キリストの実物教訓
時
わたしたちの時は、神に属するものである。一瞬、一瞬が神のものである。そして、わたしたちには、その時を神の栄光のために活用するように、きわめて厳粛な責任が負わせられている。神がお与えになった賜物のなかで、わたしたちの時間ほどに厳密な説明が求められるものは他にないのである。 COL 1320.1
時間の価値は計り知れないものである。キリストは、1分1秒を貴重なものとみなされたが、わたしたちもそう思わなければならない。人の一生は、無駄にすごすには、あまりにも短い。永遠のために備えをすべき恵みの日は、ほんのわずかしかない。浪費したり、自己の快楽のために用いたり、罪にふけったりする時間はない。将来の永遠の命のために品性を形成するのは、今である。厳密な審判の時の備えをするのは、今である。 COL 1320.2
人類家族は、死ぬころになってから初めて、真に生き始めるようなものである。もし永遠の命に関する真の知識を得るのでないならば、この世の絶え間なき労苦も無に終わってしまう。働きをする時間として、時を尊重する者だけが、永遠の命とその住居とに入るにふさわしい者である。その人は、この世に生まれたかいがあったといえるのである。 COL 1320.3
わたしたちは、今の時を生かして用いるように勧められている。しかし、無駄に過ごした時間は、永久に帰ってこない。一瞬間でも呼びもどすことはできない。ただ残っている時間を神の協力者となって神の大贖罪計画のために最善をつくすことによって、時をあがなうことができるだけである。 COL 1320.4
こうする者は、品性が一変する。彼は、神の子となり、王族の一員、天の王子となるのである。また、天使たちの友となるのにふさわしい者とされるのである。 COL 1320.5
今こそ、同胞の救いのために働くべき時である。キリストの働きのために金銭をささげさえすれば、それで、すべての義務を果たしたように考えている者がいる。キリストのために個人的に奉仕をする農重な時間の方は、一向に活用されていない。しかし、神のために活動的奉仕をすることが、健康と力をもったすべての者の特権であり義務である。すべての者は、魂をキリストに導くために働かなければならない。献金は、この代わりにはならないのである。 COL 1320.6
1秒1秒は、永遠にわたって重人な影響を及ぼすものである。いつでも義勇兵のように召集に応じて、奉仕をするために立たなければならない。助けを必要としている魂に命の言葉を語るために今与えられている機会は、もう2度とこないかも知れない。その人に向かって、神が「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」と言われるならは、その人は、わたしたちの怠慢のために、用意ができないことになってしまうのである(ルカ12:20)。大いなる審判の日に、わたしたちは、なんといって神の前に申し開きをしたらよいであろうか。 COL 1320.7
人生は非常に厳粛であるから、一時的な地上の物に心を奪われたり、永遠に重大性をもった物と比べるならば、全く取るに足らない小さい事のために、絶えず心を煩わされていてはならない。とはいうものの、神は、この人生の一時的な事柄の中にあって、神に奉仕するように、わたしたちを召されたのである。この世の仕事を勤勉にすることは礼拝と同様に、真の宗教の一部である。聖書は、怠惰であってよいとは言っていない。怠惰は、この世界の最大ののろいとなっている。真に悔い改めた男女は、すべて勤勉に働く者となるのである。 COL 1320.8
知識を得、知力を啓発するか否かは、時間を正しく活用することにかかっている。知力の啓発は、貧困であるとか、いやしい身分であるとか、逆境にあるからとかいって妨げられるべきものてはない。 COL 1320.9
ただ時間を重んじればよいのである。なんのあてもないむだ話、朝、床の中で浪費する時間、電車や汽車の中、駅で待つ間、食事を待つ時間、約束の時間に来ない人を待つ間などの時間を、本を手にしていて、研究、読書、思索などに活用するならば、どのようなことが成しとげられるかわからない。固い決心 をもって、たゆまぬ努力を重ね、注意深く時間を節約するならば、知識と知的訓練を受けることができて、どのような地位にでも適した者となり、よい感化を及ぼし、りっぱに役立つ人物となるのである。 COL 1320.10
整頓、徹底、敏速の習慣をつけることは、すべてのクリスチャンの義務である。たとえ、どのような仕事にせよ、だらだらと不手際にしてよい理由はない。常に仕事をしていながら、仕事が完成されないとすれば、それは、仕事に心を入れていないからである。仕事がおそく、思うように運はない人は、このような欠点を改めるべきであることを自覚しなければならない。最大の結果を得るためには、どのように時間を用いるべきであるかを計画して、頭を働かせなければならない。気転と方法いかんによっては、他の人が10時間かかる仕事を、5時間で仕上げることができる。家庭の仕事をしている人で、仕事はそれほど多くはないが、時間を節約して計画しないために、1日中仕事をしている者がある。彼らはおそくぐずぐずしているために、わずかのことを、たいへんな仕事のようにしている。けれどもだれでも意志さえ働かせれば、このような手数のかかるぐずぐずした習慣に打ち勝つことができる。それには仕事をするにあたって、はっきりした目標を立てることである。この仕事にはなん時間必要であるかを定め、その時間内に、仕事を完成するように全力を注ぐのである。意志を働かせるならば、手も器用に動くようになるのである。 COL 1321.1
自分から進んで改善しようという決意に欠けているために、人間は誤った習慣におちいってしまうのであるが、一方、自分たちの能力の啓発に努力するならば、最上の奉仕をする能力を得ることができる。そうすれば、彼らは、あらゆるところから求められ、彼らの真価は、人々から感謝されることであろう。 COL 1321.2
家庭の重荷を負うことによって、父母に対してやさしい思いやりを示すことができるのに、その時間を浪費している青少年が多い。青年は、自分たちの強い肩に、人生の負うべき責任を多くになうことができる。 COL 1321.3
キリストの生涯は、その幼少のときから、熱心で活動的な生活であった。イエスは、自分を楽しませる生活をなさらなかった。彼は、無限の神の子であったにもかかわらず、父ヨセブと共に大工の仕事をされた。彼の職業は意義深いものであった。彼は、品性の形成者としてこの世界においでになり、彼のすべての仕事は、完全であった。キリストが天の力によって人々の品性を完全に改変なさると同様に、この世の仕事をも完全になさったのである。彼は、わたしたちの模範である。 COL 1321.4
親は、時の価値とその用い方を子供たちに教えなければならない。神の栄えをあらわし、人類を祝福するために何事かをするということは、努力に値するものであることを教えなければならない。子供たちは、幼いながらも、神のために伝道者となることができる。 COL 1321.5
親が子供たちに、何もさせないでおくことほど大きな罪はない。やがて子供たちは、なまけ者になってしまい、無為無能の男女に成長してしまう。働く年齢になって、就職しても、仕事をなまけながら、それでいて忠実に働いた時と同じ給料を期待するのである。この種類の者と、忠実な家つかさになろうと自覚する者との間には、雲泥の差がある。 COL 1321.6
仕事をなまけ、不注意な生活をしている者は、その習慣が宗教生活にまで影響を及ぼし、神のための奉仕も十分にできなくなってしまう。勤勉に努力すれば、世界のために祝福を与え得る身でありながら、怠惰のために身を滅ぼしている者が多い。職業につかず、また確固とした目的も持っていないために、様々な誘惑におちいる者が多い。悪友と悪習慣とが、心と魂を堕落させ、この世の命だけでなく、来たるべき命までも失ってしまうことになる。 COL 1321.7
どの方面の仕事に従事しても、神の言葉はわたしたちに、次のように勧めている。「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、」「すべてあなたの手のなしうる事は力をつくしてなせ。」「あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである」(ローマ12:11、伝道の書9:10、コロサイ3:24)。 COL 1321.8