キリストの実物教訓

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第11章 宝の倉の中の宝石

本章は、マタイ13:51、52に基づく COL 1231.2

キリストは、人々を教えると同時に、弟子たちを将来の働きのために教育しておられた。イエスの教えの中には、常に弟子たちに対する教訓が含まれていた。イエスは、網のたとえを語られたあとで、「あなたがたは、これらのことが皆わかったか」と彼らにおたずねになった。彼らは、「わかりました」と答えた。そこでイエスは、もう1つのたとえをお語りになって、今お教えになった真理を聞いた者の責任をお示しになった。「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである。」 COL 1231.3

一家の主人は、手にした宝をただしまっておくのではない。彼は、他に与えるために宝を持ち出す。宝は用いることによって増加するのである。この主人は、新しい宝や古い宝を持っている。そのように、弟子たちに与えられた真理は、世界に宣べ伝えるべきものであることを、キリストはお教えになった。そして、真理の知識も人に伝えれば伝えるほど増加するのである。 COL 1231.4

福音の使命を心に受け入れた者は、みな、その使命を他の人々に宣べ伝えたいと願うものである。天から与えられたキリストの愛は、どうしても表さなければならない。キリストを着た者は、聖霊が1歩ずつ導いてくださったことを振りかえって、その経験を語るのである。すなわち、自分が神と、神のおつかわしになったイエス・キリストとを知ろうとして、飢えかわいたことや、聖書研究の成果や祈りや自分の経験した魂の苦悩のことを話す。そして、キリストが、「あなたがたの罪はゆるされた」と言われたことを語る。だれでも、このようなことを秘密にしておくことはできない。キリストの愛に満たされた者は、隠しておかない。主が自分を聖なる真理の保管者にして下さったその度合に応じて、他の人々にも同じ祝福を与えようと望む。そして、彼らが神の豊かな富を人々に語れば語るほど、キリストの恵みがますます彼らに与えられる。彼らは、幼児のような素直な心で、真心から服従する。彼らの魂は、清めを慕い求める。そして、真理と恵みの宝が、ますます、彼らにあらわされるようになる。そして、それが全世界に伝えられる。 COL 1231.5

真理の大宝庫とは、神の言葉、すなわち、文字に書かれた聖書、自然という書、そして神が人間の生活をお導きになる経験の書をいうのである。キリストの僕たちが引き出すべき宝は、ここにある。真理の探究にあたっては、人間の知恵や偉大な人物に頼ることをしないで、神に信頼すべきである。人の知恵は、神にとっては愚かなものである。主は、ご自分がお定めになった方法によってすべての探究者に、ご自分のことをお示しになるのである。 COL 1231.6

もし、キリストの弟子が、キリストの言葉を信じて、それを実行するならば、どんな自然の研究でも理解できないものはない。どんなものでも、人に真理を伝えるためのよい手段となる。キリストの学校の生徒 はみな、自然科学という宝庫から知識を得なければならない。自然の美を瞑想し、耕作や、木々の繁茂、あるいは天と地と海に満ちている驚異の中に秘められている教訓を学ぶならば、真理について、新しい観点を持つようになる。また、神が人を扱われる不思議な方法、人の生涯の中に見られる神の知恵と神の思慮深さなども、また、豊かな宝の倉であることがわかる。 COL 1231.7

しかし、神の知識が堕落した人類に最も明らかにあらわされたのは、聖書においてである。これは、キリストの無尽蔵の富の宝庫である。 COL 1232.1

神の言葉とは、旧約聖書と新約聖書の両方をさしている。どちらが欠けても完全ではない。キリストは、旧約聖書の真理も新約聖書の真理と同様に、価値があることを言明なさった。キリストは、今日、あがない主であると同様に、世の始めからのあがない主であられたのである。イエスが、人性によって神性をおおってこの世に来られる以前に、福音の使命はすでに、アダム、セツ、エノク、メトセラ、ノアによって伝えられたのである。アブラハムはカナンで、ロトはソドムで使命を伝えた。 COL 1232.2

こうして、どの時代においても、忠実な使者たちは、来たるべきキリストのことを宣べた。ユダヤの犠式制度は、キリストご自身がお定めになったものであった。キリストこそユダヤ人の犠牲制度の基礎で、彼らの全宗教制度の偉大な実体である。犠牲がささげられた時に流された血は、神の小羊の犠牲をさし示していた。典型的ささげ物は、すべて、キリストによって成就した。 COL 1232.3

家長たちに示されたキリスト、犠牲制度に象徴され、律法に描かれ、預言者によって啓示されたキリストが、旧約聖書の宝である。キリストの生涯、死、復活、それに、聖霊によってあらわされたキリストが、新約聖書の宝である。父の栄光の輝きであられるわたしたちの救い主は、旧約であると同時に新約でもあられる。 COL 1232.4

使徒たちは、預言者たちが予告したキリストの生涯と死と、キリストのとりなしの証人として、出て行くべきであった。キリストの謙遜、その純潔と聖潔、その比類なき愛が、彼らの伝えた主題であった。しかも、福音を完全に宣べ伝えるためには、キリストの生涯とその教えの中にあらわされたことばかりでなくて、救い主について旧約の預言者が予告し、犠牲制度に象徴されていたことについても、語らなければならなかった。 COL 1232.5

キリストは、その教えの中で、ご自分が初めにお教えになった古い真理や、家長と預言者を通じて、ご自分がお語りになった真理をお教えになった。ところが今度は、その真理に新しい見方をお与えになった。すると、その意味がなんと異なって見えたことであろう。イエスが説明なさると、光と霊性がみなぎるのであった。そして、主の御約束によって、弟子たちには、聖霊が与えられ、悟りが開かれて、神の言葉が常に彼らの前に明らかにされるのであった。彼らは、新しい美に包まれた真理を、人々に伝えることができた。 COL 1232.6

エデンの園で贖罪の最初の約束が語られてから、キリストの生涯、品性、とりなしの働きが、人々の研究題目であった。しかし、聖霊に感じた人は、みなこれらの主題を新鮮な光に照らして説き明かした。贖罪の真理には、絶えず発展し拡張する能力が伴っている。真理は、古いとは言っても、常に新しく、さらに大きな栄光と能力とを、真理の探究者にあらわすのである。 COL 1232.7

真理には、どの時代でも新しい発展があった。つまり、時代ごとに、その人々のための特別な神からの使命があった。古い真理はみな重要である。新しい真理は古い真理から切り離されたものでなく、古いものの解明である。古い真理を理解して始めて、新しい真理を悟ることができる。キリストが弟子たちにご自分の復活の真理を示して、「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ルカ24:27)。真理を新たに解き明かすことによって、輝く光が古いものをいっそう輝かしくする。新しい光を拒んでなおざりにする人は、実は、古いものを持っていない。それは、彼にとって、生きた力を失った、むな しい形式と化してしまうのである。 COL 1232.8

人々の中には、旧約聖書の真理は、信じて教えるけれども、新約の方は拒否するという人がある。しかし、彼らはキリストの教えを拒否することによって、家長や預言者たちの語ったことをも信じないことを示している。「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである」とキリストはおおせになった(ヨハネ5:46)。従って、彼らが、どんなに旧約聖書を説いても力がないのである。 COL 1233.1

また、わたしたちは福音を信じて、福音を説いていると主張しながら、同様のあやまちにおちいっている人々が多い。彼らは、キリストが「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」と言われた旧約聖書を、無視している(ヨハネ5:39)。旧約を拒むことは、事実上、新約を拒むことである。この2つは切り離すことのできない統一体である。だれでも福音を説かないで、神の律法を正しく語ることはできない。また、律法をはなれた福音を説くこともできない。律法は、福音の具体的表現であって、福音は、律法の解説である。律法は根であって、福音は、律法のかんばしい花であり、その結ぶ実である。 COL 1233.2

旧約聖書は、新約聖書を照らし、新約聖書は旧約聖書に光を投げかける。両者ともに、キリストによってあらわされた神の栄光の啓示である。どちらも、真理を示していて、熱心な探究者にたえず新しい意義深さを啓示する。 COL 1233.3

キリストにある真理、また、キリストによって与えられる真理は、無尽蔵である。聖書の探究者は、ちょうど泉の深みをながめていると、それがますます深く広がっていくように思えるのと同じである。人類の罪のあがないのために、み子をお与えになった神の愛の神秘は、とうてい現世では理解できない。あがない主のこの地上のわざは、人間がどんなに想像してみても、探り得ない崇高な課題である、人間がどんなに知力を働かせてこの神秘を解こうとしても、いたずらに疲労するだけである。どんなに勤勉な研究者でも、自分の前には、無限な大海がなおも果てしなく続いているのを悟ることであろう。 COL 1233.4

イエスのうちにある真理は、経験することはできるが、説明することはできない。その高さ、広さ、深さは、人間の知識を超越している。わたしたちの想像力をどんなに働かせたとしても言語に絶する愛のあらましを、ただかすかに見ることができるにすぎない。これは、天のように高い愛である。そしてすべての人類に神のかたちを押すために、この地上に降ったのである。 COL 1233.5

ところが、この神の憐れみについて、わたしたちが知り得る範囲のものは、みな悟ることができる。これは、謙遜な悔いた心の者に示される。神がわたしたちのために、どんな犠牲を払われたかをわたしたちが知るにつれて、神の憐れみ深さを理解することができる。謙遜な心で神の言葉を探れば、贖罪という大主題が、わたしたちの研究課題として開かれる。この大主題は、わたしたちかながめればながめるほど輝きを増し、熱望すれば熱望するほど、高く深くその偉大さを増していくのである。 COL 1233.6

わたしたちの命は、キリストの生命と結びつかなければならない。わたしたちは、常にキリストから受け、天から降った生きたパンであるキリストを食べ、いつも新鮮に、豊かに、清水という宝を注ぎ出す泉の水を、飲まなければならない。いつも、主を目の前にあおいで、主に感謝と賛美をささげているならば、わたしたちの信仰生活は常に新鮮さを保つことができる。わたしたちの祈りは、ちょうど友人と語るように、神との会話のかたちになり、神は、わたしたちに個人的に、神の神秘について語りかけてくださるのである。わたしたちは、しばしば、尊いイエスの臨在を身近に感じることがある。 COL 1233.7

昔、神がエノクと語られた時のように、神がわたしたちに近づかれると、わたしたちの心中も燃えるのをおぼえる。こうしたことが本当に、クリスチャンの経験となる時に、そのクリスチャン生活には、純真、謙遜、柔和、心の低さなどが著しくなり、接するすべての人に、彼がイエスと共にあって、イエスから学んだ者であることを感じさせるのである。 COL 1233.8

こうした経験の持ち主にとって、キリスト教は、生きた浸透力のある原則であって、生きて働く霊的活力であることがわかるであろう。そこには、新鮮さと能力があり、永遠の青春の歓喜がある。神の言葉を受ける心は、水が蒸発してしまう池とか、せっかくの清水を保つことのできない、破れた水槽のようなものではない。その冷たい水は、つきない泉からわき出る山間の渓流のように、しぶきをあげて岩から岩へ飛び散って流れて、疲れた者やかわいた者、重荷にあえぐ者を元気づける。 COL 1234.1

このような経験こそ、真理を教える者がキリストの代表者となる資格そのものなのである。キリストの教えの精神は、その人の話や祈りに、力と率直さを与える。彼のキリストに関する証しは、偏狭な無気力なものではなくなる。牧師は、くり返し、くり返し、同じ説教をしたりしない。彼の心は、聖霊の光に常に照らされていることであろう。 COL 1234.2

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、……生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。……人を生かすものは霊であって、……わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」とキリストは言われた(ヨハネ6:54~63)。 COL 1234.3

わたしたちが、キリストの肉を食べ、彼の血を飲むならば、わたしたちの伝道の働きの中に、永遠の命の要素が見られることであろう。わたしたちの心の中には、気のぬけた使い古した考えなどはなくなり、活気のない眠い説教もなくなる。たとえ古い真理を語ったとしても、今までと違った新しい見方をする。真理を新たに認めるのであるから、その明白なことと力とは、すべての者が感じることができるのである。このような牧師の指導のもとに聖霊の力を感じることができれば、躍動する新しい命に満たされるのを感じることであろう。心の中に、神の愛の炎が燃え上がり、理解力も活発になってきて、真理の美と荘厳さに打たれるのである。 COL 1234.4

たとえの中のこの忠実な主人は、青少年の教育にあたる人をあらわしている。彼が神の言葉を宝として尊重しているなら、常に新しい美と新しい真理を引き出すことであろう。教師が神に信頼して祈るならば、キリストの霊が彼の上に臨み、聖霊は彼を用いて人々の心に働いてくださる。聖霊は教師の心に希望と勇気を満たす。そして、彼の頭に満ちている聖書の思想などがみな、その指導のもとにある青年たちに伝えられる。 COL 1234.5

霊感の言葉によって教師の心の中にわき起こった天からの平和と喜びの泉は、大きな川の流れとなって彼に連なるすべての者を祝福するのである。聖書は、生徒にとって、たいくつな書物ではなくなる。賢明な教師のもとで、み言葉はますます楽しいものとなる。それは、命のパンとなって、いつまでも古びない。聖書の新鮮さと美しさとは、青少年をしっかりと引き付けることであろう。それは、あたかも太陽が地を照らし、絶えず光と暖かさを与えてもなお、尽きないようなものである。 COL 1234.6

人々に教えを与える聖霊は、神の言葉の中に宿っている。新しい、尊い光がみ言葉の各ページから輝き出ている。み言葉の中に真理があらわされている。どの言葉、どの文章をとってみても、それが魂に呼びかける神の声のように、輝かしく折にかなったふさわしいものになるのである。 COL 1234.7

聖霊は、青年に語りかけることを愛しておられて、神の言葉の宝と美とを彼らが発見することを望んでおられるのである。大教師の語られた約束は、彼らの心をしっかりと捕らえ、彼らの魂を霊的力によって活気づける。人々は、豊かに実を結び、神に関する知識をさらに深めていき、誘惑に対しても防壁を持つようになる。 COL 1234.8

真理の言葉は、ますますその重大性を増し、これまで夢想さえしなかった意味深さをもったものとなる。み言葉の美と富とは、人の心と品性を変える力を持っている。天からの愛の光は、霊感となって人々の心の上に注がれる。 COL 1234.9

聖書は、研究するにつれてますます理解が深まるものである。聖書のどこを開いて見ても、そこに神の 無限の知恵と愛とがあらわされているのを見いだすのである。 COL 1234.10

ユダヤ制度の意義は、まだ一般に十分に理解されていない。その儀式や象徴の中に意味深い真理が予表されていた。その神秘を開くかぎが、福音である。贖罪の計画を知ることによって、その真理を理解することができる。このような驚くべき主題を理解することは、わたしたちが考えているよりは、はるかに大きな特権である。わたしたちは、神の深遠さを理解しなければならない。本当に悔いた心の持ち主が、神の言葉を調べ、神のみが与え得る知識の長さ、広さ、深さ、高さがもっと与えられるように、祈り求める時に示される真理は、天使でさえ、知ろうと願っているものである。 COL 1235.1

世界の歴史が終末に近づくに従って、最後の時代に関する預言は、特に研究すべきである。新約聖書の最後の書には、理解しなければならない真理が満ちている。サタンは、多くの人々の目をくらましている。であるから、彼らは、黙示録を研究しないでいい言いわけならなんでも歓迎してきた。しかし、キリストは、そのしもべヨハネによって終末時代の状態を描かせ、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである」とおおせになった(黙示録1:3)。 COL 1235.2

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります」とキリストは言われるのである(ヨハネ17:3)。わたしたちが、この知識の価値を認めないのは、どうしてであろうか。なぜこのような驚くべき真理が、わたしたちの心を燃やし、くちびるをふるわせ、全身に深い感動を与えないのであろうか。 COL 1235.3

神は、神の言葉をわたしたちにお与えになった。これは、わたしたちの救いに必要な真理がみな、与えられたことを示している。こうした命の泉から水をくんだ者は、数えきれないほどあるけれども、水はつきる様子もない。同様に多数の者が主をながめつつ、その同じみかたちに変えられていった。彼らがキリストの品性について語り、キリストと彼らとがいかに重大な関係によって結ばれているかを話す時、彼らの心は燃えるのである。しかしながら、こうした探究者は、このような崇高で神聖な主題を探りつくしたわけではない。 COL 1235.4

さらに、多数の人々が救済の神秘の探究にあたってよいのである。キリストの生涯とその使命の特徴とを瞑想し、真理の発見のため努力すればするほど、より明らかな光が輝くのである。新たな探究が行われる度に、これまでの啓示になかったさらに興味深いものを見るのである。研究の課題は、無尽蔵である。キリストの受肉、キリストの贖罪の犠牲と仲保の働きに関する研究は、勤勉な生徒の永遠の研究課題となることであろう。そして、彼らは、無限の年月にわたって、大空を仰ぎみながら、「確かに偉大なのは、この信心の奥義である」と叫ぶことであろう(Ⅰテモテ3:16)。 COL 1235.5

もしわたしたちが光を受けさえしたならば、この世で理解できたはずのものを、永遠の世界において学ぶであろう。贖罪という主題は、あがなわれた人々がその全能力をあげて永遠に学び続ける主題となるであろう。かつて、キリストが弟子たちに示そうとなさったけれども、彼らが不信仰であったため、理解することができなかった真理を、彼らは悟ることであろう。キリストの完全さと栄光に関して、常に新しい思想が永遠にわいてくることであろう。忠実な一家の主人は、新しいものと古いものとを、いつまでもつきることなくその倉から取り出すのである。 COL 1235.6