人類のあけぼの
第15章 イサクの結婚
本章は、創世記24章に基づく PP 84.3
アブラハムは老人になった。そして、自分の死ぬときが近づいたのを知った。しかし彼は、子孫に与えられた約束を確保するために、しなければならない行為が、まだ1つ残っていた。イサクは、神の律法の保管者、選民の父として、アブラハムの後継者に任じられてはいたが、まだ、結婚していなかった。カナンの住民は偶像礼拝を行っていたので、神は、神の民と偶像礼拝者との雑婚を禁じておられた。神は、こうした結婚が背教の原因になるのを知っておられた。アブラハムは、彼のむすこの周囲にある腐敗的感化の影響を恐れた。アブラハムの、いつもながらの神への信仰と神のみこころへの服従は、イサクの品性に反映されていた。しかし、イサクは愛情が強く、柔和で、人に譲歩する性質もあった。もし彼が神をおそれない人と結ばれるとすれば、一致を保つために原則を犠牲にするという危険があった。アブラハムにとって、むすこに妻をめとることは重大なことであった。アブラハムは、彼を神から引き離すことをしない人と結婚させたいと心から願っていた。 PP 84.4
昔、結婚の約束は、たいてい親たちが取りきめた。そして、これは神を礼拝する民の間の習慣でもあった。だれも愛することができない人との結婚をしいられたのではなかった。しかし、青年が自分たちの愛情を注ぐにあたって、経験があって、神を恐れる親たちの判断に従った。これに反した道をとることは、親に対する不敬、いや犯罪とすらみなされた。 PP 84.5
イサクは、父の知恵と愛情に信頼して、この問題を父にまかせて満足し、神ご自身がその選択を導かれることをも信じていた。父は、メソポタミヤの地にいる彼の親戚のことを考えていた。彼らは偶像礼拝から全く離れたとは言えないが、真の神を知り、礼拝していた。イサクがカナンを去って、彼らのところへ行ってはならなかった。しかし、彼らのなかから、自分の家を離れて彼と1つになり、生きた神の清い礼拝を維持する者が見つかるだろうと思われたのであろ。アブラハムは、この重大なことを彼の「年長のしもべ」に託した。彼は、神を敬い、経験豊かで正しい判断の持ち主で、長く忠実にアブラハムに仕えた人であった。彼はそのしもべに、カナン人のなかからイサクのために妻を迎えず、メソポタミヤのナホルの家族の娘 を選び、主の前で厳粛に誓うことを要求した。彼はイサクを連れて行ってはならないと命じた。もし自分の親族を離れてくる娘を見いだすことができないならば、使者はその誓約から解かれるのであった。この困難でやりにくい仕事をするにあたって、アブラハムは彼を励まし、神がその任務を成功させてくださることを保証した。「天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出して……主は、み使をあなたの前につかわされるであろう」と彼は言った(創世記24:7)。 PP 84.6
しもべは、直ちに出発した。彼は、自分の一行と、連れて帰ってくる花嫁の一行のために10頭のらくだを引いて行った。しもべはまた、迎える妻とその友人たちのための贈り物をたずさえて、ダマスコの向こうまでの長旅に立ち、東の国の大河に接する肥沃な平原へと進んだ。彼は、「ナホルの町」ハランに到着して、城壁の外の井戸のそばに止まった。ここは、そこの女たちが夕方、水をくみに来るところであった。これは、彼にとってどうすればよいか深く考えなければならない時であった。彼の主人の家族だけでなく、将来の幾代にもおよぶ重大な結果が、彼の選択にかかっていた。彼は、全く知らない人々ばかりの間で、どのような賢明な選択をすることができようか。神は必ず天使を送られるというアブラハムの言葉を思い起こして、彼は、熱心に明確な指導が与えられることを祈った。彼は、主人の家庭でいつも親切と手厚いもてなしが行われているのをよく知っていたので、ここで、親切な行為が神のお選びになった娘のしるしでありますようにと祈った。 PP 85.1
その祈りが終わるか終わらないうちに、答えが与えられた。井戸のまわりに集まった女たちの中で、礼儀正しい1人の娘が彼の注意をひいた。彼女が井戸からもどって来たときに、旅人は、彼女に近づいて、眉にのせた水がめの水を少しくださいと頼んだ。彼女は快くその願いをきき入れ、らくだにも水を飲ませようと申し出た。これは、そのころ、身分の高い人の娘でも、父の家畜や群れのために行う仕事であった。こうして、願ったとおりのしるしが与えられた。娘は「非常に美し」かった。そして、彼女の積極的親切心は、優しい心と活発で活動的性格をあらわしていた。こうして、しもべは、ここまで神の手に導かれたのである。しもべは娘の親切に対して、高価な贈り物をしたあとで、彼女がだれの娘であるかをたずねた。そしてしもべは、彼女がアブラハムのおいのベトエルの娘であることを知ると、「頭を下げ、主を拝し」た。 PP 85.2
その人は、彼女の父の家でもてなしを受けることを願った。そして、彼は、その感謝の言葉の中で、アブラハムと自分との関係を明らかにした。娘は家に帰り、事の次第を話した。すると、彼女の兄のラバンは、旅人とその連れの人々をもてなすために、直ちに迎えに出た。 PP 85.3
エリエゼルは、自分の任務と井戸での祈りなどの事情のいっさいを話すまでは、食事をしようとしなかった。それから、彼は言った。「あなたがたが、もしわたしの主人にいつくしみと、まことを尽そうと思われるなら、そうとわたしにお話しください。そうでなければ、そうでないとお話しください。それによってわたしは右か左に決めましょう」(同24:49)。そこで彼らは答えた。「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません。リベカがここにおりますから連れて行って、主が言われたように、あなたの主人の子の妻にしてください」(同24:50、51)。 PP 85.4
家族は同意したが、リベカ自身、父の家を離れてそんな遠方へ行き、アブラハムのむすこの妻になる気があるかどうか聞いてみることになった。彼女は、事のなりゆきから、神が自分をイサクの葵に選ばれたことを信じた。そして彼女は、「行きます」と言った。 PP 85.5
しもべは、自分の任務が成功したことを主人がどんなに喜んでくれるかと思って、早く出発したいと思った。そして、彼らは翌朝帰途についた。アブラハムはべエルシバに住み、イサクはその隣の地方で羊の世話をしていたが、ハランからの使いの者の到着を迎えようとして、父の天幕に帰って来ていた。「イサクは夕暮、野に出て歩いていたが、目をあげて、らくだの来るのを見た。リベカは目をあげてイサクを見、らくだ からおりて、しもべに言った、『わたしたちに向かって、野を歩いて来るあの人はだれでしょう』。しもべは言った、『あれはわたしの主人です』。するとリベカは、被衣(かずき)で身をおおった。しもべは自分がしたことのすべてをイサクに話した。イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た」(同24:63~67)。 PP 85.6
アブラハムは、カインの時代から彼の時代までの、神を恐れる者と恐れない者との結婚がどんな結果に終わるかをよく知っていた。彼自身とハガルとの結婚の結果、また、イシマエルやロトの結婚関係の結果を、彼は目の前に見ていた。アブラハムとサラの信仰が欠けていたために、イシマエルが生まれ、義人の種族が神を敬わない者と混じった。父の子に及ぼす影響は、偶像礼拝者である母親の側の親族と、イシマエルがめとった異邦の妻たちによってその力をそがれた。ハガルのしっと、そして彼女がイシマエルのために選んだ妻たちのしっとは、アブラハムの家庭を防壁のように取り巻き、彼がどんなに努力しても取り去ることはできなかった。 PP 86.1
アブラハムの初期の訓育は、イシマエルに効果がなかったわけではない。しかし、彼の妻たちの影響によって彼の家庭で偶像礼拝が根をおろした。彼は、父親から離れて、神に対する愛も恐れもない家庭の争闘と競争に憤激して、「その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆ら」うという、粗暴で略奪を事とするさばくの酋長の生活にはいってしまったのである(同16:12)。イシマエルは、晩年に、その悪行を悔いて、彼の父の家に帰った。しかし、彼が子孫に与えた品性の特徴は消えなかった。彼の子孫は強大な国民となったが、それは、粗暴な異邦の民族で、常にイサクの子孫を悩まし苦しめるものとなった。 PP 86.2
ロトの妻は利己的で、宗教心のない女であった。そして、彼女は、自分の夫をアブラハムから離れさせようとした。ロトは、彼女さえ望まなければ、賢明で神を恐れるアブラハムの勧告も聞けないソドムにとどまっていたくなかった。もし、彼が初期に、アブラハムから忠実に教え込まれていなかったならば、彼の妻の感化と罪悪の町の交友とによって、神から離れていたことであろう。ロトの結婚とソドムに住宅を選んだことは、その後、数世代にわたってこの世界に起こった一連の不幸な出来事の出発点となった。 PP 86.3
神を恐れる者が、神を恐れない者と結合すれば必ず危険が伴う。「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか」(アモス3:3)。結婚関係の幸福と繁栄は、ふたりの和合にかかっている。しかし、信者と未信者の間には、趣味、傾向、目的などに根本的相違がある。彼らは、2人の主人に仕えている。彼らの間に一致はあり得ない。どんなに純粋で正しい原則を持っているとしても、信者でない伴侶は、神から引き離す傾向を持っている。 PP 86.4
回心前に結婚関係にはいった者は、その悔い改めによって、彼らの信仰がどんなに異なっていようとも、伴侶に忠実であるべき義務は、さらに増大した。しかし、神の要求は、試練や迫害を招こうとも、地上のどの関係よりも上位におかれなければならない。愛と柔和の精神をもってすれば、この忠誠さは、未信者を主に導く力となるかも知れない。しかし、クリスチャンが、神を知らない者と結婚することは、聖書の中で禁じられている。「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」と主は命じられる(Ⅱコリント6:14、17、18)。イサクは、世界の祝福となる約束の相続人となり、神から大きな栄誉を受けた。しかし、彼が40歳のとき、経験豊かで神を恐れるしもべに命じて、彼の妻を選ばせるという父の判断に従った。聖書は、この結婚が愛に満ちた幸福な家庭を築いたことを庭しく描いている。「イサクはリベカを天幕に連れて行き、リベカをめとって妻とし、彼女を愛した。こうしてイサクは母の死後、慰めを得た」。 PP 86.5
イサクの歩いた道と、現代の青年たち、またクリスチャンと自称する人々でさえ追い求めている道とは、なんと異なっていることであろう。青年たちは、だれを愛そうと、それは自分だけで決定すればよく、神や親たちからはなんの支配も受けることではないと考え やすい。彼らは、一人前の男子、女子になるずっと前から、親たちの助けなど受けずに、自分で選択することができると考える。たいてい、数年の結婚生活で、まちがいを見つけるのは十分であるが、悲しむべき結果を防ぐのには遅すぎる。なぜなら、急いで相手を選んだのと同じ知恵と自制の欠如が、事情をさらに悪化させて、彼らの結婚生活を耐えられないくびきにしてしまうのである。こうして現世の幸福と永遠の生命の希望を破壊した人が多い。 PP 86.6
もし注意深く考慮し、年配の経験豊かな人々の勧告を求めるべき問題があるとすれば、それは結婚問題である。もし、聖書の勧告を必要とし、祈りのうちに神の指導を求めるべき時があるとすれば、それは、一生を結合する段階にはいる前である。 PP 87.1
親たちは、子供たちの将来の幸福について責任があることを忘れてはならない。イサクが父の判断を尊重したことは、彼が、服従の生活を愛するように訓育された結果であった。アブラハムは、子供たちに、親の権威を尊重するように教えたが、彼は日常生活において、その権威が利己的または独裁的支配ではなくて、愛に基づき、彼らの福利と幸福を考慮したものであることを示した。 PP 87.2
父親と母親は、青年たちの愛情に指導を与え、よく似合った伴侶になる人を愛するようにさせる義務があることを感じなければならない。親たちは、神の恵みの助けを受けて、自分たちの教えと模範によって、子供たちが清く、気高くなり、善と真実にひきつけられるように、彼らの品性を幼いときから形造ることを義務と思わなければならない。類は友を呼び、似た者はよく理解し合う。真実、純潔、善良を愛する心を幼いときから心に植えつけるようにしよう。そうすれば、青年は、そうした品性の持ち主との交わりを求めることであろう。 PP 87.3
親たちは、自分たちの品性とその家庭生活に、天の父の愛と恩恵とを実証するように努めよう。家庭は、太陽の光に満ちたところにしよう。これは、子供たちにとって、土地や金銭よりもはるかに価値がある。彼らの心に家庭の愛を燃やしつづけ、子供たちが幼少時代の家庭をふりかえるとき、そこを天国に次ぐ平和と幸福なところとして思い出すことができるようにしよう。家庭の者が、みな、同じ性格の者ではないから、忍耐と寛容の精神を働かせるべき時も時おり起ころう。しかし、愛と自制によって、すべての者は堅く結ばれて1つになるのである。 PP 87.4
真の愛は、高く清い原則である。それは、衝動的に生じ、激しく試みられると、急に消えてしまう愛とは全く異なったものである。青年たちは、親の家で忠実に義務を果たすことによって、自分自身の家庭を持つ準備をしなければならない。青年たちは家庭で自制を実行し、親切で、礼儀正しく、クリスチャン的同情の精神をあらわそう。こうして、彼の心には、愛があたたかく保たれる。そして、このような家庭から出て、自分の家族のかしらとなる者は、自分の生涯の伴侶として選んだ人の幸福を増進させる方法を知っている。結婚は愛の終わりではなくて、愛の始まりに過ぎない。 PP 87.5