悩みの中にある魂に、エリシャは賢明で思いやりのある父親の役を果たした。この場合、彼は彼の前にいる神を信じない青年を見捨てることをしなかった。ヨアシは信任の地位を占める価値はなかったのであるが、なお、彼には大いな る勧告の必要があったのである。神は摂理の中に過去の失敗の償いをなし、王国を有利な立場に置く機会を王に与えておられたのである。今、ヨルダンの東の領地を占領していたスリヤの軍勢を追い払わなければならなかった。もう1度、神の力が過ちに陥ったイスラエルのためにあらわされなければならなかった。 PK 489.9
死の床にあった預言者は、王に命じた。「エリシャは彼に『弓と矢を取りなさい』と言ったので、弓と矢を取った。エリシャはまたイスラエルの王に『弓に手をかけなさい』と言ったので、手をかけた。するとエリシャは自分の手を王の手の上におき、『東向きの窓をあけなさい』と言った」。それは、スリヤに占領されているヨルダンの向こう側の町々に向かった方角であった。王が窓をあけると、エリシャは射なさいと命じた。矢が飛んでいくと、エリシャは霊感に動かされて言った。「主の救の矢、スリヤに対する救の矢。あなたはアペクでスリヤびとを撃ち破り、彼らを滅ぼしつくすであろう」(列王紀下13:15~17)。 PK 490.1
ここで、預言者は、王の信仰を試みたのであった。彼はヨアシに、矢を取り、「それをもって地を射なさい」と命じた。王は、3度射てやめた。エリシャは落胆して叫んだ。「あなたは5度も6度も射るべきであった。そうしたならば、あなたはスリヤを撃ち破り、それを滅ぼしつくすことができたであろう。しかし今あなたはそうしなかったので、スリヤを撃ち破ることはただ3度だけであろう」(同13:18、19)。 PK 490.2
これは、すべて信任の地位にある者のための教訓である。神が何かの働きを達成するために道を開き、成功の確証をお与えになる時に、選ばれた器は約束された成果をもたらすために全力をつくさなければならない。働きを推進するために示す熱心と忍耐に相応した成功が与えられるのである。神は、神の民がたゆまず努力して、その分を果たす時にのみ、奇跡を行うことがおできになる。神は、神の働きに献身した人、道徳的勇気のある人、魂を熱愛する人、冷えることのない熱意をもった人を招いておられる。こうした働き人は、どんな働きも困難とは思わずどんな状態も絶望とは考えない。彼らはひるむことなく働き続けて、一見敗北と思われることを輝かしい勝利とするのである。牢獄の壁、あるいは、殉教の死が待っていようとも、彼らは動揺することなく、神のみ国の建設のために神と共に働くのである。 PK 490.3
エリシャの働きはヨアシに勧告と励ましを与えて終わった。エリヤに宿っていた霊が満ちあふれるばかりに与えられたエリシャは、最後まで忠実であった、彼は動揺しなかった。 PK 490.4
彼は、全能者の力に対する信頼を失わなかった。彼は前途が全く閉ざされたかのように思われた時にも、常に、信仰をもって前進していった。そして、神は彼の確信に答えて、彼の前に道を開かれたのである。 PK 490.5
エリシャには火の車に乗って、彼の師に従うことは許されなかった。主は彼が長い病の床に伏すことをお許しになった。長時間にわたる人間的弱さと苦しみの中で、彼の信仰はしっかりと神の約束を把握し、彼の回りに慰めと平和をもたらす天使たちを常に眺めた。ドタンの高原において、陣をしく天の軍勢と、イスラエルの火の戦車とその騎兵たちを見たのと同じように、彼は今、思いやり深い天使たちの存在を感じて支えられたのである。彼はその一生を通じて強い信仰を働かせた。そして、神の摂理と神の慈悲深い寛容とが十分に理解されるにつれて、その信仰は神に対する永続的信頼となっていった。そして、死が迫ってきたとき、彼にはその働きを休む川意ができていたのである。 PK 490.6
「主の聖徒の死はそのみ前において尊い」(詩篇116:15)。「義者はその死ぬる時にも望あり」(箴言14:32・文語訳)。エリシャは、詩篇記者とともに、確信をもって、「しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる」と言うことができた(詩篇49:15)。彼は喜びをもって、「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」(ヨブ19:25)。「しかしわたしは義にあって、み顔を見目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう」とあかしすることができた(詩篇17:15)。 PK 490.7