キリストの実物教訓

62/62

第29章 花婿を迎える準備

本章は、マタイ25:1~13に基づく COL 1347.3

キリストは、弟子たちと一緒にオリブ山に座しておられる。夕日は、山のかなたに沈み、夕やみのとばりが空をおおっている。すぐ目の前には、何かの祝い事でもあるのか、あかあかとあかりが輝いている家がある。窓から流れ出る光と、付近に待っている人々は、やがて、婚礼の行列が現れるしるしである。東洋では、婚礼が夜、行われるところが多い。花婿は、花嫁を迎えに行って自分の家まで連れてくる。婚礼の行列は、たいまつをともして、花嫁の実家から、招かれた客のために宴会の用意がしてある花婿の家まで行く。キリストがごらんになった光景の中には、婚礼の行列が到着するのを待って、それに加わろうとしている人々がいる。 COL 1347.4

花嫁の家の近くに、白い着物をまとった10人のおとめがいる。各自は、火のついたあかりと、油を入れる器を持っている。それぞれ花婿が現れるのを今か今かと待っている。しかし行列はなかなか現れない。何時間も経過する。待っていたおとめたちは、疲れて眠ってしまう。すると夜中に「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がする。彼らは急に目を覚まして、起き上がる。見ると行列は、たいまつをあかあかとたき、楽の音も楽しく近づいて来る。彼らは、新郎の声も、新婦の声も聞く。10人のおとめたちは、それぞれのあかりを整えて、急いで出かけようとする。ところが、5人は、器に油を入れるのを怠った。彼らはこんなに遅れるとは思っていなかった。彼らには、万一の場合の用意がなかった。彼らは、あわてて、思慮深い女たちに、「あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから」とたのむ。しかし、待っていた5人は、あかりを整え、器に持っていた油をともしびに入れてしまった。余分の油はない。「わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう」と彼らは答える。 COL 1347.5

彼らが買いに行っているうちに、行列は進んで行き、彼らを置いて行ってしまった。ともしたあかりを持った5人は、列に加わり、婚礼の行列と共に家に入り、戸は閉ざされた。思慮の浅い女たちが、婚宴の場に着いた時には、思いがけなくも入場を拒まれた。彼らは婚宴の主から、「わたしはあなたがたを知らない」と言われた。彼らは、暗い夜の寂しい通りに取り残された。 COL 1347.6

キリストは、花婿を待っている人々をごらんになりながら、10人のおとめの話を弟子たちに語られた。 キリストは彼らの経験によって、キリストの再臨直前の教会の経験を説明なさった。 COL 1347.7

二種のおとめたちが待っていたことは、主を待望すると公言する人々も、二種あることを示している。彼らは純粋な信仰を表明するので、おとめと呼ばれている。あかりは、神の言葉を代表している。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」と詩篇記者は言っている(詩篇119:105)。油は、聖霊の象徴である。聖霊は、ゼカリヤの預言の中に次のように表されている。「わたしと語った天の使がまた来て、わたしを呼びさました。わたしは眠りから呼びさまされた人のようであった。彼がわたしに向かって『何を見るか』と言ったので、わたしは言った、『わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が1つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に7つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの7本ずつの管があります。また燭台のかたわらに、オリブの木が2本あって、1本は油をいれる器の右にあり、1本はその左にあります』。わたしはまたわたしと語る天の使に言った、『わが主よ、これらはなんですか』。……すると彼はわたしに言った、『ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。』……わたしはまた彼に尋ねて、『燭台の左右にある、この2本のオリブの木はなんですか』と言い、重ねてまた『この2本の金の管によって、油をそれから注ぎ出すオリブの2枝はなんですか』と言うと、……すると彼は言った、『これらはふたりの油そそがれた者で、全地の主のかたわらに立つ者です』」(ゼカリヤ4:1~14)。 COL 1348.1

金の油は、2本のオリブの木から、金の管によって燭台の上の油を入れる器にいれられ、そこからともしび皿に注がれて聖所の中を照らした。そのように、神のみ前に立つ聖なる者から、神のご用に献身した人間という器に、聖霊が注がれるのである。これら2人の油注がれた者の役目は、天からの恵みを神の民に与えることである。この恵みだけが神のみ言葉を、足のともしび、また、道の光とすることができる。「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ4:6)。 COL 1348.2

たとえのなかで、10人のおとめは、みな、花婿を迎えに出た。だれもがあかりと油の器をもっていた。しばらくの間は、彼らの間になんの相違も見られなかった。キリスト再臨直前の教会もその通りである。すべての者が聖書の知識を持っている。すべての者がキリストの再臨の近づいたことを聞き、確信をもって彼の出現を待つのである。しかし、たとえにあったように、現在も同じである。待つ時間が長引いて信仰が試みられる。そして、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした時、準備のできていない者が多い。彼らは、あかりと共に、器の中に油を持っていない。彼らは聖霊に欠けているのである。 COL 1348.3

神の聖霊がないならば、どんなにみ言葉の知識があっても役に立たない。聖霊を伴わない真理の理論は、魂を生かすことも、心を清めることもできない。聖書の戒めや約束をどんなによく知っていても、神の霊がその真理を心に深く刻みこませなければ、品性は変えられない。聖霊によって、目が開かれるのでないならば、人は真理と誤りとを見分けることができず、サタンの巧妙な誘惑におちいってしまう。 COL 1348.4

思慮の浅い女たちによって代表されている種類の人々は、偽善者ではない。彼らは、真理に関心をもち、真理を擁護し、真理を信じる人々に引き付けられてはいるが、聖霊の働きに自分自身をゆだねていないのである。彼らは、岩なるキリスト・イエスの上に落ちて、彼らの古い性質がくだかれていない。この種の人々はまた、石地の聴衆とも言われている。彼らは喜んでみ言葉を受けいれるが、その原則をかみしめて自分のものとはしないのである。その感化が永続しない。聖霊は、人が心の中に新しい性質が植えつけられるのを望んで、同意するのに応じて、人の心にお働きになるのである。ところが、思慮の浅い女によって代表されている人々は、表面的な働きに満足している。彼らは、神を知らない。 COL 1348.5

彼らは、神の品性を学んでいない。神と交わって いない。であるから、彼らはいかに神に信頼し、ながめ、生きるべきかを知らないのである。彼らの神への奉仕は、形式化してしまう。「彼らは民が来るようにあなたの所に来、わたしの民のようにあなたの前に座して、あなたの言葉を聞く。しかし彼らはそれを行わない。彼らは口先では多くの愛を現すが、その心は利におもむいている」(エゼキエル33:31)。使徒パウロもこれが、キリストの再臨直前に住む人々の特徴であると言っている。「終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、……神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう」(Ⅱテモテ3:1~5)。 COL 1348.6

この種の人々は、危険な時に平和、無事と叫ぶ武々である。彼らは、安泰の夢をむさぼって、危険を感じない。しかし、その惰眠から驚いてめざめて、自分の欠乏に気づくと、その足りないところを他人に補ってもらおうとする。ところが、霊的なことにおいて、だれも他人の欠乏を補うことはできない。神の恵みは、すべての魂に豊かに与えられた。「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」という福音の使命はすでに伝えられた(黙示録22:17)。品性は譲渡することができない。だれも他の人に代わって信じることはできない。他の人に代わって、聖霊を受けることもできない。聖霊の働きの実である品性を、人に分与することはできない。「主なる神は言われる、わたしは生きている、たといノア、ダニエル、ヨブがそこにいても、彼らはそのむすこ娘を救うことができない。ただその義によって自分の命を救いうるのみである」(エゼキエル14:20)。 COL 1349.1

品性がわかるのは、危機においてである。「さあ花婿だ、迎えに出なさい」との熱心な叫びが声高々と真夜中にあがって、眠っていたおとめたちが目をさました時に、だれがその時のための用意をしていたかがわかる。両方とも不意におそわれたのであったが、一方には、非常の場合の用意があって、他方にはその用意がなかったのである。そのように、今日でも、何か急に予期しない災害とか何か死に当面するようなできごとの時に、神の約束に真の信仰をおいているかどうかがわかるのである。また、魂が、恵みに支えられているかどうかがわかる。恵みの時の終わりに、最後の大きなテストが来るのであるが、その時では、魂の必要を満たすのにはおそすぎる。 COL 1349.2

10人のおとめたちは、この地上歴史の夕暮れ時に待っていた。すべての者は、クリスチャンであると言っていた。すべての者は招きを受け、名を持ち、あかりを持ち、神に奉仕をしていると公言していた。すべての者は、見たところ、主の現れを待っているように思えた。しかし、5人は、用意がなかった。彼らは、あわてふためき、ついに婚宴に列することができなかった。 COL 1349.3

最後の日に、多くの者はキリストの国に入れられることを要求して、「わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました。」「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言う。しかし、それに対して、「あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。みんな行ってしまえ」と、言われるのである(ルカ13:26、27、マタイ7:22)。彼らは、この地上の生涯において、キリストとの交わりに入っていなかった。であるから、彼らは、天の言葉を知らず、天の喜びを味わうことができない。「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」(Ⅰコリント2:11)。 COL 1349.4

「わたしはあなたがたを知らない」という運命の宣告ほど、人の耳に悲しくひびく言葉はない。あなたがなおざりにした霊の交わりこそ、婚宴の席の楽しげな群れの中に、あなたを加わらせるところの唯一のものであった。その場にあなたは加わることはできない。その光は、盲目になった目には見えず、その音楽は、まひした耳には聞こえない。世俗のためにまひした心には、その愛も喜びも、楽しいものとは思われない。人は、自分自身を天との交わりにふさわしくない 者にすることによって、天から除外されるのである。 COL 1349.5

「さあ、花婿だ」という叫びを聞いて目を覚まし、それから油のきれたあかりに油を補って、主を迎える用意をすることはできない。今、キリストとかけ離れた生活をしていながら、天ではキリストとの交わりにふさわしい者となることはできない。 COL 1350.1

たとえの中で、思慮深い女たちは、あかりとともに、器の中に油を持っていた。あかりは、彼女たちが待っていた夜の間、あかあかと燃え続けた。それは、花婿を祝う光を、いよいよ輝かしくしたのである。その光は、暗黒の中に輝いて、花婿の家と婚宴の場所への道を照らしたのである。 COL 1350.2

そのように、キリストの弟子たちは、世界の暗黒に光を輝かさなければならない。神の言葉は、聖霊の働きによってそれを受けいれる人の心を変える光になる。人々の心に、み言葉の原則を植えつけることによって、聖霊は、彼らの心の中に神の性質を芽生えさせる。神の栄光の光、すなわち、神の品性が、神に従う者の中に輝き出なければならない。こうして、彼らは、神に栄えを帰し、花婿の家、すなわち神の都と小羊の婚宴への道を照らすのである。 COL 1350.3

花婿が来たのは、真夜中であった。——最も暗い時であった。そのように、キリストがおいでになるのも、この地上歴史の最も暗黒の時である。ノアやロトの時代の状態は、人の子の来られる直前の世界の状態をあらわしていた。聖書は、この時のことをさして、サタンが全力を傾け、「あらゆる不義の惑わし」をもって働くと言っている(Ⅱテサロニケ2:9、10)。この最後の時代に暗黒、様々の誤り、異端、まどわしなどが急速に増加したことを見ても明らかにサタンが働いていることを知ることができる。サタンは、ただ世俗の人々を捕らえるばかりでなくて、わたしたちの主、イエス・キリストの教会であると称しているものをもあざむいている。大背教は、一寸先も見えない真夜中の暗黒のようになることであろう。これは、神の民によっては、試練の夜、嘆きの夜、真理のために迫害を受ける夜となる。しかし、その暗黒の夜から、神の光が輝くのである。 COL 1350.4

神は「やみの中から光」が照りいでるようになさった(Ⅱコリント4:6)。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記1:2、3)。そのように霊的暗黒の夜に、神は「光あれ」と仰せになる。神の民には、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」と言われる(イザヤ60:1)。 COL 1350.5

「見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」(イザヤ60:2) COL 1350.6

世界は、神に関する誤った解釈の暗黒におおわれている。人々は、神の品性の知識を見失い、それを誤解し、誤って理解している。この時にあたって、神からの使命、よき感化を与え、救いの力をもった使命を宣言しなければならない。神の品性を明らかにしなければならない。世界の暗黒の中に、神の栄光の光、恵みと憐れみと真理の光が輝かなければならない。 COL 1350.7

預言者イザヤは、この働きのことを次のように述べている。「よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、『あなたがたの神を見よ』と。見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いはそのみ前にある」(イザヤ40:9、10)。 COL 1350.8

花婿を待ち望んでいる者は、「あなたがたの神を見よ」と、人々に言わなければならない。憐れみに満ちた最後の光、世界に伝えるべき最後の憐れみの使命は、神の愛の啓示である。神の子らは、神の栄光をあらわさなければならない。彼らは、その生活と品性において、神の恵みが彼らのためにどんなことをなしたかを表さなければならない。 COL 1350.9

義の太陽の光はよい行い——真の言葉、清い行いなどによって、輝き出なければならない。 COL 1350.10

父の栄光の輝きであられるキリストは、世の光として、この世界に来られた。彼は、人々に神をあらわす ために来られた。そして、キリストのことについて、「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。よい働きをしながら……巡回されました」と、記されている(使徒行伝10:38)。また、ナザレの会堂で、彼は言われた。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」(ルカ4:18、19)。主は、弟子たちに、このような働きをするように、お命じになった。「あなたがたは世の光である。」「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と言われた(マタイ5:14、16)。 COL 1350.11

預言者イザヤも、この事について、次のように述べている。「また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる」(イザヤ58:7、8)。 COL 1351.1

このようにして、霊的暗黒の夜に、神の栄光が教会を通して輝き出て、失望した者を励まし、悲しむ者を慰めなければならない。 COL 1351.2

わたしたちのあたり一面に、世の人々の悲しい叫びが聞こえる。どちらを向いても、欠乏と困窮に陥っている者がいる。人生の困難や悲惨を和らげ、救うことが、わたしたちの務めである。 COL 1351.3

実際的な行為は、単なる説教以上に、はるかに効果がある。わたしたちは、飢えた者に食を与え、裸の者に着せ、家なき者に宿を与えなければならない。いや、それ以上のことをするように命ぜられている。魂の欠乏を満たすことができるのは、キリストの愛だけである。もし、キリストがわたしたちの中に宿っておられるならば、心は神からの同情と、キリストのような熱烈な愛の泉がせきを切ってわき出ることであろう。 COL 1351.4

神は、わたしたちが、困っている人々に、贈り物をするだけでなくて、快活な顔をして希望にあふれた言葉を語り、愛のこもった親切な握手をすることを求めておられる。キリストは、病人をおいやしになった時に、人々の上に手をおかれた。そのように、わたしたちも助けようとする人々に近く接触しなければならないのである。 COL 1351.5

世の中には、希望を失っている者が多い。彼らに、太陽の光を取りもどしてやろう。勇気のくじけた者が多い。彼らに、励ましの言葉を語り、彼らのために祈りをささげよう。 COL 1351.6

命のパンが必要な者もある。彼らには、聖書を読んで聞かせよう。地上の医者や薬ではいやされない心の病に苦しんでいる者もある。わたしたちは、そのような人のために祈り、イエスの所へ連れて来よう。そして、ギレアデには、乳香があり、そこに医者がいることを知らせよう。 COL 1351.7

光は祝福である。それは、恩を知らず、神聖を汚す、腐敗した世界に、おしみなく宝を注ぎ出す普遍的祝福である。義の太陽の光もこれと同じである。全地は、罪と悲しみと痛みという暗黒に包まれているから、神の愛の知識によって照らされなければならない。天のみ座から輝く光は、宗派、階級、地位のいかんを問わず、どの人からも除外されてはならない。 COL 1351.8

希望と憐れみの使命は、地の果てまでのべ伝えるべきものである。望む者はだれでも、手を伸ばして神の力を自分のものとし、神と和らぎ、平和を得ることができる。異教徒も暗黒に閉ざされている必要はない。輝かしい義の太陽の光の前では、やみは消え去らねばならない。よみの力は、打ち破られたのである。 COL 1351.9

しかし、自分が与えられていないものを、他に分け与えることは、だれにもできない。人間は、神の働きにおいて、何1つ自分で造り出すことはできない。だれでも、自分の力によって、神のために光を掲げる者となることはできない。天からの使者が金の油を金の管に入れ、その油が金の器から聖所の燈台に流 れ込んでいくことによって、光があかあかと輝いたのである。人間も神の愛が絶えず注がれることによって、光を放つことができる。すべて、信仰によって、神と結合した者の心には、愛という金の油が豊かに流れ込んで、よい行いや、神に対する真心からの奉仕となって輝きでるのである。 COL 1351.10

聖霊という大きな無限の賜物の中には、天のすべての資源が含まれている。神の恵みの富が、地上の人々に流れないのは、神の側に何か制限があるためではない。喜んで受けさえするならば、だれでも聖霊に満たされるのである。 COL 1352.1

神の恵みの富、はかり知ることのできないキリストの富を、世界に伝えるための神の生きた通路になるという特権は、だれにでも与えられている。キリストは、他の何ものにもまして、キリストのみ霊と品性とを世界に代表する器があらわれるのを望んでおられる。人間によって救い主の愛があらわされることほど、世界が求めているものはない。人の心に喜びと祝福を与える清い油を注ぐことができる管を、全天は待っているのである。 COL 1352.2

教会が世の光であるイエスの光を受け、インマヌエルの栄光に輝き、全く変えられた体となることができるように、キリストはあらゆる準備をなさった。彼は、すべてのクリスチャンが光と平和の霊的雰囲気に包まれることを望んでおられる。そして、わたしたちがキリストご自身の喜びを、わたしたちの生活の中にあらわすことを願っておられるのである。 COL 1352.3

み霊の内住は、天の愛があふれ出ることによってわかる。神の満ちた徳は、献身した代表者を通して流れ出て、人々に与えられるのである。 COL 1352.4

義の太陽は「その翼には、いやす力を」備えている(マラキ4:2)。そのように、真の弟子からは、だれからでも、生命と勇気と援助と真のいやしを与える感化が発散するのである。 COL 1352.5

キリスト教は、ただ罪の赦しを与えるだけではない。それは、まずわたしたちの罪を取り去って、その空いた所を、聖霊の徳で満たすのである。これは、神の光を受けて、神にあって喜ぶことである。自己を全くむなしくして、絶えず、キリストの臨在の祝福を受けることである。キリストが魂を支配なさる時に、そこには、純潔と、罪からの自由がある。福音の計画の栄光と、その満ち満ちた完全さとが生活の中に完成されるのである。救い主を受け入れることによって、完全な平和、完全な愛、完全な確証の喜びを味わうことができる。神が確かにみ子を世の救い主として、世界に送られた証拠として、わたしたちの生活の中に、キリストの品性の美とかぐわしさがあらわれるのである。 COL 1352.6

キリストは弟子たちに光を輝かすように努力せよと、お命じにならなかった。ただあなたがたの光を輝かしなさいと言われただけであった。もし、キリストの恵みを受けているのであれば、光はあなたのうちにある。障害物を取り除くならば、主の栄光は、あらわれるのである。光は暗黒の中に輝き出て、やみを追いやってしまう。こうしてあなたは自分の感化の及ぶ範囲で、光を輝かさずにはおられない。 COL 1352.7

人間の姿の中にキリストご自身の栄光があらわれることは、天と人間との間を非常に近いものにするのであって、キリストの宿られるすべての魂の中に神の宮の栄光が見られるようになる。そして、内住のキリストの栄光に、人々は捕らえられるのである。こうして神に導かれた多くの魂の賛美と感謝とは、潮のごとくに、偉大な与え主なる神に栄えを帰すのである。 COL 1352.8

「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」(イザヤ60:1)。この使命は、花婿を迎えに出る人々に与えられている。キリストは、力と大いなる栄光をもって来られる。彼は、ご自分の栄光と父の栄光とをもって来られる。彼は、すべての聖天使を率いて来られる。全世界が暗黒に閉ざされている時に、聖徒たちの住居にはどこにも光がある。彼らは、キリストが再びおいでになる最初の光をとらえるのである。主は、輝く栄光に包まれておられる。そしてあがない主なるキリストは、お仕えするすべての者の賛美をお受けになる。悪者は、み前から逃れ去るけれども、キリストに従った者は、喜びにあふれる。家長ヨブは、はるかに、キリスト再臨の時をながめて、「しかもわたしの味方として見るで あろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない」と言った(ヨブ19:27)。キリストに忠実に従った人々にとって、キリストは日ごとの伴侶、親しい友であった。彼らは、神との密接な接触、絶えざる交わりを保ってきた。彼らの上に、主の栄光がのぼった。イエス・キリストのみ顔にあらわれた神の栄光の知識の光が、彼らの中に反映したのである。今彼らは、荘厳な王の大いなる輝きと栄光に浴して喜ぶのである。彼らは、心に天を持っているから、天との交わりに入る準備ができているのである。 COL 1352.9

彼らは、輝く義の太陽の光を受けて、頭をもたげ、彼らのあがないの近づいたことを喜ぶのである。彼らは、花婿を迎えて、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる」と言うのである(イザヤ25:9)。 COL 1353.1

「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。……』それから、御使はわたしに言った、『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。』」「小羊は、主の主、王の王である……。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」(黙示録19:6~9、17:14)。 COL 1353.2