人類のあけぼの
第11章 神の召しに応じたアブラハム
本章は、創世記12章に基づく PP 60.2
バベルからの離散後、偶像礼拝は、また、全世界に広くゆきわたり、主は、ついにかたくなな罪人たちが悪を行うのを放任しておかれる一方、セムの系統のアブラハムを召して、後の時代の人々のために、神の律法を継承する者とされた。アブラハムは、迷信と異教のなかで成長したのであった。神の知識を保っていた彼の父の家族でさえ、周りの魅力的感化に負けて、主より「ほかの神々に仕えて」いた。しかし、真の信仰が絶えてしまったわけではなかった。アダム、セツ、エノク、メトセラ、ノア、セムなどが次々に立ち上がり、神のみこころの尊い啓示を代々保ったのであった。テラの子が、この神聖な信任にあずかる者になったのである。偶像礼拝は、あらゆる面から彼を誘惑したが、彼は負けなかった。アブラハムは、信仰のない人々のなかで、信仰あつく、神にそむいた人々のなかで汚されず、ただ1人、真の神の礼拝を堅く守り続けた。「すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです」(詩篇145:18)。神は、ご自身のみこころをアブラハムに伝え、律法の要求や、キリストを通してなしとげられる救いについての明確な知識を彼にお与えになった。 PP 60.3
神は、当時の人々が特に重んじていた子孫の繁栄と国家の強大さとをアブラハムに約束して言われた。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:2)。そして、彼の子孫から世の贖い主がお生まれになるという他のすべての約束にまさって尊い保証が、信仰の継承者にそえて与えられた。「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(同3節)。しかし、それが成就される最初の条件として、信仰の試練を受けなければならなかった。犠牲が要求されたのである。 PP 60.4
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」と、神はアブラハムに言われた(同1節)。神が、アブラハムを清いみことばの擁護者としての偉大な任務にふさわしい者とするためには、まず、アブラハムを、彼の青年時代の仲間から引き離さなければならなかった。親族や友人たちの感化は、主がそのしもべに与えようとされた訓練を妨げるおそれがあった。アブラハムは、特別の意味で神につながったのであるから、他国人の間に住まなければならなかった。彼の品性は、世とは全く異なり、特殊なものでなければならなかった。彼は、自分の行動を友人たちに理解してもらうように説明することもできなかった。霊のことは、霊によって理解される。そして、彼の動機と行動とは、偶像教徒の親族には理解されなかった。 PP 60.5
「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)。アブラハムの絶対服従は、全聖書を通じて見られる最も驚くべき信仰の例証の1つである。彼にとって、信仰とは、「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」であった(同1節)。彼は、神の 約束の成就に対する外見上の何の保証もないまま、神の約束にたよって、どこへ行くのかも知らずに、家や親族、故郷を捨てて神がお導きになる所に従おうとして出て行った。「信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ」(同9節)。 PP 60.6
アブラハムに臨んだ試練は、決して軽いものではなく、彼に要求された犠牲は、小さくはなかった。アブラハムは、故郷、親族、家庭と、堅いきずなで結ばれていた。しかし、彼は、ためらうことなく召しに従った。彼は約束の地が肥沃であるか、健康的気候なのか、また、そこは快適な環境で、富を蓄積する機会があるかなどは聞かなかった。神がお語りになったのであるから、神のしもべは従わなければならなかった。彼にとって、この地上で最も幸福な場所は、神が彼にいるようにお望みになるところであった。 PP 61.1
アブラハムのように、今日も、なお、多くの人々が試みを受ける。彼らは、天から直接語られる神の声を聞かないが、神は、神のみことばの教訓と摂理の出来事によって彼らを召される。富と栄誉を約束する職業を捨てて、気の合った有益な仲間を離れ、親族と別れ、克己と困難と犠牲だけを要求するように思われる道に進むように要求されるであろう。神は、彼らに仕事をさせようとしておられる。しかし、安易な生活、友人や親族の感化は、その働きを完成するのに必要な品性の発達を妨げるのである。神は、彼らを人間的感化や援助から遠ざけて彼らに神の助けの必要を感じさせ、ただ神にだけ頼るように導いて、彼らにご自身を啓示しようとなさるのである。 PP 61.2
心に秘めた計画や親しい友との交わりを捨てて、神の摂理の召しに応じる者は誰であろうか。キリストのための損は利益であると考えで、新しい任務を引き受け、働きが始められていない地に行き、堅い決心のもとに喜んで神のみわざに従事するのは誰であろうか。このようにする人は、アブラハムと同じ信仰を持っている。そして、彼は、「永遠の重い栄光を、あふれるばかりに」彼とともに受ける。「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(Ⅱコリント4:17、ローマ8:18)。 PP 61.3
天からの召しは、アブラハムが「カルデヤのウル」に住んでいたときに初めて彼に与えられた。そして、彼は命じられるままにハランに移った。彼の父の家族は、ここまでいっしょであった。彼らは、偶像礼拝と真の神の礼拝もともに行っていたからである。アブラハムは、テラが死ぬまでここにとどまっていた。しかし、神の声は、父の墓を離れて前進することを命じた。彼の兄弟ナホルとその家族は家にとどまり、偶像礼拝を行った。アブラハムの妻サラのほかに、早くなくなったハランのむすこロトだけがいっしょに旅をすることになった。それでもメソポタミヤを出発した人々の数は多かった。アブラハムは、東の国の富である家畜や羊の群れをすでに多く持っていた。そして、数多くのしもべたちや部下たちに囲まれていた。アブラハムは、「集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えて」祖先の地と永久の別れを告げようとしていた(創世記12:5)。これらの人々のなかには、働くことや自己の利益を求めることよりも高尚な考え方に動かされた者が多くいた。ハランに滞在していた間に、アブラハムとサラは、ともに、他の人々を真の神の礼拝と奉仕に導いた。この人々は、アブラハムの家族につながり、彼とともに約束の国へ従ってきた。彼らは、「カナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた」(同下句)。 PP 61.4
彼らが最初にとどまった所はシケムであった。アブラハムは、こちらのエバル山と向こう側のゲリジム山との間にあるモレのテレピンの木陰に天幕を張った。そこはオリーブの林があって、泉がわき出ている広い草原であった。アブラハムが着いたところは、美しくよい地であった。「そこは谷にも山にもわき出る水の流れ、泉、および淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく及びざくろのある地」であった(申命記8:7)。しかし、主の礼拝者の目から見ると、木の茂る丘やくだものの豊かな平原には、暗い陰がかかっていた。「そのころカナンびとがその地にいた」(創世記12:6)。アブラハムは、待望していた目的地に到着 してみると、国は、異邦人が占領していて偶像礼拝が広く行われていた。森のなかには、偽りの神々の祭壇が築かれていて、近くの山頂では人間の犠牲が捧げられていた。 PP 61.5
アブラハムは、神の約束にしっかりとすがってはいたものの、天幕を張ったときに、不幸な出来事の予感がないわけではなかった。「時に主はアブラムに現れて言われた、『わたしはあなたの子孫にこの地を与えます』」(同7節)。彼の信仰は、神が彼とともにおられて、悪人の思いのままになることはないという保証の言葉によって力づけられた。「アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(同下句)。彼はまだ旅人であったので、間もなくべテルの近くに移り、またそこに祭壇を築いて、主の名を呼んだ。 PP 62.1
「神の友」アブラハムは、尊い模範を残した。彼の一生は、祈りの生涯であった。彼は、天幕を張ると必ずそのそばに祭壇を築いて、朝夕の犠牲を捧げるときに天幕内のすべての者を集めた。彼の天幕が移動していくと、祭壇はそこに残った。後年、アブラハムから教えを受けたカナン人が、そのあたりで放浪生活を営んだ。そうした人々のなかの誰かが祭壇を見つけると、そこに誰が住んでいたかがすぐにわかった。そして、そこに自分の天幕を張り、祭壇を修理して、生きた神を礼拝するのであった。 PP 62.2
アブラハムは、南に旅を続けていった。そして、ふたたび、彼の信仰は試みられた。天から雨は降らず、谷間の小川の水は枯れ、平原の草はしぼんだ。家畜や羊の群れの牧草がなくなり、天幕全体の者が餓死しそうになった。 PP 62.3
さて、アブラハムは、神の摂理の導きを疑わなかっただろうか。豊かなカルデヤの平原に帰りたいと思わなかったであろうか。一同は、次々と苦難におそわれるアブラハムが、いったいどうするであろうかと、しきりに彼を見つめていた。人々は、アブラハムの確信がゆるぎさえしなければ、希望がもてると思った。彼らは、神がアブラハムの友であり、彼を導いておられることを確信した。 PP 62.4
アブラハムは、神の摂理の導きを説明することはできなかった。彼は自分が期待していることを現実のものとしてはいなかった。しかし、「あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」という約束を堅く信じた(同2節)。彼は、周囲の環境によって神のみ言葉に対する信仰が動かされるのを許さず、熱心に祈って、自分の家族と家畜の生命をつなぐ方法を考えていた。アブラハムは、ききんを避けるためにエジプトに下った。彼は、カナンを見すてたのではなかった。また困苦の末、食物にはことかかない故郷のカルデヤの地にもどろうとしなかった。彼は、約束の地にできるだけ近い所にしばらくのがれて、神が定められた場所に、間もなく帰るつもりであった。 PP 62.5
主は、摂理のうちに、この試練を与えて、服従、忍耐、信仰などの教訓を教えようとなさった。この教えは、後で苦難に耐えるように召されるすべての人のために記録されることになった。神は、神の子らを彼らの知らない道に導かれるが、神は、神に頼る者を忘れたり、見捨てたりなさらない。神はヨブに苦難がのぞむのをお許しになった。しかし、神は、彼をお見捨てにならなかった。神は、愛するヨハネが、パトモスの孤島に流されることを許された。しかし、そこで神のみ子がヨハネに会われた。そして、彼の幻は、不滅の栄光に輝く光景で満たされたのである。神は、神の民が試練にあうのを許される。それは、彼らが神に誠実を尽くし、服従することによって、彼ら自身が霊的に豊かになるためである。 PP 62.6
さらに、彼らの模範によって、他の人々に奨励を与えるためである。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするもの」である(エレミヤ29:11)。われわれの信仰を最もきびしく鍛え、神は、あたかもわれわれを見捨てられたのかと思わせるような試練そのものが、実は、われわれがすべての重荷を主のみもとにおろして、それに代えて彼がお与えになる平和を味わうことができるように、われわれをキリストのそば近くに 導くべきである。 PP 62.7
神は、常に神の民を悩みの炉の中で試みてこられた。クリスチャン品性という純金から不純物が取り除かれるのは、炉の火の中においてである。イエスは、この試練を見守っておられる。彼は、尊い金属をきよめて、彼の愛の輝きを反映させるのには、何が必要であるかを知っておられる。神は、綿密なきびしい試練によって、そのしもべたちを訓練なさる。神は、ある人が神のみわざの進展のために役立つ能力を持っているのを見られて、そのような人々をためされる。神は、摂理のうちに、彼らの品性をためす地位に彼らをおいて、彼ら自身でも気づかなかった欠点や弱点をあらわされる。神は、彼らがこれらの欠点を直して、奉仕にふさわしいものになる機会をお与えになる。神は彼ら自身の弱さを示して、神に頼ることをお教えになる。なぜならば、神が彼らの唯一の援助者であり、保護者だからである。こうして、神の目的は達成される。彼らには、大目的達成のための教育、訓練、鍛練、準備などが与えられる。彼らの力は、そのために与えられたのである。神が彼らを活動に召されるとき、彼らは準備が整っている。そして、天使たちは、地上の働きを完結するために力を合わせるのである。 PP 63.1
アブラハムは、エジプトに滞在していた間に、彼がまだ人間的に弱く、不完全であるという証拠をあらわした。彼は、サラが妻であることを隠して、神の守護に対する不信を示し、これまで彼の生涯において何度となくりっぱに示されたあの大いなる信仰と勇気を欠いたのである。サラは美しい女であった。アブラハムは、浅黒いエジプト人はきっと美しい外国人をほしがり、彼女を得るためには、平気でその夫を殺すことだろうと考えた。彼は、サラが父の娘ではあったが、自分の母の娘ではなかったので、自分の妹だと言っても、うその罪にはならないと考えた。しかし、ふたりの間の真の関係をこうして隠したことは欺瞞であった。全く正直であることから少しでもそれることを神は許されない。アブラハムの信仰が欠けていたために、サラは大きな危険にさらされた。エジプトの王は、彼女の美しさを聞いて、宮廷に召し入れ、彼女を妻に迎えようとした。しかし、主は、王家に刑罰を下し、大きなあわれみをもってサラを守られた。ハロは、こうして真実を知り、自分が欺かれたことを怒って、アブラハムを責めた。「あなたはわたしになんという事をしたのですか。……あなたはなぜ、彼女はわたしの妹ですと言ったのですか。わたしは彼女を妻にしようとしていました。さあ、あなたの妻はここにいます。連れて行ってください」と言って妻をかえした(創世記12:18、19)。 PP 63.2
アブラハムは、王から非常な好意を受けていた。こうなったからといって、パロは、アブラハムとその仲間に危害を加えることを許さず、彼らを安全に国外に送り出すように護衛の者に命じた。このころ、エジプト人が外国の羊飼いと飲み食いして交際することは、法律で禁じられていた。パロがアブラハムを去らせたことは、親切で寛大な行為であった。しかし、彼は、アブラハムにエジプトを去ることを命じた。王は、彼がとどまることを許さなかった。パロは、知らずに、アブラハムに大きな危害を加えそうになった。しかし、神が手を下されて、王が大きな罪を犯さないようにしてくださった。パロは、この旅人が天の神の恵みを受けていることを知り、このように神の恵みにあずかっている者を国内にとどめておくことを恐れた。もしもアブラハムがエジプトにとどまっていたら、彼の富と名誉の増大は、エジプト人のねたみとむさぼりをひき起こして、彼に危害が加えられ、その責任がパロ王に帰せられて、ふたたび、王家に災いが下るかも知れなかった。 PP 63.3
パロに与えられた警告は、その後のアブラハムの異邦人との交際を保護するものとなった。というのは、このことは、秘密にしておけなかった。そして、アブラハムが礼拝する神は、そのしもべを守り、彼に危害が加えられるならば、報復なさることが明らかにされた。天の王の子らの1人に悪を行うことは危険である。詩篇記者は、アブラハムのこの経験を引用して、選民について語り、次のように言っている。神は、「彼らのために王たちを懲らしめて、言われた、『わが油そそがれた者たちにさわってはならない、わが預言 者たちに害を加えてはならない』と」(詩篇105:14、15)。 PP 63.4
エジプトでのアブラハムの経験と幾世紀もたった後の彼の子孫の経験には、興味深い類似点がある。両方ともききんのために、エジプトに下って滞在した。彼らを保護するために下った神の刑罰によって、エジプト人は、イスラエルの人々を恐れた。そして、彼らは、異邦人から贈り物を受けて豊かになり、大きな資産を持って立ち去った。 PP 64.1