キリストの実物教訓

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今日の教会

ぶどう園のたとえは、ユダヤ民族にだけあてはまるのではなく、それはわたしたちが学ぶべき教訓でもある。現代の教会は、大きな特権と祝福を神から受けており、神はそれにふさわしい感謝の行為を期待しておられる。 COL 1301.6

わたしたちは、高い身代金によってあがなわれた。わたしたちは、この身代金の価が大きなものであったことから考えて、それがどんなに大きな結果をもたらすものであるかを知ることができるのである。土が神の子の涙と血でうるおされたこの地上は、パラダイスの尊い実を結ばなければならない。神の民の生活のなかに、み言葉の真理の栄光と美とがあらわれなければならない。キリストは、神の民を通してご自分の品性とみ国の原理を示されるのである。 COL 1301.7

サタンは、神のみわざを破壊しようとして、サタン自身の原則に従うように人々を勧誘している。サタンは、神の選民があたかも惑わされた民であるかのように言いふらすのである。彼は兄弟らを訴える者であって、そのとがめだては、義を行う人々に向かって発せられる。神は、神の民が義の原則に従順であればいかなる実を結ぶかを示して、サタンの訴えに答えることを望んでおられる。 COL 1301.8

これらの原則は、クリスチャン個人において、家庭において、教会において、また神の奉仕のために立てられたあらゆる機関において、明らかにされなければならない。これらはみな、世のためにどれほどのことがなされるかという象徴でなければならない。それらは、福音の真理にはどんな救いの力があるのかを示す型でなければならない。これらはみな、神が人類に対して持っておられる大いなるみ旨を、成就する手立てなのである。 COL 1301.9

ユダヤの指導者たちは、彼らの壮麗な神殿と印象的な宗教行事の儀式とを誇りにしていたが、義と憐 れみと神への愛が欠けていた。神殿の壮観もその奉仕の華麗さも、彼らを神に嘉納されるものとすることはできなかった。すなわち、彼らは、神の目に価値のある唯一のものを、ささげていなかったのである。彼らはへりくだった、くだけた精神を神のもとに携えてこなかった。儀式がはなばなしくなり、多岐にわたるに至るのは、神の国の根本原理が失われた時である。誇りと外見を重んじて、壮麗な教会建築や、華美な装飾や、人目を引く儀式を求めるのは、品性の形成がおろそかにされ、魂の飾りが欠け、純真な敬神の念が見失われた時である。こうしたことがいくら重ねられても、神はあがめられない。儀式と虚飾と誇示から成る一般の教会は、神に受け入れられるものではない。その礼拝は天来の使者から、いかなる応答をも得ることができない。 COL 1301.10

教会は、神の目に非常に尊いものである。その外面の装いではなく、世とは全くかけ離れた誠実な敬神さのゆえに、神は教会を重んじられるのである。神は、その教会員がキリストを知る知識にどの程度成長しているか、また、霊的な経験にどの程度進んでいるかによって教会を評価なさる。 COL 1302.1

キリストはそのぶどう園から、聖潔と無我という実を得たいと渇望しておられる。キリストは、愛と善意の原則を求めておられる。いかなる美術品であっても、キリストの代表者である人々のうちに、現されるべき性質と品性の美には匹敵できない。信ずる者を生命から生命に至る香りとし、そのわざに神の祝福をもたらすものは、彼の魂をつつむ恵みの雰囲気である。 COL 1302.2

教会の会衆は、その国の人々の中で、最も貧しい者であるかもしれない。見たところ、人の目を引くものは何もないかもしれない。しかし、もし彼らがキリストの品性の原則を所有しているなら、彼らの魂にはキリストの喜びが宿るのである。天使も彼らの礼拝に加わり、感謝と心からの賛美は甘美なささげものとして神のもとにのぼる。 COL 1302.3

主はわたしたちがそのいつくしみを述べ、その力を語るようにと望んでおられる。わたしたちが賛美と感謝を表現する時に、主はあがめられる。「感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる」と主は言われる(詩篇50:23)。イスラエルの民は、荒野を旅したあいだ、聖なる歌をもって神をたたえた。主の戒めと約束を曲に合わせて、イスラエルの人々が長い荒野の旅をしながらうたったのである、また、カナンにおいては、聖なる祭りに彼らが集うごとに、神のくすしきみわざについて語り、そのみ名への感謝をささげた。神は、その民の全生活が賛美の生活であるようにお望みになった。こうして神の道は「あまねく地に知られ」、神の「救の力がもろもろの国民のうちに知られる」のであった(詩篇67:2)。 COL 1302.4

今も、このとおりでなければならない。世界の人々は偽りの神々を拝んでいる。彼らをそのような間違った礼拝から、引き離さなければならないが、それは偶像を非難することによってではなくて、それよりも更にすぐれたものを見せることによってでなければならない。神のいつくしみを人々に知らせなければならない。「『あなたがたはわが証人である』と主は言われる」(イザヤ43:12)。 COL 1302.5

主は、わたしたちが偉大なあがないの計画をよく理解し、神の子供たちとしての大いなる特権を認識し、感謝しつつ従順にそのみ前を歩むことを、望んでおられる。主はまた、わたしたちが毎日喜びつつ、新しい生命にあふれて主に仕えることを望んでおられる。小羊の命の書に名前を記された感謝と、またわたしたちのためにみ心をお痛めになる神に、わたしたちの心配事をおまかせすることのできる感謝とが、わたしたちの心のうちにわいてくるのを、神は望んでおられる。わたしたちは主の嗣業であり、キリストの義は聖徒の白衣であり、わたしたちには、救い主がまもなくおいでになるという祝福にみちた望みがある。それであるから主は、わたしたちに喜べとお命じになるのである。 COL 1302.6

真心から神をたたえることは、祈りと同様の義務である。罪におちいった人類への神の驚くべき愛を感謝するとともに、神の無限の富の中から、いっそう大きな祝福を受けることを待望していることを、わたし たちは世界と、そしてすべての住民たちに示さなければならない。わたしたちは今より以上に、もっと自分のとうとい体験を語る必要がある。聖霊が特別に注がれると、主にある喜びとその奉仕における能力とは、神の子らに対する神のいつくしみと驚くべきみわざをわたしたちが語ることによって、著しく増大するであろう。 COL 1302.7

こうしたことは、サタンの力を後退させる。それはつぶやきと不平の精神を取り去り、誘惑者を退却させる。それは地上の住民の品性を天の邸宅を継ぐにふさわしく涵養する。 COL 1303.1

こうした証しは人々に感化を及ぼす。魂をキリストにかち取るのに、これ以上有効な方法はない。 COL 1303.2

わたしたちは実質的な奉仕をして——み名の栄光を増すためにできるかぎりのことをして——神をたたえるべきである。神はその賜物をわたしたちに分け与えられるが、それはわたしたちも与え、こうして神のご品性を世に知らしめるためである。ユダヤの制度において、ささげ物は神の礼拝の重要な部分を占めていた。イスラエル人は、全収入の10分の1を聖所の奉仕にささげるように教えられていた。そのほかに彼らは、罪祭、任意のささげ物、感謝のささげ物などをたずさえてくることになっていた。これらは当時の福音の働きをささえる方法であった。神は昔の民に期待なさったと同じものを、わたしたちにも期待しておられる。魂の救済という大事業は、押し進めていかなければならない。神は、10分の1やその他のささげ物を、このみわざのためにお充てになった。神はこうして福音の働きを維持しようと意図しておられる。神は10分の1をご自分のものと主張なさるのであるから、いつでもそれは聖なる保留物とみなされ、み事業のために神の宝庫に納めなければならない。神はまた、任意のささげ物と感謝のささげものをお求めになる。このすべては、福音を地のはてにまで伝えるために用いられるものである。 COL 1303.3

神への奉仕には個人的な働きが含まれている。わたしたちは個人的に努力して、世の救いのために神と協力しなければならない。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」というキリストの言葉は、主に従う一人一人に語られている(マルコ16:15)。キリストのお与えになる命に入るように定められた者はみな、同胞の救いのために働くように定められたのである。彼らの心は、キリストの心と1つになって鼓動する。キリストが魂に対して感じておられるのと同じ渇望が、彼らのうちにもあらわされる。みわざにおいて、すべての者が同じ所を占めることはできないが、すべての者にはそれぞれ占めるべき所と働きがあるのである。 COL 1303.4

昔アブラハムもイサクもヤコブも、柔和で知恵深かったモーセも、種々の才能に恵まれていたヨシュアも、みな神の奉仕に参加した。ミリアムの音楽も、デボラの勇気と敬神の心も、ルツの嫁としての情愛も、サムエルの従順と誠実も、エリヤの確固とした忠誠も、エリシャの穏やかな感化力も、そのすべてが必要であった。このように今でも、神の祝福を受けた者はみな、実際的な奉仕によってこたえなければならない。あらゆる才能を、み国の発展とみ名の栄光のために用いなければならない。 COL 1303.5

キリストを個人的な救い主として受け入れる者はみな、福音の真理とその救いの力の立証をしなければならない。神がお命じになることは、必ずそれをなしとげることができるように備えがされているのである。神の要求なさることは、キリストの恵みによってことごとくなしとげることができる。天の富が全部、神の民を通してあらわされるべきである。「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」とキリストは言っておられる(ヨハネ15:8)。 COL 1303.6

神は、全地がご自分のぶどう園であると主張なさる。たとえ今は横領者サタンの手の中にあるとはいっても、これは神の所有である。創造によると同時に贖罪によっても、これは神のものである。キリストの犠牲は世界のためになしとげられた。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)。この賜物が1つ与えられたことによって、ほかのすべての賜物が人々に与えられるのであ る。全世界は、日ごとに神の祝福を受けている。恩を忘れた人類にそそがれるひとしずくの雨、ひとすじの日光、また1枚の葉、1つの花、1つの実など、その1つ1つは神の寛容とその偉大なる愛を証ししている。 COL 1303.7

ところで、この偉大な賦与者にどんな返礼をしているだろうか。人々は神のご要求をどう扱っているだろうか。人類の大多数は、一体何に奉仕をささげているだろうか。彼らは実に、富に仕えているのである。この世における財貨と地位と快楽が彼らの目標である。彼らは人からだけでなく、神からも奪うことによってその財貨を得ている。人々は利己心を満足させるために、神の賜物を用いている。彼らの握ることのできるものはことごとく、そのどん欲と利己的な快楽を求めることのために充てられている。 COL 1304.1

今日の世界の罪は、イスラエルに滅亡を招いた罪と同じものである。神への忘恩、機会と恩恵をなおざりにすること、神の賜物を独り占めにすること——これらがイスラエルに怒りを招いた罪のもとであった。それはまた、今日の世界にも滅びをもたらしつつあるのである。 COL 1304.2

キリストが、オリブ山から神に選ばれた都をながめながら流された涙は、ひとりエルサレムのための涙ではなかった。エルサレムの運命の中に、主は世界の滅亡を見ておられた。 COL 1304.3

「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカ19:42)。 COL 1304.4

「この日に」——その日は今、暮れようとしている。憐れみと特権の期間は、もうほとんど残っていない。報復の雲はたちこめてきている。神の恵みをこばんだ者たちは、急速な滅亡、とりかえしのつかない滅亡に、まさに巻き込まれようとしている。 COL 1304.5

だが世界は眠っている。人々は自分たちの審判の時を知らない。 COL 1304.6

この危急の時に、教会はどういう態度をとっているだろうか。教会員は神のご要求に応じているだろうか。またその任務をまっとうし、世に神のご品性をあらわしているだろうか。彼らは最後の憐れみの警告に同胞の注意を促しているだろうか。 COL 1304.7

人類は危険にさらされている。大衆は滅びようとしている。だがキリスト教徒といわれている人々の間で、これらの魂に重荷を感じている者はなんと少ないことだろう。世界の運命が決定しようとしているのに、これまでに人類に与えられた最も遠大な真理を信ずると主張する者たちでさえ、この事実にほとんど心を動かされていない。キリストが天の家郷を去り、人性をもって人性に接触し、人性を神性に引きつけるために、みずから人間の性質をおとりになったあの愛が、彼らに欠けている。神の民は無感覚のまひ状態におちいって、今何をすべきかに気づかないのである。 COL 1304.8

イスラエルはカナンに入った時、全地を占領して神のみ旨をはたすべきであったが、そうしなかった。彼らは一部の領土を征服すると、ただ勝利を治めたところに落ちついてしまった。彼らはその不信仰と安逸を求める心とから、すでに征服した所にかたまってしまい、新しい地域の占領に向かって前進しようとしなかった。こうして彼らは神から離れはじめた。神のみ旨をはたさなかった彼らは、神が祝福に満ちた約束を果たすことができないようにした。今日の教会も同じことをしていないだろうか。福音を必要とする全世界を目の前にしながら、キリストを言い表す者たちは、福音の特権をたのしむことができるところにかたまっている。彼らは新しい地域に乗り出して、救いのおとずれを遠隔の地方に伝える必要を感じていない。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」というキリストの任命を彼らははたそうとしていない(マルコ16:15)。ユダヤの教会と比較して、彼らの罪は軽いと言えるだろうか。 COL 1304.9

キリストに従う者であると公言する者たちは宇宙の前でさばかれている。ところが、彼らの神に対する奉仕が不熱心で努力が足りないために、彼らは不忠実のそしりをまぬかれることはできない。もし彼らのしていることが全力を尽くしているのであれば、彼らは非難を受けないであろう。だが、神の働きに心を こめてするなら、彼らはさらに多くのことをなしうるはずである。彼らが自己否定と十字架を負う精神を大部分失っていることは、彼ら自身も知っていれば世も知っている。天の記録に、生産者ではなく消費者としてその名前が書きこまれる者が大勢いる。キリストのみ名をかかげる多くの者によって、キリストの栄光は曇らされ、その美はおおわれ、その誉れははばまれている。 COL 1304.10

名前は教会の名簿に載っていても、実際にキリストの統治の下にいない者が多い。彼らは主の教えをかえりみず、主の働きを行っていない。従って彼らは敵サタンの支配下にいる。彼らは積極的な善をしない。したがって彼らは、はなはだしい害を及ぼしている。なぜなら、彼らの感化は生命から生命に至る香りでなく、死から死に至る香りだからである。 COL 1305.1

「わたしはこれらの事のために彼らを罰しないでいられようか」と主は言われる(エレミヤ5:9)。神のみ旨を果たさなかったために、イスラエルの子らは退けられて、神の招きはほかの国々の人々にさしのべられた。だが、もし彼らも不忠実であれば、同じように拒まれるのではなかろうか。 COL 1305.2

ぶどう園のたとえの中で、キリストが罪を宣告なさったのは農夫たちであった。土地から生じた産物を、主人に返そうとしなかったのは彼らであった。ユダヤ民族の場合、民を誤り導いて、神が求めておられる奉仕を神にささげないようにしたのは、祭司と教師であった。民族をキリストから離れさせたのは彼らであった。 COL 1305.3

キリストは人間の言い伝えの混じらない神の律法を、従順の大標準としてお示しになった。ラビたちはこのことによって敵意をいだいた。彼らは人間の教えを神のみ言葉以上のものとして、民を神の戒めから遠ざけていた。彼らは、神のみ言葉の要求に従うために、人の作った戒律を捨てようとはあえてしなかった。彼らは、真理のために、理性の誇りと人の賞賛とを犠牲にしようとはしなかった。キリストが来て、神の要求を民族に示された時に、祭司や長老たちは、彼らと民の間に介入なさるキリストの権利を認めなかった。彼らはキリストの譴責と警告を受け入れようとはせず、かえって民をキリストに逆らわせ、キリストをなきものにしようとはかった。 COL 1305.4

キリストを拒んだことと、それによって生じた結果に対する責任は彼らにあった。1つの民族が罪を犯し、滅びていった原因は、その宗教指導者たちにあった。 COL 1305.5

わたしたちの時代にも、これと同じ勢力が働いていないだろうか。現在、主のぶどう園で働く農夫たちのうちに、ユダヤの指導者の二の舞を踏んでいる者が多いのではないだろうか。宗教指導者たちは、神のみ言葉の明白な要求から人々を引き離してはいないだろうか。彼らは人々に神の律法への従順を教えるのではなく、罪を犯すことを教えているのではないだろうか。人々は、多くの教会の講壇から、神の律法は拘束力を持たないものであると教えられている。人間の言い伝えや儀式や慣習が称揚されている。神の賜物を与えられたことに対しては、誇りと自己満足の気持ちがいだかれている一方、神の要求は無視されている。 COL 1305.6

人々は、神の律法を拒むということがどういうことなのかを理解していない。神の律法はそのご品性の写しである。それはみ国の原則を具体化したものである。この原則を拒んで受け入れない者は、神の祝福を受けることができないようになってしまう。 COL 1305.7

イスラエルの前途にあった輝かしい将来は、神の戒めに従うことによってはじめて、実現されうるものであった。同じように品性が向上し、同じ祝福にあふれて、——精神と魂と身体の祝福、家と畑の祝福、現世と来世の祝福に満ちあふれること——は、従順によってのみわたしたちに可能となるのである。 COL 1305.8

自然界におけると同じく霊的な世界においても、神の法則への従順が、実を結ぶための条件である。そして神の戒めを無視することを人に教えるなら、それは神の栄光のために実を結ぶのを妨げることである。そのように教える者は、主のぶどう園の収穫を主に返さない罪を問われるのである。 COL 1305.9

神の使者たちは、主の命令を受けて、わたしたちの所にやって来る。彼らは来て、キリストが求められた と同様に、神のみ言葉に従うことを求める。彼らはぶどう園の収穫——愛と謙遜と自己犠牲的奉仕の実——を求める権利が主にあることを教える。これを聞いて、ぶどう園の農夫たちの多くは、ユダヤの指導者たちと同じように怒りをいだくのではないだろうか。神の律法の要求が民の前に置かれる時、これらの教師たちは、自分の影響下にある人々に、神の律法を拒むようにさせるのではないだろうか。そうした教師を神は不忠実な僕と呼ばれるのである。 COL 1305.10

古代イスラエルに対して言われた神の言葉は、今日の教会とその指導者たちに対する厳粛な警告である。イスラエルについて主は言われた、「わたしは彼のために、あまたの律法を書きしるしたが、これはかえって怪しい物のように思われた」(ホセア8:12)。また祭司や教師に主は言われた、「わたしの民は知識がないために滅ぼされる。あなたは知識を捨てたゆえに、わたしもあなたを捨てる……。あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる」(ホセア4:6)。 COL 1306.1

神の警告に、なんの注意をも払わずに見すごしてよいであろうか。奉仕の機会を活用しないでいてよいであろうか。世のあざけり、理性の誇り、人間の慣習や言い伝えの尊重などのために、キリストの弟子と公言する者が、キリストに対する奉仕をしないでいてよいであろうか。キリストの弟子であると公言する者は、ちょうどユダヤの指導者たちがキリストを拒んだように、神のみ言葉を拒むのであろうか。イスラエルの罪の結果は、わたしたちの前に明らかにされている。今日の教会は警告に従うであろうか。 COL 1306.2

「もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたは……誇ってはならない……。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう」(ローマ11:17~21)。 COL 1306.3