キリストの実物教訓
ユダヤ民族
2人の息子のたとえに引き続いて、ぶどう園のたとえが語られた。キリストは前のたとえで、従順がいかに重要であるかということをユダヤの教師たちにお教えになった。そして、後のたとえでイスラエルに与えられた豊かな祝福をさし示し、それによって、神にはイスラエルに従順をお求めになる権利のあることを明らかにされた。主は、輝かしい神のみ旨を示されたが、それは彼らが従順であれば成就したはずのものであった。主は未来のベールを取り去り、ユダヤ民族が神のみ旨を果たさなかったために、主の祝福を失い、自らの上に滅亡を招いていることをお示しになった。 COL 1296.2
「ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」とキリストは言われた。 COL 1296.3
このぶどう園の描写は、預言者イザヤによっても与えられている、「わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、1つのぶどう畑をもっていた。彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ」(イザヤ5:1、2)。 COL 1296.4
農夫は荒野の中から土地の一画を選び、それにかきをめぐらし、それを開き、耕し、そこに特に選び出したぶどうを植えて、豊かな収穫を期待する。未開の荒地よりはすぐれたこの土地が、その栽培に要した労苦の実を結ぶことを農夫は待望する。そのように神は世から1つの民を選び、これをキリストによって教育し薫陶された。預言者は「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である」と言っている(イザヤ5:7)。神はこの民に大きな特権を与え、ご自分に満ち満ちている富によって彼らを豊かに祝福された。神は彼らが実を結ぶことを期待された。彼らはみ国の精神をあらわすべきであった。堕落した邪悪な世界のただ中にあって、彼らは神のこ品性をあらわすべきであった。 COL 1296.5
彼らは主のぶどう園として、異教民族とはまったく違った実を結ばなければならなかった。これら偶像礼拝の諸国民は、ただ悪ばかりに走っていた。彼らは暴虐、犯罪、強欲、圧制を行って、はかり知れぬ堕落のどん底に沈んでいた。腐食した木の結ぶ実は、非道、退廃、悲惨であった。神のお植えになうぶどうの木になる実は、これとはまったく違ったものでなければならなかった。 COL 1296.6
神がモーセに教えられたような神のご品性をあらわすことは、ユダヤ民族の特権であった。「どうぞあなたの栄光をわたしにお示しください」というモーセの祈りに答えて、主は「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ……るであろう」と約束なさった(出エジプト33:18、19)。「主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者』」(出エジプト34:6、7)。これこそ神がその民に望まれた実であった。彼らは純潔な品性と、清い生活と、恵みといっくしみとあわれみとで、「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせる」ことを示さなければならなかった(詩篇19:7)。 COL 1296.7
ユダヤ民族を通して、豊かな祝福を全人類に与えることが神のみ旨であった。イスラエルを通して、神の光を令世界に輝かせる道が備えられなければならなかった。世界の諸国は、堕落した習慣におちいることによって神の知識を失っていた。しかし、憐れみある神は彼らを滅ぼしたりなさらなかった。神は、教会を通して、神を知る機会を彼らに与えようと意図なさった。神は、神の民を通してあらわされろ原則が、 人間の中に神の道徳的なみかたちを回復する手段となるように計画された。 COL 1296.8
神が偶像礼拝をしていた親族のうちからアブラハムを呼び出してカナンの地に住むようにお命じになったのは、このみ旨を果たすためであった。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」と神は言われた(創世記12:2)。 COL 1297.1
アブラハムの子孫のヤコブとその子らはエジプトに移されたが、それは彼らがこのよこしまな大国の中にあって、神のみ国の原則をあらわすためであった。ヨセブの高潔さと、全エジプト国民の生命を救ったあの驚くべき働きは、キリストの生涯を代表したものであった。モーセをはじめ、その他多くの人々は、神を証しする証人であった。 COL 1297.2
主は、イスラエルをエジプトから導き出して、再び主の力と憐れみをお示しになった。奴隷の境遇からイスラエルの人々を解放するという驚くべきみわざと、彼らを荒野の旅路の間お導きになったこととは、ただ単に彼らのためばかりではなかった。それはまた周囲の諸国に対して、実物教訓となるためであった。主は人間のあらゆる権威と偉大さをしのぐお方として、ご自分をあらわされた。神の民のために神が行われたしるしと不思議とは、自然を超越した神の力を示し、いかに偉大な自然崇拝者をも越えた神の力を示した。神は終わりの時代に地上をお通りになるのであるが、それと同じように、高慢なエジプトの地を過ぎゆかれた。この偉大な「わたしは有る」といりお方は、火と嵐と地震と死のうちに神の民をあがなわれた。神は彼らを奴隷の地から連れ出された。神は、「あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地」の旅を導かれた(申命記8:15)。神は「堅い岩」から水を出し、「天の穀物」で彼らを養われた(詩篇78:24)。「主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった」とモーセは言った(申命記32:9~12)。こうして神は、いと高き者の陰に宿らせるために、彼らをみもとに引き寄せられたのである。 COL 1297.3
キリストは、荒野をさすらうイスラエルの子らの導き手であった。昼は雲の柱、夜は火の柱によって、主は彼らを導かれた。主は彼らを荒野の危険から守って約束の地に導き入れ、神を認めない万国の民の見守るうちに、自ら選んだご自分の所有として、また主のぶどう園としてイスラエルの国の基をおすえになった。 COL 1297.4
この民に神の託宣がゆだねられた。彼らは、真理と正義と純潔という永遠の原則、すなわち、神の律法によって周りを囲まれていた。これらの諸原則に従順であれば、彼らは守られるのであった。従順でさえあれば、罪の習慣によって自らを滅ぼすことがないからである。そして、国のまん中には、ちょうどぶどう園のやぐらのように、聖なる神殿が置かれていた。 COL 1297.5
キリストが彼らの指導者であった。キリストは、荒野で彼らと共におられたように、今もなお、彼らを教え導くお方であった。幕屋と神殿において、キリストの栄光は贖罪所の上の聖なるシェキナ(光雲)となって宿っていた。主は彼らのために、豊かな愛と忍耐をたえず現しておられた。 COL 1297.6
神は、その民イスラエルを、ほまれとし、栄光としようと望まれた。あらゆる霊的な便宜が彼らに与えられた。彼らが神の代表者にふさわしい品性を形成するために役立つものは何であっても、差し控えることなく神から与えられていた。 COL 1297.7
神の律法に従順であることは、世界の諸国の前で彼らに驚嘆すべき繁栄を得させるものであった。すべての巧みなわざをなす知恵と技量を与えることのできる神は、いつまでも彼らの教師となり、神の律法に対する従順を通して彼らを高められるのであった。彼らは、もし従順であれば、他の諸国を襲った疾病から守られ、豊かな知性に恵まれるのであった。神 の栄光と尊厳と大能は、彼らの繁栄の中にあらわされ、彼らは祭司と王の国となるのであった。神は彼らを、地上最大の国家とするためのあらゆる必要なものを提供しておられた。 COL 1297.8
キリストはモーセを通して、非常に明確に神のみ旨を示し、どうすれば彼らが繁栄するか、その条件を明らかにしておられた。彼は言われた、「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた……。それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及ば……れることを……。それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行なわなければならない。あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行なうならば、あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう。あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、羊の子を増されるであろう。あなたは万民にまさって祝福されるであろう……。主はまたすべての病をあなたから取り去り、あなたの知っている、あのエジプトの悪疫にかからせない……であろう」(申命記7:6、9、11~15)。 COL 1298.1
もし神の戒めを守るなら彼らに最上の穀物を得させ、彼らのために岩から蜜を出そうと神は約束された。また長寿をもって満ち足らせ、ご自分の救いを示そうと約束された。 COL 1298.2
アダムとエバは神への不従順によってエデンを失い、全地は罪のためにのろわれた。だが、もし神の民が神の教えに従うなら、その土地は豊饒と美を回復するのであった。神は、自ら土地の耕作についての教えを、彼らにお与えになった。だから、彼らは回復のために神と協力しなければならなかった。こうして神の支配下にあって、全地が霊的真理の実物教訓となるのであった。神の自然の法則に従うことによって、地がその宝をうみ出すように、神の道徳律に従うことによって、民の心は神のご品性を反映できるのであった。異邦人も、生ける神に仕えて、これを拝する者たちの優越を認めることであろう。 COL 1298.3
モーセは言った、「わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。あなたがたは、これを守って行わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられろ。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか」(申命記4:5~8)。 COL 1298.4
イスラエルの子らは、神が彼らのために定められた地域を、ことごとく占有することになっていた。真の神への礼拝と奉仕を拒む諸民族は、立ちのかされるのであった。しかし、イスラエルが神のご品性をあらわすことによって、人々が神に引きつけられることが神のみ旨であった。全世界に、福音の招きが与えられなければならなかった犠牲制度の教えを通して、キリストは諸国民の前に掲げられ、それを見あげる者はすべて生きることができるのであった。カナン人ラハブやモアブ人ルツのように、偶像礼拝から真の神の礼拝へ立ち帰った者はみな、神の選民に加えられるのであった。イスラエルは人数が増えるにしたがってその境界をひろげ、彼らの国は全世界を包含するに至るはずであった。 COL 1298.5
神は万国の民を、ご自分の憐れみある統治下に引き寄せたいと望まれた。神は地球を、喜びと平和でみたしたいとお望みになった。神が人をお造りになったのは、人を幸福にするためであった。そして、人の心を天の平和でみたしたいと願っておられる。神 は地上の家族が天の一大家族の象徴となるように望んでおられる。 COL 1298.6
しかし、イスラエルは神のみ旨を成就しなかった。「わたしはあなたを、まったく良い種のすぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか」と主は言明なさった(エレミヤ2:21)。「イスラエルはむなしいぶどうの木であって、自分自身のために実を結ぶ」(ホセア10:1英語欽定訳)。「それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない……。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び」(イザヤ5:3~7)。 COL 1299.1
主はモーセを通して、不従順であればその結果がどんなものかをその民に示しておられた。彼らは、もし契約を守ろうとしないなら、自分自身を神の生命から遮断することになり、神の祝福はもはや彼らに臨むことができない。モーセはこう言った、「あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう……。あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない……。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、——わたしはきょう、あなたがたに警告する。——あなたがたはきっと滅びるであろう。主があなたがたの前から滅ぼし去られる国々の民のように、あなたがたも滅びるであろう。あなたがたの神、主の声に従わないからである」(申命記8:11~14、17、19、20)。 COL 1299.2
ユダヤ人は、この警告をかえりみなかった。彼らは神を忘れ、神の代表者としての特権を見失った。彼らがどんなに祝福されても、それは世界になんの祝福ともならなかった。彼らの特権はことごとく、自分たちの名誉を高めることに当てられた。彼らは神の要求なさる奉仕をおこたり、同胞に宗教上の指導と聖なる模範をたれることをしなかった。彼らは洪水前の世界の民と同じく、その邪悪な心が考え出すままに行動していた。こうして彼らは「これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ」と言いながら、聖なる事柄を世俗的なものと化すとともに、神の品性を誤ってあらわし、聖なる神のみ名を傷つけ、聖所を汚していた(エレミヤ7:4)。 COL 1299.3
主のぶどう園を託された農夫は、その信任に不忠実であった。祭司や教師は民を忠実に教えなかった。彼らは神のいつくしみと憐れみを人々の前にかかげず、神に対して彼らの愛と奉仕をささげなければならないことを示さなかった。これらの農夫は自分の名誉を求めた。彼らは、ぶどう園からとれる実を専有したいと望んだ。彼らは、人々の注目と尊敬を自分に集めようとばかり気をつかった。 COL 1299.4
これらイスラエル指導者の罪は、普通の人の場合の罪と同じではない。彼らは神に対して最も厳粛な義務を果たさなければならなかった。彼らは「主はこう言われる」というその事がらを教え、全き従順を日常生活において実践することを誓っていた。ところが彼らはそれを守らずかえって聖書を誤用した。彼らは人々に重荷を負わせ、生活のあらゆる面にまで儀式を強いた。人々は、ラビの規定した要求を満たすことができずに、絶えず不安な気持ちをもって生活していた。彼らは人の作った戒めが守れないものであることを知って、神の戒めをも捨ててしまった。 COL 1299.5
神がぶどう園の領主であり、民の所有物は、みな神のために用いるように委託されたものであることを、主は人々にお教えになった。しかし祭司や教師はそ の神聖な職務を、神の財産を扱う態度で遂行しなかった。彼らは、みわざの前進のためにゆだねられた資力や便益を、常習的に盗んでいた。彼らは、どん欲のために異邦人からさえ軽べつされるほどであった。こうして、異教の世界は、神の品性とみ国の律法を誤解するようになってしまった。 COL 1299.6
神は父親のような心で、人々を耐え忍ばれた。神は、時に憐れみを与え、また時には憐れみを取り去って、彼らに訴えられた。神はたゆまず彼らの罪を彼らに示し、しんぼう強く彼らがそれを認めるのを待ち続けられた。預言者たちや使いの者たちが送られて、農夫に対する神のご要求を力説した。しかし彼らは歓迎されるどころか、敵のように扱われた。農夫たちは彼らを迫害して殺した。神はまたほかの使者をつかわされたが、彼らもはじめの使者たちと同じ扱いを受け、農夫たちは前にもまして激しい憎悪をあらわした。 COL 1300.1
神は最後の手段として、「わたしの子は敬ってくれるだろう」と思って、ご自分のみ子をつかわされた。しかし反抗のために執念深くなった彼らは、「あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう」、そうすればぶどう園はわたしたちの手に入り、その実は自分勝手にすることができるのだと語りあった。 COL 1300.2
ユダヤのつかさたちは、神を愛していなかった。だから、彼らは神から離れ、正しい解決をお求めになった神の申しいれを、拒絶したのであった。神の愛する子キリストがぶどう園の領主の権利を擁護するためにこられたが、農夫たちは、わたしたちはこの人に治められるのを好まないと言って、彼を侮辱した態度をとった。彼らはキリストの品性の美しさをしっとした。キリストの教え方は彼らよりはるかにすぐれていて、彼らはその成功を恐れた。主は彼らの偽善をあばき、その行為の結果を示して、彼らに抗議なさった。このことが彼らを狂気のようにした。彼らは、否定することのできないその非難の言葉に激怒した。彼らは、キリストがいつも示される義の高い水準を憎んだ。彼らは、その教えが自分たちの利己心をあばくものであることを知り、彼を殺そうと決意した。彼らは主の示される誠実と敬虔の模範と、そしてそのあらゆる行為にあらわれる高い霊性を憎悪した。主の生活は、すべてが彼らの利己心を譴責するものであった。そして最後の試み、すなわち永遠の生命に至る従順か、永遠の死に至る不従順かを決定する試みが来た時、彼らはイスラエルの聖者を拒絶してしまった。彼らはキリストかバラバかそのどちらを選ぶかと聞かれた時、「バラバをゆるしてくれ」と叫んだ(ルカ23:18)。そしてピラトが「それでは……イエスはどうしたらよいか」と問うたとき、彼らは「十字架につけよ」とはげしく叫んだ(マタイ27:22)。ピラトが「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司やつかさは、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」と答えた(ヨハネ19:15)。ピラトが手を洗って、「この人の血について、わたしには責任がない」と言うと、祭司たちは無知な群集と共に、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と断言した(マタイ27:24、25)。 COL 1300.3
こうしてユダヤの指導者たちは、ついにこのような道を選んだ。彼らの決定は、いかなる人も開くことのできない書にしるされた。ヨハネはこの書が、み座にいます方の手にあるのを見た。この決断は、ユダ族の士師によってこの書が開封される日に、彼らの前に明らかにされ、彼らはその報復を受けるのである。 COL 1300.4
ユダヤ民族は、自分たちは天の寵愛を受けており、神の教会としていつどんな時でも称揚されることができると考えていた。彼らは、自分たちはアブラハムの子だと言明していた。そして彼らの目には、その繁栄の基礎はゆるぎのないものに映じ、その権利を奪えるなら奪ってみよと、天地に公言してはばからなかった。しかし彼らは、その不忠実な生活を送ることによって、自らに罪の宣言を下し、神から切りはなされるために道を開いたのであった。 COL 1300.5
ぶどう園のたとえの中で、祭司たちの前にその最後の悪行を描き出したあと、キリストは彼らにこう問われた、「このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」祭司たちは興味深くこ の話の筋をたどってきたが、彼らはこのたとえのテーマと自分たちとの関係を何も考えずに、人々と一緒になって、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」と答えた。 COL 1300.6
彼らはそれと知らずに、われとわが身に宣告をくだしたのだった。イエスは彼らを見つめられた。鋭い凝視を受けた彼らは、心の秘密が読みとられたことを悟った。イエスの神性が、誤解の余地のない力をもって、彼らの前にきらめいた。彼らはこの農夫たちというのは、自分たちのことをさしているのを悟ったが、とっさに「そんなことはない」と、それを打ち消した。 COL 1301.1
イエスは厳粛に悲しげに尋ねられた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう。」 COL 1301.2
もしユダヤ人がキリストを受け入れたとすれば、キリストはユダヤの国を滅びから救おうと望んでおられたのである。だが、ねたみとしっとのために彼らの心は執念深くなっていた。彼らは、ナザレのイエスをメシヤとして受け入れないことに心を定めてしまった。彼らは世の光をしりぞけ、それ以来、彼らの生活は暗夜のような暗黒に閉ざされた。 COL 1301.3
予言されていた運命が彼らを襲った。滅亡は、はげしい欲情のままに放縦な生活におちいった、彼ら自身の招いたものであった。彼らは怒り狂って、たがいに殺しあった、彼らの頑固さと反逆的な高慢さが、ローマの征服者たちの怒りを招いた。エルサレムは滅ぼされ、神殿は廃虚と化し、その跡は畑のように掘り返された。ユダヤ人はせいさんな死をとげた。幾百万の人々が奴隷に売られ、異邦諸国で働く身になった。 COL 1301.4
ユダヤ人は民族として、神のみ旨をはたすことができなかった。そしてぶどう園は彼らから取り去られた。彼らが乱用した特権、彼らが軽んじた務めは他の者たちにゆだねられた。 COL 1301.5