キリストの実物教訓
第9章 高価な真珠
本章は、マタイ13:45、46に基づく COL 1227.13
救い主は、贖罪愛によって与えられる幸福を、高価な真珠にたとえておられる。イエスは、良い真珠を捜している商人のたとえを語り、「高価な真珠1個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこ れを買うのである」とお教えになった。実はキリストご自身が、高価な真珠である。彼の中に天の父の栄光がすべて集められ、神の徳が満ち満ちているのである。彼は、父なる神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である。神の属性の栄光が、彼の品性にあらわされている。聖書のどのページも神の光に輝いている。キリストの義は、純粋な白真珠のように、しみも傷もない。どんな人間の技術をもってしても、この偉大で尊い神の賜物を、それ以上にすぐれたものにすることはできない。それには、1つとして傷がない。キリストの中には「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ2:3)。キリストは、「わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(Ⅰコリント1:30)。キリストの中には、現世だけでなく、来世の人間の魂の必要とかわきを満たすものが、すべて備わっているのである。あがない主は、実に高価な真珠である。他のものは、全く比較にならないほど価値がないのである。 COL 1227.14
キリストは、「自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)。光が世のやみを照らしたのに「やみはこれを悟らなかった」(ヨハネ1:5/改訳参照)。しかしながら、すべての者が、天からの賜物に無関心であったのではない。たとえにある商人は、真心から真理を求める種類の人々を代表していた。文学、科学、あるいは異教の諸宗教の中に、魂の宝を熱心に求めていた人々が、いろいろな国にいた。ユダヤ人の中にも、彼らの中に欠けていたものを求めている者があった。彼らは、形式的な宗教には満足せず、霊的で、心を高尚にするものを渇望していた。キリストに選ばれた弟子たちは、この種の人々であった。コルネリオやエチオピヤの宦官は、前に述べた人々に属していた。彼らは、天からの光が与えられるのを渇望して祈っていた。そして彼らは、キリストがおいでになった時に、喜んで信じたのである。 COL 1228.1
たとえでは、真珠を、賜物としてあつかっていない。商人は、持ち物を全部売って、それを買ったのである。キリストは、聖書の中では、賜物であると教えられているから、これは、どうしたことであろうと疑念をいだく人も多いことであろう。キリストは、たしかに賜物であることにちがいないが、それは、キリストに身も心も魂も全くささげる者に対してだけ与えられる賜物である。わたしたちは、自分をキリストにささげ、キリストのすべてのご要求に喜んで従う生活をしなければならない。わたしたちのいっさい、わたしたちの才能も力量もことごとく主のものであるから、それを主のご用にささげなければならない。自分を全く主にささげる時に、キリストは、天のあらゆる宝とともに、ご自身をわたしたちにお与えになる。わたしたちは、高価な真珠を所有するのである。 COL 1228.2
救いは無償で与えられる賜物であるが、また売買されるものでもある。神の恵みの支配下にある市場で高価な真珠は、金なく価なくして売買されるものであるといわれている。だれでも、この市場て、天の財宝を手に入れることができる。真理の宝庫は、万人に開かれている。「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」と主はおおせになる。この門の通路を守る剣はない。門からも、門の内側からも、来たれという声が聞こえる。「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買え」と救い主のみ声は、しきりにやさしく訴えているのである(黙示録3:8、18)。 COL 1228.3
キリストの福音は、すべての者が持つことのできる祝福である。どんなに貧しい人でも、どんなに富んでいる人でも、同じように救いを買うことができる。これは、どんなに地上の富を積んでも買えるものではない。喜んで神に従い、わたしたちを、キリストご自身があがなわれた所有としてキリストにささげることによって、得られるのである。どんな高等教育を受けても、ただそれだけで、神に近づくことはできない。パリサイ人は、物質的に霊的にあらゆる特権をもっていて、「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない」と誇っていたが、実は、「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」(黙示録3:17)。キ リストは、彼らに高価な真珠を提供なさったが、彼らはそれを侮り、受け入れなかった。そこで、「取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる」と主はおおせになったのである(マタイ21:31)。 COL 1228.4
救いは、人間の努力によって得られるものではない。しかし、この世界のいっさいをなげうつほどの熱誠さと忍耐をもって、求めなければならないものである。 COL 1229.1
わたしたちは、高価な真珠を求めなければならないが、それは、この世の市場やこの世の方法によるのではない。支払うべき価は、金や銀ではない。金銀は神のものである。自分は物質的に、霊的に恵まれた立場にあるから、救いを得られると思ってはならない。神は、あなたが心から服従することを求めておられる。罪を捨てよとおおせになるのである。「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」とキリストは言われるのである(黙示録3:21)。 COL 1229.2
ある人々は、つねに、天の真珠を求めているように見えるけれども、彼らは、自分たちの悪習慣を全く放棄していない。彼らは、キリストが彼らの中に生きてくださるために、自己に死ぬことをしない。彼らが高価な真珠を見いだすことができないのは、そのためである。彼らは、まだ、汚れた野心や世の快楽を愛する心に勝利していない。彼らは、キリストにならって十字架をとって、克己と犠牲の道を歩かない。九分通りクリスチャンではあるが、完全なクリスチャンになっていない。天国に近いようではあるが、天国に入ることはできない。完全ではなくて、九分通り救われていることは、九分通り失われていることではなくて、完全に失われていることである。 COL 1229.3
良い真珠を捜している商人のたとえには、二重の意味がある。それは、天国を求める人々に適用されるばかりでなくて、キリストがご自分の失われた嗣業である人類をさがしておられることにも当てはまる。良い真珠をさがす天からの商人、キリストは、失われた人類の中に高価な真珠を見られた。キリストば堕落した人間に、贖罪の可能性をお認めになった。サタンとの戦いの場となっていたが、愛の力によって救われた人々の心のほうが、まだ堕落しない者よりは、はるかにあがない主にとって尊いのである。神は人類を汚れた無価値なものとは思われない。神はキリストの中にあるものとして、人類をながめ、贖罪愛によって、回復の望みのあるものとしてお認めになる。神は、この真珠を買い求めるために、宇宙のすべての富を提供なさったのである。イエスは、その見いだした真珠を、ご自分の冠にまたはめ込まれる。「彼らは冠の玉のように、その地に輝く」(ゼカリヤ9:16)。「彼らは……わたしの者となり、わたしの宝となる」(マラキ3:17)。 COL 1229.4
キリストが、高価な真珠である。そして、この天の宝を持つ特権がわたしたちに与えられている。これが、わたしたちの瞑想の課題でなければならない。良い真珠の価値を人に啓示するのは、聖霊である。聖霊の力が与えられる時は特別に、人々が天の宝を求めて発見する時である。キリストの時代には、福音を聞いた者が多くあったけれども、彼らの心は偽りの教えに惑わされていた。そしてガリラヤから出た教師が、神からつかわされたお方であることを認めなかった。ところがキリストの昇天後、キリストが仲保者としての職につかれたことが、聖霊の降下によって示された。ペンテコステの日に、聖霊が与えられた。キリストの証人たちは、復活の救い主の能力を宣言した。天の光は、キリストの敵にあざむかれた人々の暗い心を照らした。今や、彼らはイエスが「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、……導き手とし救主として」上げられたのを知った(使徒行伝5:31)。彼らは、イエスが無限の宝を手にして、立ち帰るすべての反逆者たちに与えようとして、天の栄光に包まれておられるのを見た。使徒たちが父のひとり子の栄光について語った時、3000人が悔い改めた。彼らは、自分たちが、なんと罪深く汚れているかに気づき、キリストを彼らのよき友、あがない主として見ることができるようになった。キリストは、人々の上に注がれた聖霊の力によって高 められ、あがめられた。信者たちは、自分たちが滅びないで永遠の命を得るために、屈辱と苦難と死にあわれたのは、この方であることを、信仰によって悟った。聖霊によって与えられたキリストの啓示は、彼らをキリストの力と威光とに触れさせた。彼らは、信仰の手を伸ばして、「わたしは信じます」と言ったのである。 COL 1229.5
こうして、復活なさった救い主の喜ばしい知らせは、地の果てまでも伝えられた。教会は、全地から集まる改宗者の群れで満ち、信者は、悔い改めを新たにし、罪人もクリスチャンと共に、高価な真珠を求めた。「彼らの中の弱い者も、その日には、ダビデのようになる。またダビデの家は神のように、彼らに先だつ主の使のようになる」という預言は成就したのである(ゼカリヤ12:8)。すべてのクリスチャンは、お互いの中に、神の憐れみと愛のみかたちを認めた。皆は1つの事を考え、1つの目的に徹し、すべての人の思いも1つになった。信者の唯一の願いは、キリストに似た品性をあらわし、キリストの王国の拡張のために働くことであった。「信じた者の群れは、心を1つにし思いを1つにして、……使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた」(使徒行伝4:32、33)。「そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである」(使徒行伝2:47)。キリストの霊が、全会衆を活気づけていた。それは彼らが、高価な真珠を発見したからであった。 COL 1230.1
このような光景は、もう1度大きな力をもって再現される。ペンテコステの日の聖霊の降下は、はじめの雨であった。しかし、後の雨は、いっそう豊かに降りそそぐことであろう。聖霊は、わたしたちが聖霊を求めて、受けることを待っておられる。聖霊の力によって、キリストの完全なみかたちが、もう1度、あらわれなければならない。人々は、高価な真珠の価値を認めて、使徒パウロとともに、「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」と言うであろう(ピリピ3:7、8)。 COL 1230.2