人類のあけぼの
第53章 初期の士師たち
本章は、士師記6~8章、10章に基づく PP 283.1
部族は、カナン定住後、国土の征服を完成するために活発な努力をしなかった。すでに得た領土に満足して、やがて、彼らの気力は衰えて戦争をやめてしまった。「イスラエルは強くなったとき、カナンびとを強制労働に服させ、彼らをことごとくは追い出さなかった」(士師記1:28)。 PP 283.2
主は、ご自分がイスラエルになさった約束を忠実にお果たしになった。ヨシュアは、カナン人の力をくじき、国土を部族の間に分配した。あとは、彼らが神の援助の確証を信頼して、土地に住んでいる住民を追い出す仕事を完成すればよかった。しかし、彼らはそれをしなかったのである。彼らは、カナン人と同盟を結んで、神の命令に直接反逆し、そうすることによって、神が彼らにお与えになったカナン所有の約束の条件を履行しなかった。 PP 283.3
神が、シナイにおいて、彼らと交わられた一番初めのときから、彼らには、偶像礼拝に対する警告が与えられていた。律法宣言の直後、カナンの国々について、モーセによって次のような知らせが、彼らに与えられた。「あなたは彼らの神々を拝んではならない。これに仕えてはならない。また彼らのおこないにならってはならない。あなたは彼らを全く打ち倒し、その石の柱を打ち砕かなければならない。あなたがたの神、主に仕えなければならない。そうすれば、わたしはあなたがたのパンと水を祝し、あなたがたのうちから病を除き去るであろう」(出エジプト23:24、25)。彼らが忠実であるかぎり、神は、彼らの前の敵を滅ぼされるという確証が与えられた。「わたしはあなたの先に、わたしの恐れをつかわし、あなたが行く所の民を、ことごとく打ち破り、すべての敵に、その背をあなたの方へ向けさせるであろう。わたしはまた、くまばちをあなたの先につかわすであろう。これはヒビびと、カナンびと、およびヘテびとをあなたの前から追い払うであろう。しかし、わたしは彼らを1年のうちには、あなたの前から追い払わないであろう。土地が荒れすたれ、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払うであろう。あなたは、ついにふえひろがって、この地を継ぐようになるであろう。……この地に住んでいる者をあなたの手にわたすであろう。あなたは彼らをあなたの前から追い払うであろう。あなたは彼ら、および彼らの神々と契約を結んではならない。彼らはあなたの国に住んではならない。彼らがあなたをいざなって、わたしに対して罪を犯させることのないためである。もし、あなたが彼らの神に仕えるならば、それは必ずあなたのわなとなるであろう」(同23:27~33)。モーセは、こうした指示を、その死の前にいとも厳粛に反復し、それをまたヨシュアがくり返した。 PP 283.4
神は、道徳的罪悪の潮流をとめ、世界じゅうが洪水になるのを防ぐ防壁として、神の民をカナンにおかれた。もし、イスラエルが忠実であったならば、神は、彼らが征服に征服を続けていくようにご計画になった。神は、カナン人よりも強大な国家を彼らの手に渡そうとしておられた。約束は、こうであった。「もしわたしがあなたがたに命じるこのすべての命令をよく守って行……うならば、主はこの国々の民を皆、あなたがたの前から追い払われ、あなたがたはあなたがたよりも大きく、かつ強い国々を取るに至るであろう。あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。だれもあなたがたに立ち向かうことのできる者はないであろう。あなたがたの神、主は、かつて言われたように、あなたがたの踏み入る地の人々が、あなたがたを恐れおののくようにされるであろう」(申命記11:22~25)。 PP 283.5
彼らは、こうした崇高な運命のもとにあったにもかかわらず安易と放縦の道を選んだ。彼らは、国土征服を完成する機会を逸した。そして、彼らは、幾 世代もの間、これらの偶像教徒の子孫に悩まされた。その人々は、預言者が預言していたとおり、彼らの目に「とげ」となり、彼らのわきに「いばら」となったのである(民数記33:55)。 PP 283.6
イスラエル人は、「かえってもろもろの国民とまじってそのわざになら」った(詩篇106:35)。彼らは、カナン人と雑婚し、偶像礼拝は、疫病のように国中に広がった。「自分たちのわなとなった偶像に仕えた。彼らはそのむすこ、娘たちを悪霊にささげ、……こうして国は血で汚された。……それゆえ、主の怒りがその民にむかって燃え、その嗣業を憎ん」だ(同106:36~40)。 PP 284.1
ヨシュアの教えを受けた世代がなくなってしまうまでは、偶像礼拝はほとんど広がらなかった。しかし、両親が子供たちの背信の道を開いた。カナンを占領した人々が、主の制限を無視したことが悪の種となり、その後、幾世代もの間、苦い果実を結び続けた。ヘブル人の単純な習慣は、彼らを肉体的に健康にした。ところが、異教徒と交際して食欲と情欲にふけり、徐々に体力を衰えさせ、知的、道徳的能力を弱めてしまった。イスラエル人は、自分たちの罪のために、神から離れた。神の力が彼らから去り、もはや、敵に勝てなくなった。こうして、彼らは、神によって征服するはずであったその国々に負けてしまったのである。 PP 284.2
「かつてエジプトの地から彼らを導き出」し、「彼らを荒野で羊の群れのように導」かれた「先祖たちの神、主を捨てて」「彼らは高き所を設けて神を怒らせ、刻んだ像をもって神のねたみを起した」。そこで、「神は人々のなかに設けた幕屋なるシロのすまいを捨て、その力をとりことならせ、その栄光をあだの手にわたされた」(士師記2:12、詩篇78:52、58、60、61)。しかし、主は、主の民を全くお見捨てになったのではなかった。常に、主に忠誠を尽くす残りの者が存在していた。主は、ときどき、忠実で勇敢な人々をお立てになって偶像礼拝をやめさせ、イスラエルを彼らの敵からお救いになった。しかし、救済者が死んでしまうと、人々は、彼の権力から解放されて、徐々に偶像に逆もどりするのであった。このようにして、神に反逆しては懲らしめを受け、告白しては救済されるという物語が、幾度もくり返されたのである。 PP 284.3
イスラエルは、メソポタミヤの王、モアブの王に続いて、ペリシテ人、そして、シセラを大将とするハゾルのカナン人などに次々と圧迫された。オテニエル、シャムガル、エホデ、デボラ、バラクなどが、尺々の救済者として立てられた。しかし、「イスラエルの人々はまた主の前に悪をおこなったので、主は彼らを……ミデアンびとの手にわたされた」(士師記6:1)。これまで、圧迫者の手は軽くヨルダンの東の部族に加えられたに過ぎなかった。しかし、今回の災難では、彼らのところがまず最初であった。 PP 284.4
東の国境にミデアン人がいるのと同様に、カナンの南にはアマレク人がおり、砂漠の向こうには、まだ、手きびしいイスラエルの敵があった。ミデアン人は、モーセの時代にほとんどイスラエル人に滅ぼされたのであったが、その後、大いに増加し、数が多くなり強くなった。彼らは、報復心に燃えていた。そして、神の保護の手がイスラエルから除かれたのであるから、その機会がやってきた。ヨルダンの東の部族だけでなく、全国が彼らの攻撃に苦しんだ。砂漠の残忍な住民が「いなごのように多く」、彼らの家畜とともに、国内に侵入してきた(同6:5)。彼らは滅ぼし尽くす疫病のように全国に広がって、ヨルダン川からペリシテの平原にまで及んだ。彼らは、作物が実り始めるやいなややって来て、地の最後の果物の取り入れが終わるまでいた。彼らは、畑の産物を奪い、住民のものを盗んで虐待しては沙漠にもどって行った。こうして、畑に住んでいたイスラエル人は、家を捨てて城壁の中の町に集まったり、城に避難したり、時には、山中の岩陰や洞穴の中に隠れなければならなかった。この圧迫は7年間続いた。そして、人々が、その苦難の中で主の譴責に従って、彼らの罪を告白したので、神は、ふたたび彼らのために救済者を起こされたのである。 PP 284.5
ギデオンは、マナセの部族のヨアシの子であった。この家族の属した家系は指導的位置にはなかった が、ヨアシの家族は勇気と誠実との点で頭角をあらわしていた。彼の勇敢なむすこたちについては、「みな王子のように見えました」と言われている(同8:18)。ミデアン人との戦いで、むすこたちは、1人を除いてみな倒れた。そして、侵略者は、彼の名を非常に恐れたのである。ギデオンに、人々を救えという神の召しが与えられた。彼は、そのとき、麦を打っていた。彼は、隠してあったわずかばかりの麦を、一般の麦打ち場で打とうとしないで、酒ぶねの近くの場所に行った。まだ、ぶどうの熟する時はずっと先だったので、ぶどう畑のほうに注意をするものはいなかったからである。ギデオンは隠れて黙って働いていたが、イスラエルの状態を悲しく思い、どうしたなら人々から圧迫者のくびきを除くことができるだろうかと、思案していた。 PP 284.6
すると突然、「主の使」が現れて、彼に言った。「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(同6:12)。彼は答えた。「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」(同6:13)。 PP 285.1
天からの使者は答えた。「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」(同6:14)。 PP 285.2
ギデオンは、今自分に語っているお方が、契約の天使で、昔イスラエルのために働かれたお方であるという証拠を与えられることを望んだ。神の天使は、アブラハムと語り、ある時はとどまって彼のもてなしをお受けになった。そして、ギデオンは、今、天の使者に、とどまって彼の客となることを願ったのである。彼は、急いで天幕に行って、乏しい中からやぎの子と種入れぬパンの準備をして、それを持ってきて天使の前に置いた。すると、天使は、彼にこう命じた。「肉と種入れぬパンをとって、この岩の上に置き、それにあつものを注ぎなさい」(同6:20)。ギデオンはその通りにした。すると、彼が求めたしるしが与えられた。天使は、手に持ったつえで、肉と種入れぬパンに触れると、岩から火が燃え上がって捧げ物を焼き尽くした。そして、天使は、彼の視界から去って見えなくなった。 PP 285.3
ギデオンの父、ヨアシは、国の人々と一緒になって神にそむき、彼の住んでいたオフラに大きな祭壇をバアルのために築いていた。ギデオンは、この祭壇を破壊し、これまで捧げ物が捧げられていた岩の上に、主の祭壇を築くように命じられた。神に犠牲を捧げることは祭司に委ねられ、シロの祭壇に制限されていた。しかし、儀式礼典を制定なさったお方、そして、そのすべての捧げ物が予表していたお方は、その要求を変更する力がおありであった。イスラエルの救済は、バアル礼拝に対する断固たる反対によって始められなければならなかった。ギデオンは、イスラエルの民の敵と戦う前に、偶像礼拝との宣戦を布告しなければならなかった。 PP 285.4
神の命令は、忠実に行われた。ギデオンは、もしも公然と行えば、反対にあうことがわかっていたのでひそかに事を運んだ。彼は、しもべたちの援助によって、1晩のうちにそれをやり遂げてしまった。次の朝、バアルを礼拝しようとして来たオフラの人々の怒りは、たいへんなものであった。ヨアシは、主の使の来訪を聞いていたが、もし彼が自分のむすこを弁護しなかったならば、人々はギデオンの命を取ったことであろう。ヨアシは言った。「あなたがたはバアルのために言い争うのですか。あるいは彼を弁護しようとなさるのですか。バアルのために言い争う者は、あすの朝までに殺されるでしょう。バアルがもし神であるならば、自分の祭壇が打ちこわされたのだから、彼みずから言い争うべきです」(同6:31)。もしバアルが自分の祭壇を守ることができなければ、どうして、彼を礼拝する者の保護を依頼することができようか。 PP 285.5
ギデオンに暴力を働こうとする考えは、すべて取りやめになった。そして、戦いのラッパが鳴り響いたとき、まず最初にギデオンの旗の下に集まった者の中にオ フラの人もいた。彼自身の部族のマナセにも知らせが伝えられ、アセル、ゼブルン、ナフタリにも伝えられ、皆、召しに答えた。 PP 285.6
ギデオンは、神が彼をこの働きに召し、神が彼と共におられるという証拠がさらに与えられるのでなければ、自分からは軍隊の長の地位につこうとはしなかった。彼は祈った。「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、わたしは羊の毛1頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」(同6:36、37)。翌朝、地はかわいているのに、羊の毛はぬれていた。しかし、空気に湿気があれば、羊の毛はぬれるから、これでは決定的試験であるとは言えないという疑念がわいた。そこで、彼は、しるしが反対になるように求め、彼の極端な用心深さを神がお怒りにならないことを嘆願した。彼の要求は受け入れられた。 PP 286.1
こうして、ギデオンは励まされて、侵略者と戦うために軍勢をひきいて出て行った。「時にミデアンびと、アマレクびとおよび東方の民がみな集まってヨルダン川を渡り、エズレルの谷に陣を取った」(同6:33)。ギデオンのもとに集まった全軍は、わずか3万2千人であった。しかし、敵の大軍を前にして、主は彼に言われた。「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」(同7:2、3)。喜んで危険と困難に当面しない者、または、神の働きよりは世俗のことに心を奪われている者は、イスラエルの軍隊の力にならない。彼らがいることは、ただ軍隊を弱体化させるだけであった。戦争に出かける前に次のような宣言が全軍に行われることが、イスラエルの律法になっていた。「『新しい家を建てて、まだそれをささげていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれをささげるようになるであろう。ぶどう畑を作って、まだその実を食べていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれを食べるようになるであろう。女と婚約して、まだその女をめとっていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人が彼女をめとるようになるであろう』。つかさたちは、また民に告げて言わなければならない。『恐れて気おくれする者があるならば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、兄弟たちの心が彼の心のようにくじけるであろう』」(申命記20:5~8)。 PP 286.2
ギデオンは、敵の数と比較して自分のほうがいかにも少なかったので、いつもの宣言をするのを差し控えていた。彼は、自分の軍隊がまだ大きすぎるという宣告を聞いて、驚きに満たされた。しかし、主は、彼の民の心に誇りと不信仰があるのをごらんになった。彼らは、ギデオンの力強い訴えを聞いて奮い立ったのではあるが、ミデアン人の大軍をながめて恐怖をいだいたものが多かった。それにもかかわらずもし、イスラエルが勝利をおさめるならば、勝利を神に帰すかわりに、自分たちに栄光を帰してしまったことであろう。 PP 286.3
ギデオンは、主の指示に従った。彼は、全軍の3分の2以上の2万2千人が家に帰るのを見て、非常に心を痛めた。ふたたび、主の言葉が彼に与えられた。「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」(士師記7:4)。すぐに敵に向かって行くつもりで、人々は水ぎわにつれていかれた。進みながら手で水をすくって、急いで水を飲んだ者が わずかながらいたが、大部分は、ひざをかがめて、水面に口をあててゆっくり飲んだ。手を口にあてて水を飲んだ者の数は、1万人のうちわずかに300人であった。けれども彼らが選ばれて、残りの者はみな、家に帰ることを許された。 PP 286.4
品性は、ごく簡単な方法で試みられるものである。危機に際して、自分の必要を満たすことに心を奪われているような者は、危急の場合に信頼できる人ではない。主は、怠惰で放縦な人をご用にお用いになることはできない。主が選ばれる人は、自己の必要のために義務の遂行を遅らせたりしないわずかの人々である。300人は、勇気と自制があるばかりか信仰の人であった。彼らは、偶像礼拝によってその身を汚していなかった。神は、彼らを導き、彼らによってイスラエルを救済することがおできであった。成功は、数によらない。神は、多数によると同様に、少数によっても救うことがおできである。神は、神に仕える者の数の大きさよりは、むしろ、彼らの品性によって、栄誉をお受けになる。 PP 287.1
イスラエルの人々は、敵の大軍が陣をしいている谷を見おろす山の頂上に陣取っていた。「ミデアンびと、アマレクびとおよびすべての東方の民はいなごのように数多く谷に沿って伏していた。そのらくだは海べの砂のように多くて数えきれなかった」(同7:12)。ギデオンは、翌日の戦いを考えておそれおののいた。しかし、主は、夜、彼に語り、従者プラを連れてミデアン人の陣地に行けば、何か励ましになることを聞くであろうとお命じになった。彼が出て行って、暗いところで黙って聞いていると、ある兵士が仲間に夢を語っていた。「わたしは夢を見た。大麦のパン1つがミデアンの陣中にころがってきて、天幕に達し、それを打ち倒し、くつがえしたので、天幕は倒れ伏した」(同7:13)。仲間の答えた言葉が、隠れて聞いていた者の心を励ました。「それはイスラエルの人、ヨアシの子ギデオンのつるぎにちがいない。神はミデアンとすべての軍勢を彼の手にわたされるのだ」(同7:14)。ギデオンは、これらのミデアンの異国人を通じて彼にお語りになられる神のみ声を聞いたのである。ギデオンは、彼の指揮下にある少数の者のところへもどって言った。「立てよ、主はミデアンの軍勢をあなたがたの手にわたされる」(同7:15)。 PP 287.2
神の指導の下に攻撃計画が示され、彼は、すぐにそれを実行に移した。彼は、300人を3組に分けた。おのおのには、ラッパとつぼの中にかくしたたいまつが与えられた。兵上たちは、ミデアンの陣地をちがった方角から攻撃するように配置された。夜陰に乗じて、ギデオンのラッパを合図に、3組はラッパを吹き鳴らした。そしてつぼを打ち砕いて燃えさかるたいまつを出し、「主のためのつるぎ、ギデオンのためのつるぎ」というときの声をあげて、敵に突進した(同7:20)。 PP 287.3
眠っていた軍隊は急に目をさました。どちらをむいても、燃えるたいまつの火が見えた。各方面からラッパと敵のときの声が聞こえた。ミデアン人は、おびただしい軍隊に取り囲まれたと思い込んで、あわてふためいた。彼らは、恐怖のあまり大声をあげて逃げ出し、味方を敵とまちがえて、同士打ちをした。勝利の知らせを聞いて家に帰らせられた幾千というイスラエルの人々がもどってきて、逃げる敵の追跡に参加した。ミデアン人は、ヨルダン川に向かって逃げ、川向こうの自分たちの領地に行くことを望んだ。ギデオンは、エフライムの部族に使者を送り、逃げる軍隊を南の渡し場で迎え撃つように鼓舞した。一方、ギデオンは、「疲れながらもなお追撃」する300人と共に、流れを渡って、すでに向こうがわに行った者のあとを追った(同8:4)。全軍を指揮し、1万5千の軍隊と共に逃げていた2人の君、ゼバとザルムンナは、ギデオンに追跡されて、軍隊は全滅し、指揮者はつかまって殺された。 PP 287.4
この大敗によって、侵入軍は12万人以上の戦死者を出した。ミデアン人の力はくじかれ、その後、二度とイスラエルに戦いをいどむことができなくなった。イスラエルの神が再び神の民のために戦われたという知らせがすぐに広く遠くまで伝わった。彼らがどんなに簡単な方法で、勇ましい好戦的民族に勝ったかということを知った時に、周りの国々のいだいた恐怖 は言葉では尽くせない。 PP 287.5
ミデアン人を倒すために、神がお選びになった指導者は、イスラエルの高い地位を占めた人ではなかった。彼は、つかさでも祭司でもレビ人でもなかった。しかし、神は、彼が勇気と誠実の人であるのをごらんになった。彼は、自己にたよらず、主の指導に喜んで従った。神は、神の働きのために、必ずしも偉大な才能を持った人をお選びになるとはかぎらず、神が最もよく用いることができる人々をお選びになる。「謙遜は、栄誉に先だつ」(箴言15:33)。自己の不十分さをよく自覚して、神を指導者とし、力の源として信頼する者を、神は、最も効果的にお用いになる。神は、彼らの弱さを神の力に結びつけて強くし、彼らの無知を神の知恵に結合して、彼らを賢くなさるのである。 PP 288.1
もしも彼らが真の謙遜を持ち続けるならば、主は神の民のために、はるかに多くのことをなさることがおできになる。しかし、大きな責任または成功が与えられても、なお、自己過信に陥ることなく、自分たちが神に依存していることを忘れない者は、実に少ない。主が、神の働きをする器を選ぶに当たって、世の人々から、偉大でタラント(才能)があり、聡明であるとほめそやされている人々を見過ごされるのは、そのためである。このような人々は、とかく高慢で、自己過信に陥っているものである。彼らは、神の指示を仰がないで、行動することができると思っている。 PP 288.2
ヨシュアの軍隊がエリコの周りでラッパを吹き、ギデオンの小隊が、ミデアンの大軍の周りでラッパを吹くというごく簡単な行為が、神の力によって効果をあげ、神の敵の力をくつがえした。神の力と知恵を離れては、どんなに完全な人間的制度も失敗に帰する。しかし、どんな見込みのない方法も神がお命じになるとき、それを謙遜と信仰をもって実行するならば、必ず成功するのである。ギデオンやヨシュアが、カナン人と戦った時と同様に、神に信頼し、神のみこころに従うことは、クリスチャンの霊の戦いに必要である。神は、イスラエルのために、神の力をくり返しあらわされて、彼らが神を信じ、どんな危機においても信頼をいだいて神の助けを求めるように導こうとなさった。神は、今日も同様に、神の民と力を合わせてお働きになり、弱い器によって偉大なことをなしとげられようとしておられる。全天は、われわれが、神の知恵と力を求めるのを待っている。神は、「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができる」(エペソ3:20)。 PP 288.3
ギデオンが、国の敵の追跡を終えて帰ってくると、自国民の非難と譴責が彼を待っていた。彼が、ミデアン人と戦うためにイスラエルの人々に呼びかけた時に、エフライムの部族は出てこなかった。彼らは、そのような企ては危険だと考えた。そして、ギデオンは、彼らを特別に召集しなかったので、彼らはそれを良いことにして兄弟たちに加わらなかった。しかし、イスラエルの勝利の知らせが彼らのところにとどいたとき、エフライムの人々は、自分たちが参加していなかったので彼らをねたんだ。ミデアン人を追放したあとで、エフライムの人々は、ギデオンの指示のもとにヨルダンの渡しを占領し、彼らが逃げるのを防いだ。こうして、多数の敵が殺され、その中にはオレブとゼエブという2人の君がいた。こうして、エフライムの人々は、戦いのあと始末をして勝利の完成に貢献した。しかし、彼らはねたんで怒った。彼らは、ギデオンが自分の意志と判断で行ったものと思った。彼らは、イスラエルの勝利のうちに神のみ手を認めず神の力と憐れみによって自分たちが救われたことを感謝しなかった。彼らは、この事実そのものによって、特別な器に選ばれる価値のなかったことを示した。 PP 288.4
彼らは、戦利品を携えて帰ってきて、怒ってギデオンを責めた。「あなたが、ミデアンびとと戦うために行かれたとき、われわれを呼ばれなかったが、どうしてそういうことをされたのですか」(士師記8:1)。 PP 288.5
ギデオンは彼らに言った。「今わたしのした事は、あなたがたのした事と比べものになりましょうか。エフライムの拾い集めた取り残りのぶどうはアビエゼルの収穫したぶどうにもまさるではありませんか。神はミデアンの君オレブとゼエブをあなたがたの手にわたされました。わたしのなし得た事は、あなたがたのした事と比べものになりましょうか」(同8:2、3)。 PP 288.6
ねたみの精神は、とかく、あおり立てられると争いを起こし、争闘と流血の原因になりやすい。しかし、ギデオンの謙遜な答えが、エフライムの男たちの怒りをしずめた。そして、彼らは心を和らげて家へ帰った。ギデオンは、原則に関しては堅く立って妥協せず、戦いに出ては、「大勇士」であったが、また、まれに見る思いやりの精神を表した。 PP 289.1
イスラエルの人々は、ミデアン人から救い出されたことを感謝して、ギデオンが彼らの王となり、彼の子孫が代々王となることにしようと申し出た。この申し出は、神政政治の原則とは全く正反対のものであった。神がイスラエルの王であられた。であるから、彼らが人間を王座につけることは、彼らの王であられる神を拒むことになる。ギデオンは、この事実を認めた。彼の返答は、その動機がいかに真実で気高いものであったかを示した。「わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます」と彼は言った(同8:23)。 PP 289.2
しかし、ギデオンは別の過失に陥り、彼の家とイスラエルの全家を不幸に陥れた。大きな争闘に続く不活動の期間は、苦闘の期間以上に大きな危険をはらんでいることがある。ギデオンは、このような危険にさらされた。彼は、不安な気持ちに襲われた。彼は、これまで、神の指示を実行することに満足していた。しかし、今、彼は神の指導を待たずに自分で計画を立て始めた。主の軍勢が大勝利を得ると、サタンは、神の働きをくつがえそうとして、その努力を倍加する。こうして、ギデオンの心に考えや計画が暗示され、イスラエルの人々はそれに迷わされていった。 PP 289.3
ギデオンは、主の使いが彼に現れた岩の上で犠牲を捧げるように命令を受けたので、自分は祭司としての役目を果たすように任命を受けたものと考えた。彼は、神の許しを得ようともしないで、適当な場所を備え、幕屋で行われている礼拝に似た制度を始めようとした。 PP 289.4
一般の人々の強力な支持もあったので、その計画の実行はなんの困難もなかった。彼の要求に従って、ミデアン人からぶんどった金の耳輪が全部彼の分け前として与えられた。人々はまた、ミデアンのモたちの美しく飾った衣服とともに、ほかにも多くの高価な品物を集めた。こうして備えられたものを用いて、ギデオンは大祭司が着ているものをまねて、エポデと胸当てをつくった。彼のしたことは、イスラエルと同様に、彼と、彼の家のわなとなった。この神の許しを得なかった礼拝は、ついに、多くの人々を主から離し、偶像に仕えるようにさせたのである。ギデオンが死んだあとで、多くの者がこの背信に加わり、その中には彼の家族の者もいた。人々は、かつて彼らの偶像礼拝をやめさせたことのあるその同じ人によって、神から引き離されていった。 PP 289.5
自分たちの言行が、どんなに大きな影響を及ぼすものであるかを自覚する者は少ない。親の過失は、それを行った者が墓に横たえられた後も長く子々孫々に至るまで、最も悲惨な実を結ぶ。人はだれでも他に感化を及ぼしていて、その感化の結果の責任を問われるのである。言葉と行為は非常な力を持っていて、この世のわれわれの生涯の影響を後世まで長く残す。われわれが、言葉と行為によって残す印象は、必ず祝福となるか、またはのろいとなってわれわれにもどってくる。こう考えるとき、人生は実に厳粛である。われわれは、心を低くして祈り、神に近づき、神の知恵に導かれるようにしなければならない。 PP 289.6
最高の地位に立つ人が、誤った方向に導くかも知れない。最も賢明な人も過失を犯す。最も強力な人もよろめき、つまずくことであろう。上からの光が常にわれわれの道を照らす必要がある。「わたしに従ってきなさい」と言われた主になんの疑いもいだかずに、信頼することが唯一の安全な道である(マルコ2:14)。 PP 289.7
ギデオンが死んだあとで、「イスラエルの人々は周囲のもろもろの敵の手から自分たちを救われた彼らの神、主を覚えず、またエルバアルすなわちギデオンがイスラエルのためにしたもろもろの善行に応じて彼の家族に親切をつくすこともしなかった」(士師記8:34、35)。イスラエルの人々は、彼らの士師であり、 救済者であったギデオンから受けた恩のすべてを忘れて、ギデオンの妾腹の子のアビメレクを彼らの王として受け入れた。アビメレクは、自己の権力を保つために、ただ1人だけを除いて、ギデオンの正式な子供たちを全部殺してしまった。人間は、神を恐れなくなると、やがて、名誉と誠実からも離れる。主のあわれみに対する感謝があれば、ギデオンのように、神の民を祝福する器に用いられた者に対しても感謝するようになる。ギデオンの家に対してとったイスラエルの残酷な行為は、神に対して大きな忘恩を示した人々としては当然のことであった。 PP 289.8
アビメレクの死後、主を恐れる士師たちの支配は、一時、偶像礼拝を阻止したのであったが、やがて、人々は周りの異教社会の習慣にもどっていった。北方の部族の間では、シリヤやシドンの神々を拝む者が多くいた。西南方面では、ペリシテ人の偶像、東では、モアブとアンモンの偶像などが、イスラエルの人々の心を彼らの祖先の神から離した。しかし、背教は、すぐに罰せられた。アンモン人は、東の部族を征服し、ヨルダン川を渡ってユダとエフライムの領地に侵入してきた。西からは、ペリシテ人が海のそばの平原から、あちらこちらを焼き払ったり、略奪したりして攻めてきた。イスラエルは、ふたたび容赦なく攻めてくる敵の手中に陥ったように思われた。 PP 290.1
人々は、今まで忘れ、軽んじていた主の助けを再び仰いだ。「そこでイスラエルの人々は主に呼ばわって言った、『わたしたちはわたしたちの神を捨ててバアルに仕え、あなたに罪を犯しました』」(同10:10)。しかし、それは、悲しんだだけであって、真の悔い改めに至っていなかった。人々は、罪を犯して苦しみにあったことを悲しんだのであって、神の聖なる律法を犯して、神の栄えを汚したことを悲しんだのではなかった。真の悔い改めは、罪について悲しむだけではない。それは、罪悪から断固として離れることである。 PP 290.2
主は、預言者の1人によって彼らにお答えになった。「わたしはかつてエジプトびと、アモリびと、アンモンびと、ペリシテびとからあなたがたを救い出したではないか。またシドンびと、アマレクびとおよびマオンびとがあなたがたをしえたげた時、わたしに呼ばわったので、あなたがたを彼らの手から救い出した。しかしあなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。それゆえ、わたしはかさねてあなたがたを救わないであろう。あなたがたが選んだ神々に行って呼ばわり、あなたがたの悩みの時、彼らにあなたがたを救わせるがよい」(同10:11~14)。 PP 290.3
このような厳粛で恐るべき言葉を聞くと、将来のもう1つの光景、最後の審判の大いなる日のことを考える。その日、神の憐れみを拒み、神の恵みを軽蔑した者は、神の義と顔を合わせなければならない。神から与えられた、時、財産、知性などのタラントを、この世の神に仕えるために浪費した者は、その裁判のときに申し開きをしなければならない。彼らは、彼らの真の愛する友である主を捨てて、便宜主義とこの世の快楽の道を歩んだのである。彼らは、いつかは神に帰ろうと思っていた。しかし、世俗は、その罪悪とまどわしによって注意を奪っていた。軽薄な娯楽、衣服の誇り、食欲の満足などが心を無感覚にし、良心を麻痺させ、真理の声を聞こえなくしていた。義務はさげすまれた。無限の価値あるものが軽々しく扱われて、ついに人の心は、人間のためにこれほど多くをお与えになったお方のために、犠牲を払おうという望みを全く失ってしまった。彼らは、収穫の時に、自分たちのまいたものを収穫するのである。 PP 290.4
主は言われる。「わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかった……、これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる」「しかし、わたしに聞き従う 者は安らかに住まい、災に会う恐れもなく、安全である」(箴言1:24~31、33)。 PP 290.5
こうしてイスラエルの人々は、主の前に心を低くした。「そうして彼らは自分たちのうちから異なる神々を取り除いて、主に仕えた」。そして、主の愛の心は痛んだ。すなわち、「イスラエルの悩みを見るに忍びなくなった」(士師記10:16)。ああ、われわれの神は、なんと忍耐強く、あわれみ深いことであろう。神の民が、主の臨在を妨げていた罪を捨てたときに、神は彼らの祈りを聞き、すぐに彼らのために活動をお始めになった。 PP 291.1
ギレアデ人エフタが指導者に選ばれた。彼は、アンモン人と戦って、りっぱに彼らの勢力をくじいた。このとき、イスラエルは、18年間も敵の圧迫に苦しんでいたのであるが、彼らは、苦難によって教えられた教訓をふたたび忘れてしまった。 PP 291.2
神の民が、彼らの悪い行いにもどると、主はまたもや彼らが強力な敵、ペリシテに圧迫されることをお許しになった。彼らは、長年の間、この残酷で好戦的な国民に絶え間なく悩まされ、時には完全に征服された。彼らは、こうした偶像教徒と交わり、その快楽や礼拝に参加し、ついには、その精神も関心も同じになってしまった。そして、これらのイスラエルのみかけだけの友人は、彼らの最も恐ろしい敵となり、あらゆる手段を講じて、彼らを滅亡させようとしたのである。 PP 291.3
イスラエルと同様に、クリスチャンも、神を信じない人々と友だちになるために、世俗の影響に負け、世の原則や習慣に同調しがちである。しかし、最後には、これらの自称友人たちは最も危険な敵であることが判明する。聖書は、明らかに、神の民と世の中の間に一致があり得ないことを教えている。「兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない」(Ⅰヨハネ3:13)。「あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい」と救い主は言われる(ヨハネ15:18)。 PP 291.4
サタンは、神を敬わない人々を友人のように装わせて、神の民を罪に誘い、彼らを神から引き離そうとする。そして、彼らを防御しているものが除かれると、サタンは、その部下たちに、彼らを攻撃させて滅ぼしてしまおうとするのである。 PP 291.5