人類のあけぼの

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第49章 ヨシュアの決別の言葉

本章は、ヨシュア記23章、24章に基づく PP 270.4

征服の戦いは終わり、ヨシュアは、彼の故郷のテムナテ・セラの平和な家に引退した。「主がイスラエルの周囲の敵を、ことごとく除いて、イスラエルに安息を賜わってのち、久しくたち、……ヨシュアはイスラエルのすべての人、その長老、かしらたち、さばきびと、つかさびとたちを呼び集め」た(ヨシュア23:1、2)。 PP 270.5

人々が、それぞれの領地に落ちついてから、数年が経過した。そして、以前、イスラエルに刑罰をもたらした同じ罪悪が、すでに現れているのを見ることができた。ヨシュアは、自分の体が徐々に老衰していくのを感じ、まもなく務めを終えなければならないことを自覚して、彼の民の将来を非常に憂慮した。人々がもう1度この年老いた指導者のまわりに集まったとき、彼は父親以上の愛情をもって、彼らに語りかけたのである。「あなたがたは、すでにあなたがたの神、主が、このもろもろの国びとに行われたすべてのことを見た。あなたがたのために戦われたのは、あなたがたの神、主である」と、彼は言った(同23:3)。カナン人はすでに征服されたとは言っても、彼らは、まだ、イスラエルに約束された土地の相当の部分を所有していた。だからヨシュアは、人々が安楽に落ちつくことなく、これらの偶像教国の人々を全く追放するように主が命じておられることを忘れないように勧告した。 PP 270.6

人々は、一般に、異教徒を追放する仕事の完成を急がなかった。部族は、おのおのの領地に分散し、軍隊も解散されたことだから、戦いを再開することは困難で、できそうもない企てのように思われた。しかし、ヨシュアは宣言した。「あなたがたの前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなたがたの神、主である。そしてあなたがたの神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの 地を獲るであろう。それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない」(同23:5、6)。 PP 270.7

ヨシュアは、人々自身を証人として、彼らに訴え、彼らが条件に応じているかぎり、神は、忠実に約束を成就なさったことを告げた。「あなたがたがみな、心のうちにまた、肝に銘じて知っているように、あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束されたもろもろの良いことで、1つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで、1つも欠けたものはなかった」と、彼は言った(同23:14)。彼は、主がその約束を成就なさったように、刑罰の警告もまた成就なさるであろうと言った。「あなたがたの神、主があなたがたについて約束された、もろもろの良いことが、あなたがたに臨んだように、主はまた、もろもろの悪いことをあなたがたに下」す。「もし、あなたがたの神、主が命じられたその契約を犯」すならば「主はあなたがたにむかって怒りを発し、あなたがたは、主が賜わった良い地から、すみやかに滅びうせるであろう」(同23:15、16)。 PP 271.1

神が、神の民を愛される愛は非常に大きいから、民の罪をお赦しになるというもっともらしい説を唱えて、サタンは多くの人々を欺くのである。神の脅迫の言葉は、神の道徳的政府の中で、ある種の役割を果たしはするが、それは文字通り成就するものではないと、サタンは言うのである。しかし、神は、その被造物に対するすべての扱いにおいて、罪の本性を明らかにあらわし、その確実な結果は、悲惨と死であることを実証して、義の原則を維持なさった。罪を無条件で赦すことは、これまでになかったし、これからもないのである。そのような赦しは神の政府の基礎そのものである義の原則を廃棄することになる。それは、堕落しない宇宙を驚嘆させることであろう。神は、忠実に罪の結果を指摘なさった。ところが、もしその警告が真実でないとすれば、どうして、神の約束が成就することを確かめることができようか。正義を廃棄するようないわゆる慈愛は、慈愛ではなくて弱さである。 PP 271.2

神は、生命の与え主である。初めから、神の律法はみな生命を与えるように定められたものである。しかし、罪が、神のお設けになった秩序を破壊して、不調和をもたらした。罪が存在するかぎり、苦難と死は避けられない。人間が罪の恐ろしい結果から、自分でのがれる希望を持つことができるのは、ただ、贖い主がわれわれに代わって罪ののろいを負ってくださったことのみによるのである。 PP 271.3

ヨシュアの死に先だって、部族のかしらと代表者たちは、彼の命令に従って、シケムに集まった。占領したすべての地の中で、この場所ほど思い出の多い場所はなかった。彼らは、アブラハムとヤコブに対する神の契約を思い出し、カナン入国に際して彼ら自身が行った厳粛な誓いをも想起した。ここにはエバル山とゲリジム山があって、彼らが、今、死期の近づいた指導者の前に集まって、くり返そうとしている誓約の無言の証人として立っていた。どこを向いても、神が彼らのために行われた証拠があった。神は、彼らが労することをしなかった地、彼らが建てなかった町、彼らが植えなかったぶどう畑やオリブ畑を、彼らにお与えになった。ヨシュアはもう1度イスラエルの歴史を回顧し、神の驚くべきお働きをふたたび述べて、すべての者が神の愛と恵みを深く感じて、「まごころと、真実とをもって」主に仕えるように勧めた(同24:14)。 PP 271.4

ヨシュアの指示に従って、契約の箱がシロから持って来られた。これは、非常に厳粛な時の1つであって、この神の臨在の象徴は、彼が人々に与えようとした印象を強固なものにした。彼は、イスラエルに対する神の恵みを示したあとで、主の名によって、彼らが誰に仕えるかを選べと人々に呼びかけた。偶像礼拝は、なお、ある程度まで、ひそかに行われていた。それでヨシュアは、彼らに決心を促して、イスラエルから、この罪を除こうとしたのである。「もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、……あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい」と彼は言った(同24:15)。ヨシュアは、強制的でなくて、彼らが心から神に仕えるようになることを望んだ。神 を愛することが、宗教の基礎そのものである。報酬を望んだり、あるいは、刑罰を恐れたりする気持ちだけから奉仕に携わるのでは、なんの益もない。神は、公然と反逆することと同様に、偽善と単なる形式的礼拝をおきらいになる。 PP 271.5

年老いた指導者は、人々に、自分が言ったことをあらゆる方面からよく考えて、彼らの周囲の堕落した偶像教国のような生活を真に望むかどうかを決定するように勧告した。もし力と祝福との根源である主に従うのがいけなければ、アブラハムが召し出されてきた「あなたがたの先祖が……仕えた神々でも」、また、「あなたがたの住む地のアモリびとの神々でも」、彼らが仕える者をきょう選べと言った(同24:15)。彼のこうした最後の言葉は、イスラエルにとって鋭い譴責であった。 PP 272.1

アモリ人の神々は、その礼拝者を保護することができなかった。あの、アモリという悪い国は、その憎むべき、退廃的罪のために滅ぼされて、彼らがかつて所有していた良い国土は、神の民に与えられたのである。アモリ人が礼拝して滅ぼされたような神々を、イスラエルの人々が選んで礼拝するとは、なんと愚かなことであろう。「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」とヨシュアは言った(同24:15)。指導者の心に燃えたのと同じ清い熱望が人々に伝わった。彼の訴えに全員は答えて言った。「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません」(同24:16)。 PP 272.2

「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、……あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである」とヨシュアは言った(同24:19)。真の改革が伴われるに先だって、人々は、自分たちの力だけでは、神に従うことが全く不可能であることを自覚しなければならなかった。彼らは律法を犯したために、罪人とされ、なんののがれる道も与えられなかった。彼らが自分自身の力と義にたよっているかぎり、罪の赦しを得ることは不可能であった。彼らは、神の完全な律法の要求を満たすことはできず、神に仕えると誓ってもむだであった。ただキリストを信じる信仰によってのみ、罪の赦しが与えられ、神の律法に従う力を受けることができるのである。彼らが神に受け入れられようとするならば、自分の力にたよって救いを得ようとするのをやめ、約束の救い主の功績に全的に信頼しなければならない。 PP 272.3

ヨシュアは、聴衆がよく自分たちの言葉を熟考して、彼らがなしとげられないような誓いをしないように、彼らを導こうと努めた。彼らは、熱誠こめて宣言をくり返した。「いいえ、われわれは主に仕えます」(同24:21)。彼らは主を選んで、主に仕えることの証人と自らなることをおごそかに承認して、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」と、彼らの忠誠の誓約をもう一度くり返したのである(同24:24)。 PP 272.4

「こうしてヨシュアは、その日、民と契約をむすび、シケムにおいて、定めと、おきてを、彼らのために設けた」(同24:25)。彼は、この厳粛な誓約の記録を書いて、律法の書と共に、契約の箱のそばに置いた。そして彼は、記念の柱を建てて言った。「『見よ、この石はわれわれのあかしとなるであろう。主がわれわれに語られたすべての言葉を、聞いたからである。それゆえ、あなたがたが自分の神を捨てることのないために、この石が、あなたがたのあかしとなるであろう』。こうしてヨシュアは民を、おのおのその嗣業の地に帰し去らせた」(同24:27、28)。 PP 272.5

イスラエルのためになすべきヨシュアの働きは終わった。彼は、「全く主に従った」(民数記32:12)。そして彼は、神の書の中で「主のしもべ」と書かれている(ヨシュア24:29)。彼の労苦の恩恵をこうむった時代の人々の歴史は、公の指導者としての彼の品性の尊い証言である。「イスラエルはヨシユアの世にある日の間、また……ヨシュアのあとに生き残った長老たちが世にある日の間、つねに主に仕えた」(同24:31)。 PP 272.6