人類のあけぼの

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第12章 カナンにおけるアブラハム

本章は、創世記13~15章、17:1~16、18章に基づく PP 64.2

アブラハムは、「家畜と金銀に非常に富んで」カナンに帰った。ロトも彼といっしょにいた。彼らは、ふたたびベテルに来て、以前に築いた祭壇のそばに天幕を張った。やがて彼らは、財産が増すにつれて悩みも増すことに気づいた。彼らは、困難と試練のただなかにあっては仲よくいっしょに住んだのであるが、繁栄すると彼らの間に争闘の危険があった。牧草は、両方の家畜と群れを養うには十分ではなかった。そのため、牧者どうしの間にたびたび衝突が起こり、アブラハムとロトにその解決を求めるのであった。彼らが別れなければならないことは明らかであった。アブラハムは、ロトよりも年長で、財産や地位においてもすぐれていた。それでも、アブラハムが最初に平和維持の案を提出した。全地は、神がアブラハムに与えられたものであった。しかし、彼は、穏やかにその権利を譲るのであった。 PP 64.3

アブラハムは言った。「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」(創世記13:8、9)。 PP 64.4

ここに、アブラハムの高潔、無我の精神があらわされた。これと同様の立場におかれたとき、なんと多くの人々が、自分の権利や優先権を主張してやまないことであろう。こうして、どれほど多くの家庭が破壊されたことであろう。どれほど多くの教会が分裂して、真理の働きが悪人たちの侮蔑と物笑いの種になったことであろう。「わたしとあなたの間にも……争いがないようにしましょう」。親族関係だけでなくて、真の神の礼拝者でもあるから、「わたしたちは身内の者です」とアブラハムは言った。全世界の神の子らは、1つの家族である。そして同じ愛と融和の精神が彼らを支配しなければならない。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい」とわれわれの救い主はお教えになった(ローマ12:10)。誰にでも礼儀正しくすることを身につけ、人々からしてほしいと思うことを、喜んで人々にするならば、人生の不幸の半分はなくなってしまうことであろう。自己誇張は、サタンの精神である。しかし、キリストの愛を心に持つ者は、自分の利益を求めない愛をもつようになる。そうした人は、「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」という勧告を心にとめるべきであろう(ピリピ2:4)。 PP 64.5

ロトは、財産をもつことができたのはアブラハムといっしょにいたためであったが、彼は恩人に感謝の気持ちをあらわさなかった。まず、アブラハムに選択権を譲るのが礼儀であったが、彼は、そうはせずに自分のほしいものを全部手に入れようと欲張った。「ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、……ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた」(創世記13:10)。パレスチナ全土のなかで、ヨルダンの谷は、最も地味が豊かな地域で、見る者にかつての楽園を思わせた。そして、それは、彼らが少し前に出てきたばかりの、豊かなナイル川沿岸の平野の美しさと肥沃さに匹敵していた。そこには、また、豊かで美しい 都会があって、そのにぎやかな市場では、商売が繁盛しそうに思われた。ロトは、世的利益の幻に目がくらみ、そこで当面する道徳的、霊的害悪を見落としていた。低地の住民は、「主に対して、はなはだしい罪びとであった」(同13:13)。しかし、彼はそのことを知らなかった。たとえ、それを知ってもあまり重きをおかなかった。「ロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって」「天幕をソドムに移した」(同13:11、12)。ロトは、この利己的選択の恐ろしい結果については、なんの予測もしなかった。 PP 64.6

アブラハムは、ロトと別れたあとで、ふたたび、全地を与えるという約束を主から受けた。この後、間もなく、彼はヘブロンに移り、マムレのテレビンの木の下に天幕を張り、そのかたわらに主の祭壇を築いた。彼は、オリーブ園やぶどう園、穀物の穂が波うつ畑、周囲の山々の広々とした牧場にかこまれた高原の大気を吸って、そぼくな家長生活に満足し、ソドムの谷の危険な快楽は、ロトにゆだねた。 PP 65.1

アブラハムは、周囲の国々から、偉大な族長、賢明で力ある首長として尊敬された。彼は、隣人に自分の感化を及ぼさないようにはしなかった。彼の生活と品性は、偶像礼拝者たちと著しく異なっていて、真の信仰の非常によい感化を及ぼした。彼の神への忠誠は不動のものであるとともに、彼の親しみやすさと情深さは、人々の信頼と友情をかち得、彼の飾らない偉大さは、尊敬と栄誉を受けた。 PP 65.2

アブラハムは、宗教をひそかにしまっておいて、所有主がひとりで楽しむ秘宝のようなものだとは思わなかった。真の宗教は、そのようにしまっておけるものではない。そのような精神は福音の原則に反する。キリストが心のなかに住んでおられるなら、彼の臨在の光をかくすことも、あるいは、その光が暗くなることもあり得ない。かえって、魂にかかる自我と罪の霧が、義の太陽の明るい光に照らされて、日ごとに消されていくにつれて、ますます輝きを増すことであろう。 PP 65.3

神の民は、地上の神の代表者である。神は、この世界の道徳的暗黒のなかで、彼らが光になることを望まれる。彼らは、全国の都市や村々に散在した神の証人であって、神は、彼らを通して、神のみこころと神の驚くべき恵みの知識を不信の世界にお伝えになる。大いなる救いにあずかった者がすべて、主のための伝道者になるように神は計画された。クリスチャンの敬神深さを標準にして、世の人々は福音を評価する。忍耐強く試練に耐え、感謝して祝福を受け、柔和、親切、あわれみ、愛を習慣的にあらわすことなどが、世の人々の前で品性から輝き出る光であって、生まれつきのままの心の利己心から出る暗黒との相違を示す。 PP 65.4

アブラハムは、信仰深く寛大で、よく服従し、質素な旅人の生活にあまんじていたが、彼は、また、外交的手腕にたけ、戦いにおいても勇敢で、すぐれた技量をもっていた。アブラハムは、新しい宗教の教師として知られていたにもかかわらず、彼が住んでいたアモリの平原の支配者であった3兄弟は、アブラハムに、彼らと同盟を結んで安全を確保することを申し入れて、その友情を示した。というのは、国内には暴力と圧迫が満ちていたからである。やがて、彼がこの同盟を活用する事件が起こった。 PP 65.5

エラムの王、ケダラオメルは、14年前にカナンに侵入して、これを属国にした。ところが、数人の王が反乱を起こしたので、エラムの王は、他の4か国の連合軍を率いて、ふたたび彼らを屈服させようと侵入してきた。カナンの5人の王は、力を合わせて、シデムの谷で侵略軍と対戦したが完全に打ち破られた。軍隊の大部分は殺され、のがれた者は山に身をかくした。勝利者は、低地の町々をかすめ、たくさんの戦利品と多くの捕虜をつれて引き上げた。そのなかに、ロトとその家族がいた。 PP 65.6

アブラハムは、マムレのテレビンの林の中で平和に暮らしていたが、戦場からにげてきた者から、戦況と、彼のおいにふりかかった災難を聞いた。彼は、ロトの忘恩を不快に思っていなかった。彼のロトに対する愛情がすべて呼びさまされ、彼を救い出そうと決心した。アブラハムは、まず、神の助言を求めて、戦いの準備にとりかかった。アブラハムは、自分の天幕から、神を恐れ、よく主人に仕え、戦いの訓練を受け たしもべたち318人を召集した。彼と同盟を結んだマムレ、エシコル、アネルも部下を率いてアブラハムに加わり、ともに侵略者の追撃に出発した。エラムとその連合軍は、カナンの北境のダンに陣営を張っていた。彼らは勝ち誇って、敗北した敵が攻めてくる心配もなく、陽気に騒いでいた。アブラハムは、異なった方角から接近するために、軍隊を区分けし、夜、陣営を襲った。この激しい不意のアブラハムの攻撃は、またたく間に勝利をおさめた。エラムの王は殺され、あわてふためいた軍勢は完全に敗北した。 PP 65.7

ロトとその家族は、他の捕虜や家財とともに取りかえされ、たくさんの戦利品が勝利者の手に入った。神のもとにあったアブラハムが勝利をおさめるのは当然のことであった。主の礼拝者は、国家のために大きな貢献をしたばかりでなく、彼自身が勇者であることをも証明した。義は決しておくびょうではない。そして、アブラハムの宗教は、権利を守り、圧迫された者を擁護するために、彼に勇気を与えたものであることが明らかに示された。彼の英雄的行為は周囲の民族の間に広く知れわたった。アブラハムが凱旋すると、ソドムの王は、勝利者をたたえるために部下をつれて出迎えた。彼は、アブラハムに、戦利品は自分のものとし、捕虜だけを返してほしいと頼んだ。戦いの習慣によれば、戦利品は勝利者に属することになっていた。しかし、アブラハムは、利益を目的に戦ったのではなかったので、彼は人々の不幸に乗じることを拒み、ただ彼の同盟国の人々が受ける分を求めただけであった。 PP 66.1

こうした試練のときに、アブラハムのような高潔さをあらわすことができる人は少ない。このような莫大な戦利品を手に入れることができる誘惑に勝利する者は少ないことであろう。彼の模範は、利己主義と金銭目当ての精神に対する譴責である。アブラハムは、正義と人道の要求するところを尊重した。彼の行動は、「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」との霊感の言葉の実例であった(レビ19:18)。「天地の主なるいと高き神、主に手をあげて、わたしは誓います。わたしは糸1本でも、くつひも1本でも、あなたのものは何も受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように」と彼は言った(創世記14:22、23)。彼は、こうして、利益のために戦いに参加したとか、彼の繁栄は、人々の贈り物や好意によるものだとか言う口実を人々に与えなかった。神が、アブラハムを祝福すると約束されたのであった。であるから、神に栄光を帰すべきであった。 PP 66.2

勝利したアブラハムを出迎えたもう1人は、サレムの王メルキゼデクであった。彼は、アブラハムの軍隊の労をねぎらうために、パンとぶどう酒とを持ってきた。彼は、「いと高き神の祭司」として、アブラハムを祝福し、アブラハムによって、こうした大きな救いが与えられたことを神に感謝した。そして、アブラハムは、「彼にすべての物の10分の1を贈った」(同14:20)。 PP 66.3

アブラハムは喜びに満ちて、自分の天幕と群れのところにもどった。しかし、彼は気にかかることがあった。彼は、平和を愛好し、できるだけ敵意と争闘をさけてきた。彼は、実際に自分の目でみた殺人の光景を思い出して戦慄した。しかし、敗北した国々は、ふたたびカナン侵略を再開することはまちがいなく、特に、彼のところに復讐にやってくるであろう。こうした諸国の争闘に巻きこまれては、彼の平和な生活の静けさは破られてしまうであろう。それに、彼は、まだカナンの地を手に入れておらず、約束の成就が与えられている世継ぎを、今望むこともできなかった。 PP 66.4

夜の幻のうちに、ふたたび天の声が聞こえた。「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」と諸王の王が言われた(同15:1)。しかし、彼の心は不安に閉ざされ、これまでのように疑わずに確信をもって約束をつかむことができなかった。彼は、それが成就するという具体的証拠を祈り求めた。むすこが与えられないのに、どのようにして契約は実現するのであろうか。彼は言った。「わたしには子がなく、……あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」「わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでし よう」(同15:2、3)。アブラハムは、彼の信頼するしもべのエリエゼルを養子にして、財産を相続させようと思った。しかし、彼自身のむすこが彼の世継ぎになるという保証が与えられた。そして、彼は、天幕の外に連れ出され、天に輝く無数の星を見るように言われた。彼がその通りにすると、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」という言葉が語られた(同15:5)。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」(ローマ4:3)。 PP 66.5

それでもアブラハムは、彼の信仰の確証と神の彼らに対する恵み深いみこころは成就されるということの後世に対する証拠として、何か目に見えるしるしを求めた。主は、当時の人々が厳粛な契約の批准をするのと同じ方法によって、アブラハムと契約を結ぶことに応じられた。アブラハムは、神の指示に従って、3歳の雌牛、雌やぎ、雄羊などを犠牲にし、そのからだを裂いて、少し間を置いて並べた。それに、彼は、山ばとと家ばとのひなを加えたが、これは裂かなかった。こうしておいて、アブラハムは、うやうやしく、犠牲の裂かれたものの間を通り、永遠の服従を厳粛に誓った。彼は、夕暮れ近くまで犠牲のそばにいて、荒い鳥に汚されたり、食い散らされたりしないように、じっと見守っていた。日暮れに彼は深い眠りにおちた。すると「大きな恐ろしい暗やみが彼に臨んだ」(創世記15:12)。そして、神の声が聞こえ、約束の国をすぐ所有することを期待しないように命じ、また、カナンに定住する前に、彼の子孫は苦難にあうことを予告した。ここで、キリストの死という大きな犠牲と栄光の来臨による贖罪の計画が彼に示された。アブラハムは、また、地上がふたたびエデンの美しさに回復されて、永遠の所有として彼に与えられ、約束がついに完全に成就することを示された。 PP 67.1

この神と人との契約のしるしとして、神の臨在の象徴である煙の立つかまどと炎の出るたいまつが、裂かれた犠牲の間を通りすぎ、それらを完全に焼き尽くした。アブラハムは、「エジプトの川から、かの大川ユフラテ」に至るカナンの地が、彼の子孫に与えられるという保証の言葉を重ねて聞いた(同15:18)。 PP 67.2

アブラハムがカナンに住んで25年ほどたったときに、主は彼に現れて、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われた(同17:1)。アブラハムが地に伏していると、「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう」という言葉が続いた(同17:4)。この契約の成就のしるしとして、これまで、アブラムと呼ばれていた名が「多くの国民の父」を意味するアブラハムに変えられた。サライの名もサラ(王妃)となった。「彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」と神は言われた(同17:16)。 PP 67.3

このとき、アブラハムは、「無割礼のままで信仰によって受けた義の証印」として割礼を受けた(ローマ4:11)。割礼は、アブラハムとその子孫が、自分たちを神の奉仕にささげて偶像礼拝者から離れ、そして、神が彼らを神の特別の宝としてお受けになったことのしるしとして、守るべきものであった。彼らは、この儀式を行うことにより、アブラハムに与えられた契約の条件を彼らの側で成就することを誓うのであった。彼らは、異邦人と結婚してはならなかった。なぜなら、そうすることによって、彼らは、神とその清い律法に対する尊敬を失い、他の国々の罪の習慣に誘惑され、偶像礼拝に陥るからである。 PP 67.4

神は、アブラハムに大きな名誉をお与えになった。天使が友だち同士のように彼と歩き、語った。ソドムに神の刑罰が下されようとしたときも、その事実が彼にはかくされなかった。そして、彼は、罪人のために、神にとりなす者となった。彼と天使たちとの出会いは、美しいもてなしの模範である。 PP 67.5

暑い夏の真昼間、アブラハムが天幕の入口にすわって静かなけしきをながめていると、はるかむこうから3人の旅人が近づいてくるのが見えた。旅人たちは、彼の天幕に近づく前に、立ちどまって行き先の相談をしているように見えた。アブラハムは、彼らが他の方向へ行こうとするような様子を見て、彼らの依頼を受ける前に立ち上がって、急いで彼らのそばに寄り、礼をつくして、自分の家に止まってしばらく休息 をとるように願った。アブラハムは、彼らがちりによごれた足を洗うために自分で水をくんできた。そして、旅人が涼しい木陰で休んでいる間に、アブラハムは食事の用意をした。その準備が終わると、客が食事をしている間、彼は、そのそばにかしこまって立っていた。神は、このていねいな行為を聖書に記録する重要性が十分にあるものとお認めになった。そして、1000年ほどたって、使徒は、霊感によってそのことに言及してこう言った。「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした」(ヘブル13:2)。 PP 67.6

アブラハムは、こうした客を、普通の旅に疲れた3人の旅人であると思い、そのなかの1人は、罪のないお方として、彼が礼拝をする方であることを少しも知らなかった。ところが、天からの使者の真の性格があらわされた。彼らは、怒りの使者として、刑罰を下すために行く途中であったが、信仰の人アブラハムには、まず祝福の言葉を語った。神は、厳格に罪を示し、悪を罰するのであるが、報復を喜ばれない。滅びのわざは、無限の愛の神には、「そのわざは異なったもの」である(イザヤ28:21)。 PP 68.1

「主の親しみは主をおそれる者のためにあり」(詩篇25:14)。アブラハムは、神を尊んだ。それで、主も彼を尊び、神の会議に彼を加えて、みこころを彼にあらわされた。「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」と主は言われた(創世記18:17)。「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」(同18:20)。神は、ソドムの罪の量を知っておられた。しかし、彼は、彼の処置の正当性を、人間が理解できるように、人間的表現をなさった。主は、罪人に刑罰を下すに先だって、主ご自身が行って、彼らの行動を調査される。もし彼らが、まだ神の恵みの限度を越えていなければ、彼は、なお、彼らに悔い改めの機会をお与えになる。 PP 68.2

2人の天使は、アブラハムとあとの1人を残して出かけたが、彼はいま、この方が神のみ子であることを知った。信仰のあつい彼は、ソドムの住民のためにとりなした。彼は、剣によって彼らを救ったことがあるが今度は祈りによって彼らを救おうとした。ロトと彼の家族はまだそこに住んでいた。かつて、エラム人から彼らを救ったアブラハムの無我の愛は、もし、神のみこころならば、神の激しい刑罰から彼らをふたたび救い出したいと願った。 PP 68.3

彼は、深い尊敬と謙虚な心で訴えた。「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します」(同18:27)。自信や自己の義を誇る心はなかった。彼は、自分の服従とか神のみこころを行うための犠牲とかを理由にして、恵みを求めたのではない。彼は、自分自身罪人であるが、罪人のために哀訴した。神に近づく人々は、すべてこのような精神を持たなければならない。アブラハムは、愛する父親に訴える子供のような確信をあらわした。彼は、天の使者のそばに近づいて熱心に訴えた。ロトは、ソドムの住民にはなったけれども、彼は、住民の罪に参加していなかった。アブラハムは、人口の多いこの町に、真の神の礼拝者がほかにもあるにちがいないと思った。そう考えて、「正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。……全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」と彼は訴えた(同18:25)。アブラハムは1度だけでなく何度も願った。願いが聞かれるにつれて大胆になり、もし、10人の義人がソドムにいたならば、町は救われるという確証をついに得た。 PP 68.4

アブラハムは、滅亡に瀕した魂への愛に動かされて祈った。彼は、腐敗したソドムの町の罪はきらったが、罪人が救われることを願った。アブラハムがソドムのために抱いた深い関心は、われわれが悔い改めていない人々に対して感じなければならない切実な思いを示している。われわれは、罪を憎まなければならないが、罪人には、憐れみと愛を持たなければならない。われわれの周りには、ソドムにのぞんだのと同じように、希望なく恐ろしい破滅に陥っている魂かある。毎日、だれかの恵みの期間が閉じている。毎 時間、だれかが恵みのとどかないところへ移っていく。それなのに、恐ろしい運命をさけるように罪人に訴え、警告する声はどこにあるのだろうか。罪人を死から引き返すためにどこに救いの手がさしのべられているだろうか。謙遜に、しかも忍耐強い信仰をもって、罪人のためにとりなす人はどこにいるであろうか。 PP 68.5

アブラハムの精神は、キリストの精神であった。神のみ子ご自身が罪人のために偉大な仲保者になられた。罪人の贖罪のためにその代価を払われたかたが、人間の魂の価値を知っておられる。キリストは、なんの汚れもない清い性質をもった者だけがいだくことのできる悪への敵意を示すとともに、無限の慈悲をもった者だけがいだくことのできる愛を罪人にお示しになった。キリストは、ご自分が十字架の苦しみのなかで、全世界の恐ろしい罪の重荷を背負われたとき、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と、嘲笑者や殺人者のために祈られた(ルカ23:34)。 PP 69.1

アブラハムについては、「彼は『神の友』と唱えられ」「信じて義とされるにいたるすべての人の父」としるされている(ヤコブ2:23、ローマ4:11)。この忠実な父祖アブラハムについて、神ご自身このようにあかしされた。「アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守った」(創世記26:5)。また、「わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」(同18:19)。アブラハムは、非常に名誉ある召しを受けた。彼は、世界に対して、数世紀間にわたって神の真理の擁護名、また、保持者となる民族の父となり、その民族のなかから、地のすべての国々を祝福する約束のメシヤが来臨なさるのであった。しかし、アブラハムを召された神は、彼の価値を認められた。語られるのは神である。人の思いを遠くから知り、人を正しく評価される神は、「わたしは彼を知ったのである」と言われる。アブラハムの側においては、利己的目的のために、真理を裏切ることはなかった。彼は律法を守り、公明正大にふるまうであろう。彼は、自分自身が主を恐れるだけでなくて、家庭のなかで宗教をはぐくむであろう。彼は、義をもって、家族を教える。神の律法が彼の家の規則になるのであった。 PP 69.2

アブラハムの家には、1000人以上の人々がいた。彼の教えを受けて、1人の神を礼拝するようになった者は彼の天幕に住むようになった。そして、彼らは、ちょうど学校のように、ここで真の信仰の代表者となるための教育を受けた。こうして、彼の上に、大きな責任が負わせられた。彼は、家族のかしらたちを教育していた。そして、彼の管理の方法は、彼らが治める各家庭で実行されるのであった。 PP 69.3

初期のころ、父親は家族の統治者であり、祭司であって、子供たちが自分の家族をもった後までも、彼らの上に権威をふるった。彼の子孫は、彼を宗教上ならびに、政治上の首長として尊ぶように教えられた。この制度は神の知識を保存させるものであったから、アブラハムは、この家長制度の組織を永続させようと努力した。各地に広く行きわたって、深く根をおろした偶像礼拝に対する防壁を築くために、家族の全員をまとめることが必要であった。罪悪に親しむならば、知らず知らずのうちに原則を犯すようになることをアブラハムは知っていたので、彼の天幕の住人たちが、異教徒と交わり、偶像礼拝の習慣を見ることがないように、あらゆる方法によって彼らを守ろうとした。彼は、偽りの宗教のどんな形のものも閉め出し、真の礼拝の対象である生きた神の栄光と威厳を人々の心に深く印象づけようと最大の注意を払ったのである。 PP 69.4

神の民が異教徒との接触をできるだけ断ち、周囲の国民と交わらず、自分たちだけで生活するようにしたのは神ご自身の賢明な処置であった。神が、父祖アブラハムを偶像礼拝者であった親族から離れさせたのは、当時、メソポタミヤにはびこっていた腐敗的感化から、彼とその家族を引き離して、教育と訓練を施し、各時代にわたって、彼の子孫に真の信仰を清く保たせるためであった。 PP 69.5

アブラハムは、彼の子供たちと家族を愛していたので、彼らの信仰を保護し、彼が彼らに与えることのできる最も尊い遺産として、神の律法の知識を彼らに教えた。これは、彼らが世界に伝えるべきものであった。すべての者が、天の神の統治下にあることを教えられた。親が子供を圧迫したり、子供が不従順であったりしてはならなかった。神の律法が各自の義務を示していたから、それに服従する者だけが、幸福と繁栄を得ることができた。 PP 70.1

彼自身の模範、彼の日常生活の無言の感化は、不断の教訓であった。王たちの賞賛をかちえたゆるがない高潔な精神、慈愛と無我の精神による親切は、家庭でも発揮された。生活に芳香がただよい、品性の気高さと美しさとは、彼が天と結ばれていることをすべての者にあらわした。彼は、どんなに卑しい身分の奴隷の魂も軽視しなかった。彼の家では、主人としもべを別々に扱い、金持ちと貧者を区別して扱う規則はなかった。だれもが、彼とともに生命の恩恵を受け継ぐ者として、公平と同情をもって扱われた。 PP 70.2

アブラハムは、「家族に命じ」た。彼は、子供たちの悪の傾向を放任するような恐ろしいことをせず、大目に見て、えこひいきをするような愚かさや弱さもなく、また、誤った愛情におぼれて、自分の義務を曲げることもなかった。彼は、正しい教育を施したばかりでなく、公正と義の律法の権威を保ったのである。 PP 70.3

今日、彼の模範にならう者がいかに少ないことであろう。多くの親たちは、盲目的で、利己的な感傷とまちがった愛情に陥り、子供たちが彼らのまだ十分に成長していない判断力と訓練されていない欲望とをほしいままにするのを放任している。これは、青年たちにとって全く残酷なことであり、世界にとって大きな罪である。家庭と社会の無秩序の原因は、親の怠慢にある。それは神の要求に従うかわりに、青年たちの好むままを行う欲求をますます強固にする。こうして、彼らは神のみこころを行うことをきらって成長し、その非宗教的で不従順な性質を彼らの子孫に伝える。親は、アブラハムのように、家族に服従を命じる必要がある。神の権威に服従する第1歩として、親の権威に服従することを教えて実行させよう。 PP 70.4

神の律法が、宗教的指導者にさえ軽視されることは、大きな害悪を生んでいる。神の律法は、もはや人間を拘束しないという教えが一般に広まっているが、これは、人々の道徳に偶像礼拝と同じ結果を与えている。神の清い律法の要求を低下させようとする人々は、家族と国家の組織の根底に直接攻撃を加える。信仰は持っていても神の律法に従っていない親は、主の道を守るように家族に命じない。神の律法が、生活の規準にされていない。子供たちがそれぞれの家庭を築くときに、彼ら自身が教えられなかったことを子供たちに教える義務は感じない。今日、不信仰な家庭がこんなに多いのはそのためである。堕落がこんなに深く、広く及んでいるのもこのためである。 PP 70.5

親自身が、全心をこめて主の律法に従って歩かないかぎり、子供たちに服従を命じることはできない。この点に改革が必要で、深く、広い改革が行われなければならない。親に改革が必要であり、牧師に改革が必要である。彼らの家庭に、神が必要である。もし彼らが変化を希望するならば、彼らの家庭に神の言葉を入れ、その勧告に従わなければならない。それは、彼らに語る神の声であり、それに絶対に服従すべきであることを、彼らは子供たちに教えなければならない。親は忍耐深く子供たちを教え、神を喜ばせるためには、どのように生きるべきかを、やさしく、たゆまず教えなければならない。こうした家庭の子供たちは、無神論の詭弁に立ちむかう準備がある。彼らは、聖書を彼らの信仰の基礎として受け入れた。彼らは、懐疑論の潮流に流されない土台を持っている。 PP 70.6

あまりにも多くの家庭で、祈りがなおざりにされている。親たちは、朝夕の礼拝をする時間がないと考えている。彼らは、植物を繁茂させる輝く日光や雨、聖天使の保護などの豊かな恵みに対して、神に感謝する時間を少しもさくことをしない。彼らは、神の助けと導きを求め、家庭にイエスがおとどまりになるように、祈りを捧げる時間を持たない。彼らは、神に ついても天のことについても考えず、牛馬のように働く。彼らが何の望みもなく、失われることのないように、その贖いとして、神のみ子は生命をお与えになった。人間は、それほど尊い魂を持っている。それだのに、彼らは滅びてしまう獣と同様に、神の大きな恵みに感謝することをしない。 PP 70.7

昔の父祖たちのように、神を愛すると告白する者は、どこに天幕を張っても、そこに主の祭壇を築かなければならない。すべての家が祈りの家でなければならない時があるとすれば、それは今である。父親も、母親も、自分たちと子供たちのために、謙遜に願いをなし、心を神にむけなければならない。父親は、家庭の祭司として、朝夕の犠牲を神の祭壇に捧げ、妻と子供たちは、祈りと賛美に加わろう。イエスは、そうした家庭に喜んでとどまられる。 PP 71.1

すべてのクリスチャンの家庭から、清い光が輝き出なければならない。愛は、行動に現されるべきである。愛は、家庭のすべての交わりにあふれ出て、思いやりとおだやかさと、自分を忘れたやさしさとなって現れるべきである。この原則が実行されている家庭がある。それは、神が礼拝され、真の愛が支配している家庭である。これらの家庭から、朝夕の祈りはこうばしいかおりのように、神のみもとにのぼり、神の恵みと祝福は朝露のように祈る者の上に降るのである。 PP 71.2

よく治められたクリスチャンの家庭は、キリスト教の真実性を支持する力強い論証で、無神論者もこれに反論できない。こうして、家庭が子供に感化を及ぼし、アブラハムの神が彼らとともにおられることが、すべての人にわかる。もし、クリスチャンと言っている者の家庭が、宗教的に正しい型のものであれば、それは、非常によい感化を与える。彼らは、真に「世の光」となる。天の神は、すべての忠実な親たちに、アブラハムに語られた言葉を語られる。「わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」(同18:19)。 PP 71.3