キリストの実物教訓

61/62

第28章 恵みの報い

本章は、マタイ19:16~30、20:1~16、マルコ10:17~31、ルカ18:18~30に基づく COL 1341.1

神の恵みは無代価のものであるという真理を、ユダヤ人は全くといってよいほど、見失っていた。神の恵みは、努力して手に入れるべきものであると、ラビたちは教えていた。彼らは、義人の受ける報いを、自分たちの行いによって得ようと望んだ。こうして彼らの礼拝は、強欲な利益を目的としたものとなった。キリストの弟子でさえ、この精神から全く抜けきることができていなかったので、救い主は機会あるごとに、彼らの誤りを正そうとなさった。ぶどう園で働く労働者のたとえのすぐ前に、1つのできごとが起こった。イエスは、そのことに関連して、正しい原則をお語りになった。 COL 1341.2

イエスが道を歩いておられると、1人の若い役人が、イエスのところに走って来た。そして、み前にひざまずいて、うやうやしく言った。「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか。」 COL 1341.3

役人は、キリストを神の子として認めたのではなくて、尊敬すべきラビとして、話しかけたのである。救い主は、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない」と言われた。何を根拠にして、わたしをよいというのか、神だけがよい方である。あなたがわたしをそのような者であると認めるならば、わたしを神の子、神の代表者として受けなければならないのである。 COL 1341.4

「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」とイエスは、つけ加えられた。神の品性は、神の戒めの中に表現されている。そして、人間が神との調和を保つためには、神の戒めの原則が、すべての行為の源泉とならなければならない。 COL 1341.5

キリストは、戒めが要求することを、少しもゆるやかにはなさらない。絶対に間違う余地のないはっきりした言葉で、永遠の命に入るには、戒めに従わなければならないことをお示しになった。 COL 1341.6

これは、堕落前のアダムに要求されたのと同じ条件である。主は、エデンの園で人間に要求なさったのと同じ完全な服従と、しみのない義とを今も求めておられるのである。恵みの契約の下で要求されることは、エデンで要求されたものと同様に広いもので、清く、正しく、善である神の戒めとの調和である。 COL 1341.7

「いましめを守りなさい」との言葉に対して、若者は、「どのいましめですか」とたずねた。彼は、何かの儀式上の戒めであると思ったが、キリストは、シナイ山から与えられた戒めのことを言っておられたのである。彼は、十戒の第2枚目の板からの数か条をあげて、それをまとめて、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」とお命じになった。 COL 1341.8

青年はちゅうちょすることなく、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」と答えた。彼の律法に関する考えは、外面的で表面的であった。彼は、人間的な標準から見れば、汚点のない品性を持っていた。彼の外面的生活は、大体において、罪の無いものであった。彼も自分の服従は、非のうちどころのないものであると信じていた。しかし、神と自分の魂との関係が、全く正しいものではないのではないかという、密かな恐れがあった。これが「ほかに何が足りないのでしょう」という質問を彼にさせた。 COL 1341.9

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と、キリストは言われた。「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」 COL 1341.10

自分を愛する者は、律法を犯す者である。イエスは、このことを青年に示そうと望んで、彼の心の中の利己心をあらわすテストをお与えになったのである。イエスは、彼の品性の病気になっている所をお示しになった。青年は、それ以上、啓発されることを望まなかった。彼は、心に偶像を持っていた。この世が、彼の神であった。彼は戒めを守っていたと公言はしたけれども、すべての戒めの精神と命である原則に欠 けていた。彼は、神と人に対する真の愛を持っていなかった。これがないことは、天国に入るにふさわしい者とするすべてを、彼が欠いていたことを示したものであった。彼は、自己を愛し、世の利益を愛していたから、天の原則と調和していなかった。 COL 1341.11

この若い役人が、イエスのところへ来た時、彼の真実さと熱心さに、救い主は心を引かれた。「イエスは彼に目をとめ、いつくし」まれたのである。主は、この青年が、義の説教者として奉仕する可能性を持っているのをごらんになった。彼は、イエスに従った貧しい漁夫たちをお受けになったのと同様に、この才能あるりっぱな青年をも、喜んでお受けになったことであろう。もしもこの青年が、救霊の働きにその才能をささげたならば、彼はキリストのために勤勉に働いて、成功をおさめる働き人となったことであろう。 COL 1342.1

しかし、彼は、まず第一に、弟子となる条件を受けいれなければならなかった。彼は、神に全くおのれをささげなければならなかった。救い主の召しを受けた時に、ヨハネ、ペテロ、マタイおよびその仲間の者は、「いっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた」のである(ルカ5:28)。これと同じ献身が若い役人に要求されたのである。そして、この点において、キリストは、ご自身がなさったよりも大きな犠牲を、ご要求になったのではない。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが彼の貧しさによって富む者になるためである」(Ⅱコリント8:9)。青年は、ただキリストのお導きに従いさえすればよかったのである。 COL 1342.2

キリストは、青年をながめ、彼の魂を引きつけようと望まれた。主は、彼を祝福の使者として、人々の所へつかわそうと熱望された。捨てるように言われた物の代わりに、キリストは、ご自分との交わりという特権を、この青年に提供なさったのである。「わたしに従ってきなさい」と主は言われた。ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、この特権を喜びとみなしたのである。この青年自身も、キリストを尊敬の念を持ってながめた。彼の心は、救い主に引き付けられた。しかし、救い主の自己犠牲の原則を受け入れるまでにはなっていなかった。彼は、イエスを選ぶよりは、富の方を選んだ。彼は、永遠の命を欲したけれども、ただ1つの生きる道である無我の愛を、魂の中に受けいれようとせずに、悲しみつつ、キリストから去っていった。 COL 1342.3

青年が離れて行った時、イエスは弟子たちに、「富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである」と言われた。この言葉は弟子たちを驚かした。富んでいる者は、天の特別の恵みを受けた者とみなすように、彼らは教えられていた。彼ら自身も、メシヤの王国では、世的な権力と富を受けることを期待していた。もしも、富んでいる者が神の国に入れないとするならば、一体他の人々には、どんな望みがあり得るであろうか。 COL 1342.4

「イエスは更に言われた、『子たちよ、神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい』。すると彼らはますます驚い」た。彼らは、この厳粛な警告の中に、自分たちも含まれていることを自覚した。救い主のこの言葉によって、彼ら自身の心の中に権力と富に対するひそかな願いがあったことが明らかにされた。彼らは心配になって、「それでは、だれが救われることができるのだろう」と叫んだ。「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである。』」 COL 1342.5

富んでいる者は、富んでいるからといって、天国に入れるのではない。富は、光の内にある聖徒たちの特権にあずかる資格を与えない。何の功績もなくして与えられるキリストの恵みによってのみ、人は、神の都に入ることができるのである。 COL 1342.6

「あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ」という聖霊の言葉は、貧しい者に対すると同様に富んだ者にも語られたのである(Ⅰコリント6:19、20)。人々がこれを信じる時、彼らの所有物は、神からの委託物とみなされるようになり、神の指示に従って、失われた魂の救いのためや、苦しんでいる人や貧しい人を慰めるために用いられるようになる。人の 心は地上の宝に執着するから、こうしたことは人にはできないことである。富にとらえられている魂は、人間の欠乏の叫びを聞く力を失っている。しかし、神には、すべてのことが可能である。 COL 1342.7

キリストの無比の愛を眺めることによって、利己的な心は、とかされ、和らげられる。パリサイ人サウロと同じように、富んでいる人も、「わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」というようになる(ピリピ3:7、8)。その時、彼らは、どんな物でも自分の物とは考えなくなる。彼らは、自分たちを神の数多くの恵みの管理人であると認め、神のためにすべての人の僕となることを喜ぶのである。 COL 1343.1

救い主の言葉によって受けた心の強い感銘から、まず最初に我に帰ったのはペテロであった。ペテロは、自分と兄弟たちがキリストのために捨てた物のことを満足げに考えた。ペテロは「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました」と言った。そして、若い役人に与えられた「そうすれば、天に宝を持つようになろう」という条件つきの約束を思い起こして、ペテロは、自分や兄弟たちがその犠牲の報いとして、何を受けるであろうかとたずねたのである。 COL 1343.2

救い主の答えは、これらのガリラヤの漁夫たちの心をおどらせた。それは、彼らの最高の夢の栄えある実現を描いたものであった。「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、12の位に座してイスラエルの12の部族をさばくであろう。」イエスはなお続いて、「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう」と言われた。 COL 1343.3

しかし、「ついては何がいただけるでしょうか」というペテロの質問は、そのまま改めないでおくならば、弟子たちをキリストの使者とするのにふさわしくない精神、すなわち、雇い人根性をあらわしていた。イエスの愛に引き付けられていたとは言っても、弟子たちは、まだパリサイ主義から完全に解放されていなかった。彼らは、まだ、働きに相当した報いを受けるという考えのもとに働いていた。彼らは、自己高揚と自己満足の精神をいだいて、お互いに比較し合っていた。だれかが、何かの失敗でもすると、他の者は、優越感にひたっていた。 COL 1343.4

キリストは、弟子たちが、福音の原則を見失うことのないように、神が働き人を扱われる力法と、神が働き人にお求めになる精神が何であるかを、たとえによって説明なさった。 COL 1343.5

「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである」と主は言われた。職を求める人は市場で待ち、雇い主もそこへ行って、働き人を見いだすというのが、当時の習慣であった。たとえの雇い人は、それぞれ違った時間に出かけて行って、働き人を雇ったと言われている。朝早く雇われた人々は、一定の賃銀で働くことを約束した。あとから雇われた者は、賃銀を主人の考えに一任した。 COL 1343.6

「さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、5時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ1デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった。」 COL 1343.7

ぶどう園の働き人に対する主人の扱い方は、神が人類家族を扱われる方法を代表している。これは一般に人間の間で行われているやり方とは反対である。この世の事業においては、報酬は完成した仕事の量に応じて与えられる。労働者は、自分の働いた分だけを受けることを期待する。しかし、このたとえの中では、キリストは、この世の国ではなくてご自分の国の原則を説明された。主は、どんな人間の標準にも支配されない。「わが思いは、あなたがたの思い とは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっている……天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」と、主は言われる(イザヤ55:8、9)。 COL 1343.8

このたとえで、最初の労働者は、一定の賃銀で働く約束をし、定まった額をもらい、それ以上何ももらわなかった。後で雇われた人々は、「相当な賃銀を払うから」という主人の約束を信じた。彼らは賃銀について、何の質問もしないで、主人を信頼していることを示した。彼らは、主人の正当なことと公平なこととを信じた。そして、彼らは働きの量によらないで、主人の情け深い気持ちによって報われたのである。 COL 1344.1

そのように、神は、わたしたちが、不信心な者を義とされる神を、信頼するように望んでおられる。神の報いは、わたしたちの功績によるのではなくて、「わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された」神ご自身の目的に従って与えられるのである(エペソ3:11)。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、……わたしたちは救われるのである」(テトス3:5、6)。そして、神を信頼する者のために、神は「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えて」かなえてくださるのである(エペソ3:20)。 COL 1344.2

神の前に価値があるのは、なしとげた働きの量や目に見える結果などではなくて、働きをした精神である。夕方の5時にぶどう園に来た労働者は、働く機会が与えられたことを感謝した。彼らの心は、彼らをやとってくれた人に対する感謝で一杯であった。そして、その日の終わりに、主人が彼らに1日分の賃銀を払った時、彼らはたいへん驚いた。彼らは、そのような賃銀をかせがなかったことを知っていた。雇い主の顔に表された親切心を見て、彼らの心は喜びにあふれたのである。彼らは、主人の親切と分にあまる報酬とを、いつまでも忘れることはできなかった。自分の無価値なことを知りながら、5時になって、神のぶどう園に入った罪人もこれと同じである。彼の奉仕の時間は短く、報酬を受ける価値のないことを感じるのであるが、自分のような者でさえ、神が受けいれてくださったことに大きな喜びを感じている。彼は、謙遜と信頼の念をもって働き、キリストと共に働く特権を感謝しているのである。神は、このような精神を嘉納なさるのである。 COL 1344.3

報酬のことは全く神におまかせして安んじていることを、主はわたしたちに望まれる。キリストが魂に宿られると、報酬のことは、第一の関心事ではなくなる。それがわたしたちの奉仕の動機ではない。わたしたちは、第二義的な意味で、報酬に関心を持つべきは当然のことである。神は、わたしたちが、約束の祝福を感謝することを望んでおられる。しかし、神は、わたしたちが報酬を熱心に求めたり、また、すべての義務に対して報酬を受けるべきであると思うことを、お望みにならない。わたしたちは、報酬を受けることよりはむしろ、報酬のことは、全く度外視して、正しいことを行うように心がけなければならない。神と同胞への愛が、わたしたちの動機でなければならない。 COL 1344.4

このたとえは、最初に働きへの召しを受けながら、主のぶどう園に入らなかった人々を容赦しているわけではない。主人が5時ごろ市場へ行って、働きのない人々を見た時、「なぜ、何もしないで、1日中ここに立っていたのか」と尋ねた。すると、彼らは、「だれもわたしたちを雇ってくれませんから」と答えた。夕方、雇われた者はだれも、朝にはいなかった人々であった。彼らは、召しを拒んだのではなかった。拒んで後に悔い改めるのは結構なことであるが、憐れみ深い最初の召しを軽んじることは安全ではない。 COL 1344.5

ぶどう園の労働者が、「それぞれ1デナリ」ずつもらった時、朝早く仕事を始めた人々は立腹した。自分たちは、12時間も働いたではないか。夕方涼しくなってから、1時間しか働かなかった者よりも、多く与えられるのが当然ではないか、と彼らは考えたのである。「この最後の者たちは1時間しか働かなかったのに、あなたは1日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました」と、彼らは言った。 COL 1344.6

そこで主人は彼らの1人に答えて言った、「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あな たはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。」 COL 1344.7

「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。」 COL 1345.1

たとえの最初から働いた労働者は、自分たちの働いたことを理由にして、他の者よりは優遇されることを要求する人々を表している。彼らは、自己賞賛の精神をもって仕事をし、克己と犠牲の精神をもってはしないのである。彼らは、一生の間神に仕えると公言したことであろう。困難、欠乏、試練には、だれよりも進んで耐えたことであろう。そして、そのために、彼らは、大きな報酬に値する者であると考える。彼らは、キリストと共に働く特権よりは、報酬のことを考えるのである。彼らは、その労苦と犠牲とによって、他の人々よりも栄誉を受ける資格があると思うのであるが、この要求が認められないために、腹を立てるのである。もしも彼らが、愛と信頼の精神をもって働いたのであれば、彼らは続いて先頭に立ったはずであったが、怒りっぽい、不平を鳴らす性質は、非キリスト的で、信頼するに足りないことを明らかにした。彼らは、自己を他よりも先にし、神を信頼せず、兄弟たちをねたみ、うらやむ精神をあらわした。主の慈愛と寛大さは、ただ彼らのつぶやきの材料となるに過ぎなかった。こうして、彼らは、彼らの魂と神との間になんの関係もないことを示した。彼らは、偉大な働き人なる主と共に働く喜びを知らないのである。 COL 1345.2

狭量で自分のことばかりを考える精神ほど、神にきらわれるものはない。神は、このような精神をあらわす者と共に働くことはできない。彼らは、聖霊の働きに対して無感覚である。 COL 1345.3

ユダヤ人は、最初に主のぶどう園に召された者であった。そのために、彼らは、高慢で自らを義としていた。彼らは、自分たちの長年の奉仕の結果として、他の人以上に大きな報酬を受ける資格があると思った。神の事柄に関して、異邦人もユダヤ人と同じ特権にあずかることができることをほのめかすことほど、ユダヤ人を怒らせるものはなかった。 COL 1345.4

キリストは、最初に主に召された弟子たちに向かって、彼らの間では、このような悪感情をいだいてはならないと警告なさった。イエスは、教会の弱点とのろいとなるのは、自己を義とする精神であることを認められた。とかく、人間は、天国に入るために、自分たちで何かの行いをすることができると考える。また、幾分かの進歩をするならば、主が来て助けてくださると思いやすい。こうして、自己を高め、イエスのお姿はあらわされない。わずかの進歩しかしないのに、高慢になって、優越感をいだく者が多い。彼らは、人の賞賛を求め、自分が最も重要視されないと、人をねたむのである。キリストは、こうした危険から、弟子たちを守ろうとなさった。 COL 1345.5

自分の功績を誇ることは、すべて見当違いである。「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」(エレミヤ9:23、24)。 COL 1345.6

報酬は、働きによるものではなくて、全く恵みによるものである。それはだれも誇る者がないためである。「それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。なぜなら、聖書はなんと言っているか、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」(ローマ4:1~5)。であるから、他人よりも自分を すぐれた者であると思ったり、他人に対してつぶやいたりする理由はない。だれも他の人以上の特権が与えられていないし、当然の権利として報酬を要求することもできないのである。 COL 1345.7

先のものも後のものも共に、大きな永遠の報酬にあずかるのであるから、先のものは、後のものを喜んで迎えるべきである。他の人の報酬のことについてつぶやく者は、自分自身が、ただ恵みだけによって救われたことを忘れている。この労働者のたとえは、すべてのしっとと邪推とを非難している。愛は、真理を喜び、うらみがましい比較を試みない。愛をもっている者は、ただキリストのうるわしさと自分の不完全な品性とを比較するだけである。 COL 1346.1

このたとえは、すべての働き人に対する警告である。たとえ、奉仕の期間がどんなに長く、どんなに労苦を重ねても、兄弟に対する愛がなく、神の前に謙遜がないならば、彼らは無に等しいのである。自己に王座を占めさせることの中に、宗教はない。自分に栄光を帰すことを目当てにする者は、キリストのために力ある働きを行わせる唯一のものである神の恵みに、欠乏していることを見いだすことであろう。高慢と自己満足にふけると、必ず、働きは損なわれるのである。 COL 1346.2

わたしたちの働きを神に受け入れられるものにするのは、働きの時間の長さではなくて、働きを喜んで、忠実にする精神である。わたしたちのすべての働きにおいて、自己を全く降伏させることが要求されている。真心から、おのれを忘れて行った最も小さな義務は、利己心に汚された最も大きな働きよりも、神に喜ばれるのである。神は、わたしたちが、どれほどキリストの精神を抱いているか、また、わたしたちの仕事がどれほどキリストのみ姿をあらわしているかをごらんになる。神は、仕事の量よりも、わたしたちの仕事に対する愛と忠実さの方を尊重されるのである。 COL 1346.3

利己心が死に、首位を争う心が消え、心に感謝が満ち、愛が生活をかぐわしいものとする、その時こそ、キリストが魂のうちに宿り、わたしたちは、神と共に働く者として認められるのである。 COL 1346.4

働きは、どんなに困難であっても、真の働き人は、それを重荷とは思わない。彼らは喜んで自分自身を使いつくそうとするのである。しかし、これは、喜びにあふれて行う楽しい仕事なのである。神にある喜びは、イエス・キリストによって表されている。彼らの喜びは、イエスの前におかれた喜び、つまり、「わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」(ヨハネ4:34)。彼らは、栄光の主と共に働いている。この自覚は、あらゆる労苦を楽しいものにし、意志を強め、何か起こっても、心を支える。彼らは、キリストの苦しみにあずかって気高くされ、無我の精神をいだいて働き、キリストの思いやりの精神をもち、キリストと協力してご用にあたることによって、いよいよ主の喜びを満ちあふれさせ、主の尊いみ名にほまれと賛美とを帰するのである。 COL 1346.5

これが神を真に礼拝する精神である。この精神が欠けているために、先と思われる多くの人が後になり、この精神を持っている人は、後と思われても、先になるのである。 COL 1346.6

キリストに自分たちをささげはしたものの、まだ、主のご用のために大きな仕事をしたり、大きな犠牲をする機会を得ない人々がたくさんいる。このような人々は、神が一番お喜びになることは、必ずしも、殉教者の自己犠牲でないことを知って、慰めを得るべきである。天の記録の最高位に立つのは、必ずしも、日ごとに危険と死に当面する宣教師であるとは限らないのである。その私生活においてクリスチャンである者、日ごとの自己犠牲において、心の真実さと純潔において、ののしられても柔和なことにおいて、信仰と敬虔において、小さいことに忠実なことにおいて、家庭生活において、キリストの品性を表す者、このような人は、世界的に名高い宣教師や殉教者以上に、神の前には尊いのである。 COL 1346.7

品性を評価するにあたって、神と人との標準は、なんと大きな相違があることであろう。世の中や親しい友人さえも知らない、家庭内や心のなかの誘惑、数々の誘惑に打ち勝ったことなどを、神はごらんになる。自己の弱さを知って、謙遜にしていること、1つの悪い思いでさえ、心から悔い改めることなどを、神 はごらんになる。また、神は、ご用のために心から奉仕する人をごらんになる。自己とのはげしい戦い、そして遂に、その戦いに勝利したことなども注目なさるのである。これらのすべてを、神が知っておられ天使も知っている。主をおそれ、主の名をおぼえる者のために、主の前に記憶の書がかかれている。 COL 1346.8

学識があるとか、地位があるとか、または、人の数とか、才能の数とか、人間の意志の力とかに、成功の秘訣があるのではない。わたしたちは、自分の無力を感じて、キリストを瞑想すべきである。そうするならば、すべての力の力であり、すべての思いの思いであるキリストの助けによって、喜んで従っていく人々は、勝利から勝利へと進むのである。 COL 1347.1

わたしたちの働きは、どんなに短く、またどんなに卑しいものであっても、単純な信仰をもって、キリストに従っていくならば、必ず報酬を受けることができる。いかに偉大で賢明な人々でさえも、得ることができなかったものを、最も弱く卑しい者が受けることができるのである。天の黄金の門は、自己を高める者のためには開かれない。また、高慢な心の者にもあげられない。しかし、永遠の門は、小さな子供のふるえる手が触れた時に広く開かれるのである。単純な信仰と愛とをもって神のために働いた者の受ける恵みの報酬は、実に祝福されたものである。 COL 1347.2