人類のあけぼの

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第14章 ソドムの滅亡

本章は、創世記19章に基づく PP 77.1

肥沃で美しい「主の園」のような平原にあって、ソドムは、ヨルダンの谷間の町々のなかで、最も美しい町であった。ここには、熱帯植物が繁茂していた。ここは、やし、オリーブ、ぶどうなどの原産地で、花は一年中よい香りを放っていた。畑には豊かな収穫が実り、周りを囲んでいる山や丘には、牛や羊の群れが満ちていた。芸術と商業が、この高慢な平原の町を豊かにしていた。ソドムの宮殿には、東の国の宝物が飾られ、砂漠の隊商は、高価な品々を運びこんで市場をにぎわした。ほとんど考えることも働くこともせずに、生活のあらゆる必要が満たされ、一年中祭りの連続のようであった。 PP 77.2

至るところに物があり余ることは、ぜいたくと高慢の原因になる。必要に迫られたことも、悲しみに打ちひしがれたこともない心は、怠惰と富によってかたくなになる。人々は、富と暇にまかせて、快楽を追求し、肉欲をほしいままにするのであった。「見よ、あなたの妹ソドムの罪はこれである。すなわち彼女と、その娘たちは高ぶり、食物に飽き、安泰に暮していたが、彼らは、乏しい者と貧しい者を助けなかった。彼らは高ぶり、わたしの前に憎むべき事をおこなったので、わたしはそれを見た時、彼らを除いた」と預言者は言う(エゼキエル16:49、50)。富と暇ほど人々のほしがるものはない。ところが、これらが平原の町々を滅亡させた罪のもとであった。彼らの無益で怠惰な生活が、サタンのつけねらうところとなり、彼らは、神の形を傷つけ、神よりはサタンに似ていった。怠惰は、人間の陥る最大ののろいであって、非行と犯罪がそれに続くからである。それは頭脳を弱め、知力をゆがめ、魂を堕落させる。サタンは、油断している者を滅ぼそうと待ちかまえている。人間が暇なときは、サタンが、何か魅惑的変装をして巧みに取り入るよい機会である。彼は、人間が何もしないでいるときに近づけば、いちばん成功するのである。 PP 77.3

ソドムでは、歓楽と酒宴、饗宴と飲酒が行われた。最も卑劣で残酷な情欲がほしいままに行われていた。人々は、公然と神と神の律法にそむき、暴力行為を楽しんでいた。彼らの前には、洪水前の世界の実例もあり、神の怒りによって、彼らが滅ぼされたことを知っていたにもかかわらず、人々は、同じ悪の道をふみ従った。 PP 77.4

ロトがソドムに移ったころには、腐敗が全体にひろがってはいなかった。神は、彼らをあわれんで、道徳的暗黒の中に、光が照り輝くことをお許しになった。アブラハムが、捕虜になった人々をエラム人から救い出したときに、人々は真の信仰に目を向けるようになった。アブラハムは、ソドムの住民にとって見知らぬ人ではなかった。彼が見えない神を礼拝することは、人々の嘲笑の的になっていた。しかし、彼が、非常に優勢であった敵軍に勝利をおさめ、捕虜や戦利品に対して寛大な精神をあらわしたことに、人々は驚嘆と賞賛の声を放った。人々は、彼の技量と勇気をほめちぎったが、彼が勝利者となったのは、神の力によるものであったことを強く感じない者はいなかった。そして、利己的なソドムの住民とは遠くかけはなれた彼の高潔、無我の精神は、彼が勇気と忠誠をもって尊んだ宗教の優越性を示す、もう1つの証拠であった。 PP 77.5

アブラハムのために祝福を祈ったメルキゼデクも、主こそ彼の力の源であり、勝利をお与えになった方であることを認めた。「願わくは天地の主なるいと高き神が、アブラムを祝福されるように。願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように」(創世記14:19、20)。神は摂理によって人々に語っておられたが、これまでのすべての光と同じように最後の光も拒否されてしまった。 PP 77.6

今や、ソドムの最後の夜が近づいていた。神の怒りの雲は、すでに、この運命の町に影を投げていた。しかし人々はそれに気づかなかった。天使たちが、破壊の任務を帯びて近づいたときも、人々は繁栄と快楽を夢みていた。最後の日は、これまで明けて暮 れたどの日とも同じであった。美しい平和な情景に夕やみが迫った。たとえようもなく美しい風景は、沈む太陽の光を浴びていた。町の人々は、夜の冷気にさそわれて出てきた。快楽追求者たちの群れは、その夜の楽しみを求めてあちこちに行きかった。 PP 77.7

夕方、2人の旅人が町の門に近づいた。見たところ、彼らは一晩の宿を借りようとしてやってきた旅人のようであった。この質素な旅人が、神の刑罰をもたらす力ある使者であるとはだれも気づかなかった。そして、その晩、この大使たちをどのように扱うかによって、彼らの罪が頂点に達し、その高慢な町を滅亡させようとは、軽薄で不注意な群衆は考えもしなかった。しかし、ここに旅人を親切にもてなし、自分の家に招いた人がいた。ロトは、彼らがどのような人々であるかは知らなかったが、ていねいに人をもてなすことは彼の習慣であった。それは、彼がアブラハムの模範から学んだ教訓であって、彼の宗教の一部であった。 PP 78.1

もしも彼が、礼儀正しい精神を養っていなかったならば、彼はソドムの他の者たちとともに滅びてしまったことであろう。多くの家庭は、旅人に戸を閉ざして、祝福と希望と平和をもたらす神の使者をしめ出している。 PP 78.2

人生の行為は、それがどんなに小さいものであっても、みなよいことか、悪いことにかかわりがある。一見、最小と思われる義務を忠実に果たすか、怠るかによって、人生の最大の祝福か、最大の不幸かへの門を開くことになる。品性をためすのは、小事である。神が画ばれるのは、快く進んで行う日常のごく自然な自己否定の行為である。われわれは自己のためでなく、他の人々のために牛きなければならない。自分を忘れ、人を助けるやさしい精神を心にいだいてこそはじめて、自分たちの人生を祝福とすることができる。ちょっとした心づかいや小さい飾りけのない思いやりの行為が、人生の幸福を構成する大きな部分を占めている。そして、これらをおろそかにすることが、人生を少なからず悲惨なものにしている。 PP 78.3

ロトは、旅人がソドムで乱暴されそうなのを見て、彼らが入ってきた時に、彼らを自宅に招いて保護することが自分の義務だと思った。彼は、旅人が近づいた時、門にすわっていたが、彼らを見て、立ち上がって出迎え、ていねいに礼をして言った。「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください」。彼らは、彼のもてなしを辞退するかのように言った。「いや、われわれは広場で夜を過ごします」(同19:2)。この答えには二重の目的があった。すなわち、ロトの誠実をためすためと、ソドムの人々の性質を知らず、夜、広場で過ごしても安全だと思ったようにみせかけるためであった。ロトは、この答えを聞いて、なおさら、旅人を暴徒のなすがままにほっておけぬと決心した。彼は、しきりに彼らを招いて納得させ、自分の家に連れてきた。 PP 78.4

彼は、旅人を遠回りの道を通って自宅に案内し、門前の無精者たちに、彼の気持ちをさとられないようにしようとした。しかし、彼らのためらいと遅延とロトの熱心な勧誘は人目につき、夜彼らが床につく前に、暴徒が家の周りに集まった。それは、おびただしい数で、若者も老人も激しい怒りに燃えていた。旅人は、町の特徴について質問していた。そして、ロトが夜、戸外に出ることは危険であることを警告していた。すると、暴徒たちが、彼らを外に出すように要求して、ののしり、叫ぶ声が聞こえた。 PP 78.5

ロトは、もし彼らが乱暴をはたらくと、家にはたやすく侵入することができるので、彼らを説得するために外へ出た。「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないてください」と言った(同19:7)。彼は、この「兄弟たち」という言葉を隣人の意味に用い、彼らをなだめてその悪い計画を恥じ入らせようとした。しかし、彼の言葉は、火に油を注ぐようなものであった。彼らの怒りはあらしのほえる音のようであった。彼らは、ロトが裁判官気どりでいると嘲笑し、旅人にしようとしていたことよりはもっとひどい扱いを彼に加えると脅迫した。彼らは、ロトに飛びかかってきた。もしも神の使いが救わなかったならば、ロトは八つ裂きにされていたことであろう。天使が「手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた」。次の出来事が、ロト のもてなした客の性質を明らかに示した。「そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた」(同19:11)。もしも、彼らが心をかたくなにして、肉の目も心の目もともに盲目にされていなかったならは、神にこうして打たれたときに、恐れをいだき、悪行を思いとどまったことであろう。あの最後の晩は、その前の多くの夜よりも大きな罪が行われたのではなかった。しかし、このように長く軽んじられた恵みは、ついに訴えることをやめてしまった。ソドムの住民は、神の忍耐の限界——「神の忍耐と神の怒りの隠れた境界」を越えてしまった。神の報復の火が、シデムの谷に点じられようとしていた。 PP 78.6

天使は、自分たちの任務の目的をロトに伝えた。「われわれがこの所を滅ぼそうとしているからです。人々の叫びが主の前に大きくなり、主はこの所を滅ぼすために、われわれをつかわされたのです」(同19:13)。ロトが保護しようとした旅人たちが、今度は彼を守ると約束した。そして、彼と共に悪い町からのがれたいと思う彼の家族をもすべて救うと約束した。群衆は、騒ぎつかれて去った。ロトは、子供たちを警告するために出かけた。彼は、「立ってこの所から出なさい。主がこの町を滅ぼされます」(同19:14)と言う天使たちの言葉をくりかえした。しかし、ロトの言っていることは彼らに冗談のように思われた。彼らは、それを、迷信的恐怖だといってあざ笑った。彼の娘たちは、その夫たちに感化された。彼らは、そこで、結構よい暮らしをしていた。彼らは、危険が迫っている証拠を見ることができなかった。すべてのものは、それまで通りであった。彼らは資産を多く持っていた。そして、美しいソドムが滅ぼされるとはとうてい信じられなかった。 PP 79.1

ロトは悲しんで家に帰り、説き伏せに失敗したことを語った。すると天使は、ロトに、立ち上がって、妻と家に残っていた2人の娘を連れて町を出るように命じた。しかし、ロトはぐずぐずしていた。彼は人々の乱暴な行為を見て、日ごとに心を痛めていた。しかし、あの堕落した都会で行われていた腐敗した憎むべき罪悪の真相をつかんでいなかった。罪悪を止めるために、おそるべき神の刑罰か必要であることを彼は悟らなかった。ソドムには、彼の子供たちがまだ離れきれずに残っていた。彼の妻は、その子供たちを連れずに去ることを承知しなかった。地上で最も愛する者たちを置いていくことは耐えがたい苦痛であった。ぜいたくな家と、一生働いて得たすべての財産を捨てて、無一文の放浪者になることはつらいことであった。ロトは悲しさのあまりぼうぜんとしてしまい、行くに行かれずぐずぐずしていた。神の天使がいなかったならば、彼らはみな、ソドムの滅亡とともに死んでしまったことであろう。天からの使者たちは、ロトと彼の妻と娘たちの手を取って、彼らを町の外に連れ出した。 PP 79.2

ここで、天使たちは彼らを離れ、破壊の任務を果たすべくソドムにもどった。前にアブラハムが嘆願したことのあるもうひとりのかたがロトに近づかれた。平原のすべての町々のなかに、10人の義人さえ見つからなかった。しかし、アブラハムの祈りにこたえて、神を敬うひとりの人が滅亡から救い出された。「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」と、驚くべき激しさで命令が与えられた(同19:17)。このとき、ためらったりおくれたりすれば命があぶなかった。運命の町を未練がましく見たり、美しい家を離れがたくて一瞬でもたたずんでいたりすることは、生命を危険にさらすことであった。神の刑罰のあらしは、これらの哀れな脱川者たちか避難しおわるのを待つだけであった。 PP 79.3

ところが、うろたえ恐れたロトは、何か不幸な出来事が起こって死んてしまうといけないから、命令に従うことができないと嘆願した。罪悪の町に住み、不信のただ中にいたために、彼の信仰は消えかけていた。天の君がそばにおられたのである。それなのに、彼のためにこれほどまでの保護と愛をあらわされた神が、もうお守りにならないかのように、彼は自分の命が助かることを願った。彼は、自分自身を全く天 の使者にゆだね、疑うことも、問い返すこともせず、主のみ手に意志と生命とを捧げるべきであった。しかし、多くの他の人と同様に、彼は、自分で計画をたてようとした。「あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。それは小さいではありませんか。そうすればわたしの命は助かるでしょう」(同19:20)。ここで言われている町はべラで、後にゾアルと呼ばれた。それは、ソドムから数マイルの所にあって、ソドム同様に堕落して滅亡の運命にあった。しかし、ロトは自分の小さい願いを聞いて、町を助けてほしいと願った。彼の希望はいれられた。「わたしはこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません」と主は約束された(同19:21)。罪深い人間に対して、神の恵みは、なんと大きいことであろう。 PP 79.4

火の嵐は、あとわずかしか延ばせないから急ぐようにという厳粛な命令がふたたび与えられた。しかし、避難者の1人が、ふり向いて滅びの町を見たために、神の刑罰の記念碑になった。もし、ロトが、ためらうことなく天使の警告に従い、嘆願や抗議をしないでけんめいに山地をさして逃げていたならば、彼の妻ものがれたことであろう。ロトは、彼自身の模範によって、彼女を罪と滅びから救うことができたのであった。しかし、彼のためらいと遅延が、彼女に神の警告を軽視させた。彼女のからだは平原に来ていたが、彼女の心はソドムに執着していて、それとともに滅びた。彼女は、持ち物や子供たちまでが神の刑罰にのまれてしまうので、神に反逆の精神をいだいた。彼女は罪悪の町から救い出されて人きな恵みをこうむったが、長年かかって蓄積した富を、そのまま残して灰にしなければならないことを、きびしい取り扱いだと感じた。彼女は、救いを感謝して受けるかわりに、神の警告を拒んだ人々の生活をしたって、あえて後ろを振り向いた。彼女の罪は、彼女が生きる価値を持っていないことを示した。彼女は、助けられていることになんの感謝もあらわさなかった。 PP 80.1

われわれは、神がわれわれを救うために、恵み深くもとられる方法を軽々しく扱わないように注意すべきである。「わたしの配偶者や子供がいっしょでなければ、わたしは救われたくない」というクリスチャンがある。彼らは、愛する者たちがいなければ、天国は、天国でないと感じる。しかし、神の大いなる恵みと憐れみを考えると、こういう感情の人は自分自身と神との関係について、正しい観念を持っていると言えようか。彼らは、愛と誉れと忠誠という最も強い絆によって、創造主とあがない主の奉仕に結ばれていることを忘れたのであろうか。憐れみの招きは、すべてに与えられた。そして、友人が救い主の愛の訴えを拒むからといって、われわれも顔をそむけるのであろうか。魂の贖罪は尊いことである。キリストは、われわれの救いのために無限の代価を払われた。そして、この大犠牲の価値、また魂の価値を認める者は、他の人々があなどるからといって、神の恵みの申し出を軽んじないのである。他の人々が神の正当な要求を無視すればこそ、われわれはさらに努力して、神に栄光を帰し、感化し得るすべての人が神の愛を受け入れるようにすべきである。 PP 80.2

「ロトがゾアルに着いた時、日は地の上にのぼった」(同19:23)。朝の輝かしい光は、平原の町々に繁栄と平和だけを告げているように思われた。町の通りでは、活発な生活のざわめきが始まった。人々はその日の仕事に、また、快楽にあちこちと動き始めていた。ロトの義理のむすこたちは、気の弱い老人の恐怖と警告をあざ笑っていた。すると、突然、青天のへきれきのように不意にあらしが起こった。主は、天から硫黄と火とを、町々や豊かな平野に降らされた。王宮と神殿、ぜいたくな邸宅、庭園、果樹園、そしてつい前夜、天の使いを侮辱し、快楽を求めて陽気にさわいでいた群衆のすべてが焼き尽くされた。大火の煙は、大きな炉の煙のように上った。こうして美しいシデムの谷は、建てる者も住む者もない廃虚と化し、神は、必ず罪を罰せられることをすべての時代にあかししている。 PP 80.3

平原の町々を焼き尽くした炎は、われわれの時代にまで警告の光を投げている。神は、罪人を憐れみ、 長く忍ばれる。しかし、人間はあろ定められたところ以上に罪を犯し続けることはできないという恐ろしく厳粛な教訓が教えられた。その限界に達する時に、憐れみの招きは取り去られて、刑罰のわざが始まる。 PP 80.4

世の贖い主は、ソドム、ゴモラを滅ぼした罪よりもっと大きな罪があると言われた。罪人に悔い改めを促す福音の招待を聞きながら、それを心にとめない者は、シデムの谷間の住民以上に神の前に罪深いのである。そして、神を知り、その律法を守っていると公言しながら、その品性や日常生活において、キリストを拒む者の罪はさらに大きい。ソドムの運命は、公然と罪を犯す人だけでなく、天からの光と特権を軽んじるすべての人々に対する厳粛な訓戒であると救い主は警告された。 PP 81.1

真の証人は、エペソにある教会に言われた。「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう」(黙示録2:4、5)。救い主は、世の親が、気ままな生活をして苦しむむすこを赦そうとする情け以上のやさしい憐れみをもって、愛と赦しを提供して、その応答を待たれる。彼はさまよう者らに、「わたしに帰れ、わたしはあなたがたに帰ろう」と叫ばれる(マラキ3:7)。しかし、罪人が、憐れみ深く、やさしく呼びかける愛の声にいつまでも従わないならば、ついに暗黒のなかに取り残される。神の恵みを長く軽んじた心は、罪になれて、もはや神の恵みの力に感じなくなる。とりなされる救い主が、ついに、彼は「偶像に結びつらなった。そのなすにまかせよ」と宣言される魂の運命は、まことに恐ろしい(ホセア4:17)。審判の日には、キリストの愛を知りながら、罪の世の快楽を選んで離れていった者よりは、平原の町々のほうが耐えやすいことであろう。 PP 81.2

恵みの申し出を軽んじる人は、天の帳簿に負債として記入された大きな数字を考えてみるがよい。そこには、国家、家族、個人の不信の記録がある。神は、それらの記録が続くかぎり、忍耐して、悔い改めをうながし、赦しをお与えになる。しかし、記録が満ちるときがくる。そのとき、魂の決定は下され、人間は、自分の選択によって自分の運命を決定する。こうして、刑罰執行の合図がくだされる。 PP 81.3

今日、宗教界は憂うべき状態にある。神の恵みは軽んじられた。多くの者は、神の律法を廃し、「人間のいましめを教として教え」ている(マタイ15:9)。わが国の多くの教会に、無神論が流行してい。それは、聖書を公然と否認する広義の無神論ではなくて、キリスト教の衣をまとった無神論で、聖書が神の啓示であるという信仰をくつがえしている。熱烈な献身と生気にあふれた敬神の念は、空虚な形式主義に所を譲った。その結果、背信と快楽主義がはびこった。「ロトの時にも同じようなことが起った。……人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう」とキリストは言われた(ルカ17:28、30)。日ごとの記事は、このみ言葉の成就を証拠立てている。世界は、急速に滅亡にひんしていた。間もなく神の刑罰が下り、罪と罪人とは焼き尽くされなければならない。 PP 81.4

「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから」(この世に心を奪われているすべての者に)「すべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」(ルカ21:34~36)。 PP 81.5

ソドムの滅亡に先だって、神はロトに言われた。「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」(創世記19:17)。エルサレムが滅亡する前にも、キリストの弟子たちは、この同じ警告の声を耳にした。「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、……そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」(ルカ21:20、21)。彼らは、財産 を少しでも持っていくために止まってはならなかった。彼らはそれを脱出の絶好機としなければならなかった。 PP 81.6

それは、罪人から断固として離れて、命がけで出て来ることであった。ノアのときも、ロトのときも同じであった。エルサレムの滅亡前の弟子たちも同じであった。そして、最後の時代にも同様である。人々の間にはびこっている罪悪から離れることを神の民に命じる神の警告の声が、ふたたび聞こえるのである。 PP 82.1

最終時代に、宗教界に見られる腐敗と背信とは、「地の王たちを支配する大いなる都」バビロンという幻によって、預言者ヨハネに示された(黙示録17:18)。滅亡に先だって、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」という招声が天から発せられる(同18:4)。ノアやロトの時代と同様に、罪と罪人とから、はっきり分離しなければならない。神と世との妥協はあり得ない。地上の宝を得るために引き返すことはできない。「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)。 PP 82.2

シデムの谷の住民のように、人々は、繁栄と平和を夢みている。神のみ使いは、「のがれて、自分の命を救いなさい」と警告する。しかし、別の声は「あわてることはない。心配することはない」と言う。天は、すみやかな滅亡が犯罪者に臨むと宣言しているのに、人々は「平和だ、無事だ」と叫ぶ。平原の町々は、滅亡の前夜、快楽にふけり、神の使者の恐怖と警告を嘲笑した。しかし、こうしてあざけった者らは炎の中で死んだ。恵みの戸は、あの晩、ソドムの邪悪で軽率な住民に対して永遠に閉ざされた。神を常に侮ることはできない。また神をいつまでも軽んじることはできない。「見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る」(イザヤ13:9)。世の大多数の人々は、神の恵みを拒んで、急速に迫って避けることのできない滅亡にのまれてしまうであろう。しかし、警告に聞き従った者は、「いと高き者のもとにある隠れ場」に住み、「全能者の陰にやどる」[そのまことは大盾、また小盾である」「わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう」との約束が彼らに与えられている(詩篇91:1、4、16)。 PP 82.3

ロトは、ゾアルに短期間しか住まなかった。ゾアルもソドムと同じように、罪悪が満ちたので、ロトば町が滅ぼされるといけないと思って留まることを恐れた。しばらくしてゾアルも、神のご計画のもとに滅ぼされた。ロトは山にはいり、洞穴に住んだ。彼は、家族を罪悪の町の感化にさらして、手に入れたすべての物を失ってしまった。しかし、ソドムののろいはここまで追ってきた。彼の娘たちの罪深い行為は、罪悪の町の有害な交わりの結果であった。ソドムの道徳的腐敗は、彼女たちの品性に織り込まれていて、善悪を区別することができなくなっていた。ロトの唯一の子孫であるモアブ人とアンモン人は、不道徳な偶像礼拝者の種族であって、神に対する反抗者であり、神の民の恨み重なる敵だった。 PP 82.4

ロトの生涯は、アブラハムの生涯と比較して、なんと著しく異なっていたことであろうか。彼らは、昔は仲間どうしで、1つの祭壇で礼拝をし、旅人の天幕に隣合わせに住んでいた。しかし、今はなんと遠く離れたことであろう。 PP 82.5

ロトは、快楽と利益を求めてソドムを選んだ。ロトは、アブラハムの祭壇と生きた神への日ごとの犠牲とを捨てて、彼の子供たちが腐敗した偶像教徒と交わることを許した。しかし、彼は、心のなかで神を敬っていた。聖書には、ロトが「正しい人」であったとしろされている。彼の正しい魂は、毎口耳にする汚れた会話や、彼の力ではどうにもならない暴力と犯罪に心を痛めていた。彼はついに、「火の中から取り出した燃えさし」のように救われた(ゼカリヤ3:2)。しかし、彼は、持ち物を失い、妻子をなくし、野獣のようにほら穴に住み、不名誉な晩年を送った。そして彼は、義人の民族でなくて、神に反逆し、神の民と戦う2つの偶像教国を世に送った。彼らは、罪の杯を満たして滅ぼされてしまった。愚かな道を歩む者の結果は、 なんと恐ろしいことであろう。 PP 82.6

「富を得ようと苦労してはならない、かしこく思いとどまるがよい」「不正な利をむさぼる者はその家を煩わせる」と賢者は言っている(箴言23:4、15:27)。「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである」と使徒パウロは言っている(Ⅰテモテ6:9)。 PP 83.1

ロトはソドムに移ったとき、自分を罪悪から守り、家族を自分に従わせる堅い決心であった。しかし、彼は、明らかに失敗した。周囲の腐敗的勢力は、彼自身の信仰に影響を及ぼした。そして彼の子供たちがソドムの住民と結ばれたために、彼もいくぶんか彼らと利害をともにするようになった。その結果は、われわれの知るとおりである。 PP 83.2

今日も同様のまちがいをくりかえす者が多い。彼らは住宅を選ぶ場合に、彼らと家族をとりまく道徳的、社会的影響よりは、物質的利益のほうを重くみる。彼らは、美しく肥沃な土地を選ぶ。または、もっと繁栄を確保することを望んで、繁華な都市に移転する。しかし、子供たちは誘惑にかこまれる。そして、彼らは敬虔の念を養い、正しい品性を形成するには不利な友人を持つ場合が多い。低い道徳観念、不信仰、宗教に関する無関心などの雰囲気は、親の感化を中和させる傾向がある。親や神の権威に対する反抗の実例は、常に青年たちの前にある。多くの者は、無神論者や未信者と親しくなり、神の敵と運命をともにする。 PP 83.3

神はわれわれが住宅を選ぶとき、自分たちと家族をとりまく、道徳的、宗教的感化を、まず考慮することを望まれる。希望する環境を持つことができない者が多いから、われわれは苦しい立場に立たされる。もし、われわれが、キリストの恵みにたより、目をさまして祈っているならば、どのような所に召されても、神は、われわれを汚れに染むことなく立たせて下さるのである。しかし、クリスチャン品性の形成に不利な環境に、わざわざ身をさらしてはならない。われわれが進んで世俗と不信仰の雰囲気のなかに入れば、神の不興を招き、家庭から聖天使を追い出す。 PP 83.4

子供たちの永遠の幸福を犠牲にして、世の富と名誉を彼らに与えようとする者は、ついに、これらの利益が恐ろしい損失であることに気づくのである。多くの者は、ロトのように、子供たちを失い、自分の魂を救うことがせいいっぱいであったことを知るであろう。彼らの生涯の事業は失われ、彼らの一生は悲しい失敗である。もしも彼らが真の知恵を働かせていたならば、世的財産は少なくても、永遠の嗣業の獲得権を確保したことであろう。 PP 83.5

神がその民に約束された嗣業は、この世のものではない。アブラハムは、地上で何も持たず、「遺産となるものは何1つ、1歩の幅の土地すらも、与えられなかった」(使徒行伝7:5)。彼は大きな財産を持っていたが、彼はそれを、神の栄光と同胞の幸福のために用いた。しかし、彼は、この世を自分の故郷と思わなかった。主は永遠の所有として、カナンの国を与えることを約束して、偶像礼拝者の親族から離れることを彼に命じられた。しかし、彼も、彼の子も、孫も、約束の地を受けなかった。アブラハムは、死者を埋葬する地がほしかったとき、カナン人から買わなければならなかった。約束の地の彼の唯一の所有は、マクペラのほら穴の岩にほられた墓だけであった。 PP 83.6

しかし、神の言葉にまちがいはなかった。ユダヤ人のカナン占領も、この約束の最後的成就ではなかった。「約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである」(ガラテヤ3:16)。アブラハム自身、嗣業相続にあずかるはずであった。神の約束の成就は、長く延びるように思われることであろう。「主にあっては、1日は1000年のようであり、1000年は1日のようである」(Ⅱペテロ3:8)。おくれているように見えても、定まった時が来れば、「それは必ず臨む。滞りはしない」(ババクク2:3)。アブラハムと彼の子孫への賜物は、カナンの地だけでなく、地球全体を含むものであった。「なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである」と使徒は言っている(ローマ4:13)。 アブラハムに対してなされた約束は、キリストによって成就されることを、聖書は明らかにしている。キリストにある者はみな、「アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」。すなわち、罪ののろいの取り去られた地の「朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ」相続人である(ガラテヤ3:29、Ⅰペテロ1:4)。「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる」「柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる」(ダニエル7:27、詩篇37:11)。 PP 83.7

神は、この永遠の嗣業の光景をアブラハムに見せられた。彼は、この希望をいだいて満足した。「信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である」(ヘブルⅡ:9、10)。 PP 84.1

アブラハムの子孫について、次のように書かれている。「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」(同11:13)。われわれも「もっと良い、天にあるふるさと」を獲得しようと思うならば、この地上で旅人、また寄留者の生活をしなければならない(同11:16)。アブラハムの子孫は、彼が待ち望んだ、神が「もくろみ、また建てた」都を求めるのである。 PP 84.2