各時代の希望

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第32章 百卒長

本章はマタイ8:5~13、ルカ7:1~17に基づく DA 830.1

キリストは、息子の病気をなおしておやりになったある役人に「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」と言われた(ヨハネ4:48)。キリストは、ご自分の国民が、キリストにこのようなメシヤとしての外面的なしるしを要求することを悲しまれた。キリストはこれまで何度も彼らの不信に驚かれた。しかし主は、みもとにやってきた百卒長の信仰に驚かれた。この百卒長は救い主の力を疑わなかった。彼は、奇跡を行うためにキリストに自らきていただきたいと願うことさえしなかった。「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と彼は言った(マタイ8:8)。 DA 830.2

百卒長のしもべは中風にかかって、ほとんど死ぬばかりであった。ローマ人の間では、しもべは市場で売り買いされる奴隷で、残酷なとり扱いを受けていた。だがこの百卒長は自分のしもべにやさしい愛情をそそぎ、彼の回復を心から望んでいた。百卒長は、イエスならしもべの病気をなおして下さることができると信じた。彼はイエスにお会いしたことはなかったが、そのうわさを聞いて信仰がわき起こった。ユダヤ人の形式主義にもかかわらず、このローマ人は、ユダヤ人の宗教が自分の宗教よりもまさっていることを確信していた。すでに彼は征服者と征服された民とをへだてている国民的な偏見と憎悪の壁をうち破っていた。彼は神の奉仕に対する尊敬心を表明し、神の礼拝者としてのユダヤ人に親切心を示していた。キリストの教えについてうわさを聞いた時、彼はその中に魂の必要に答えるものをみいだした。彼のうちにあるすべての霊的なものが救い主のみ言葉に応じた。しかし彼は、自分はイエスの前に出る価値がないと感じたので、しもべの病気をいやしていただくようにイエスにお願いしてもらいたいとユダヤ人の長老たちに訴えた。彼らなら大教師イエスの知り合いだから、イエスにお願いするために近づく方法を知っているだろうと、彼は思った。 DA 830.3

イエスがカペナウムにはいってこられると、長老たちからつかわされた代表者たちが、イエスにお会いして、百卒長の希望を伝えた。彼らは、「あの人はそうしていただくねうちがございます。わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」と力説した(ルカ7:4、5)。 DA 830.4

イエスはすぐにこの将校の家へお出かけになった。だが群衆におされて、イエスは、ゆっくり進むことしかおできにならなかった。イエスがおいでになるというしらせは、イエスよりも先に伝わって行った。百卒長は、自信がないままに、伝言をもって、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」と言わせた(ルカ7:6)、しかし救い主がなおも道を進んでこられたので、ついに百卒長は、思いきってイエスに近づき、さきの伝言をむすんでこう言った。「それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです」。「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」(ルカ7:7、マタイ8:8、9)。わたしがローマの権力を代表し、兵士たちが私の権威を最高のものとして認めているように、あなたは無限なる神の権力を代表しておられ、つくられたものはすべてあなたのみことばに従っています、あなたが病気に去れとお命じになれば病気はあなたの仰せに従います。あなたが天の使者たちをお呼びになれば、彼らはいやしの力をさずけます。ただみことばを語ってくだされば、それでわたしのしもべはいえるのです。 DA 830.5

「イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、『あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない』」「それからイエスは百卒長に『行 け、あなたの信じたとおりになるように』と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた」(ルカ7:9、マタイ8:13)。 DA 830.6

百卒長をキリストに推薦したユダヤ人の長者たちは、彼らが福音の精神をまったく持ち合わせていないことをあらわしていた。われわれの大きな必要こそ神の憐れみを求める唯一の資格であるということを、彼らは認めなかった。自分を義とする彼らは、百卒長が「わが国民」に好意を示したからといって、彼を推薦した。しかし百卒長は自分のことを「資格は、わたしにはございません」と言った(マタイ8:8)。彼の心はキリストの恵みに動かされていた。彼は自分自身の無価値を認めたが、それでも助けを求めることを恐れなかった。彼は自分自身の善をたのみにしなかった。彼の論拠は、彼の大きな必要であった。彼は、信仰によって、キリストの真の性格をとらえた。彼はキリストをただ奇跡を行われるお方としてではなく、人類の友人また救い主として信じた。 DA 831.1

このように罪人は、だれでもキリストのみもとにくることができる。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神の憐れみによって、再生の洗いを受け」る(テトス3:5)。サタンが、あなたは罪人だから神の祝福を受けることを望むことはできないと言ったら、キリストは罪人を救うためにこの世においでになったのだと彼に言いなさい。われわれは、自分自身を神に推薦するようなものを何も持っていない。われわれがいつでも訴えることのできる懇願は、われわれがまったく無力な状態にあるので、神の救いの力が必要なのだということである。自己にたよる思いをまったく放棄して、われわれは、カルバリーの十字架を見上げて、こう言うのである。 DA 831.2

「わたしは何も価値のあるものを手に持ってきていません。 DA 831.3

ただあなたの十字架にすがるのみです。」 DA 831.4

ユダヤ人は、子供の時分からメシヤの働きについて教えられていた。父祖と預言者たちが霊感を受けて語ったことばと犠牲制度の象徴的な教えは、彼らのものであった。しかし彼らは、その光を無視してきた。そしていま彼らは、イエスのうちに望ましいものを何一つ見なかった。ところが異教の中に生れ、ローマ帝国の偶像礼拝の中で教育をうけ、軍人として訓練され、教育と環境とによって霊的な生活から切り離されているようにみえ、さらにまたユダヤ人の頑迷さと、またイスラエル民族に対するローマ人の軽蔑心のゆえに霊的な生活からしめ出されているようにみえた百卒長一この人が、アブラハムの子らが盲目になっていた真理を認めたのだった。彼は、ユダヤ人のメシヤであると主張しておられるお方を、ユダヤ人自身が受け入れるかどうかを見るために待っていようとはしなかった。「すべての人を照すまことの光」が彼の上に照り輝いた時、彼は、遠くからではあったが、神のみ子の栄光を認めた(ヨハネ1:9)。 DA 831.5

イエスにとって、これは福音によって異邦人の中になしとげられる働きの前兆であった。イエスは万国から魂が神のみ国に集められるのを、喜びのうちに期待された。主は、ユダヤ人が神の恵みをこばんだ結果を、深い悲しみをもって、彼らにこうえがいておられる。「なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(マタイ8:11、12)。ああ、どんなに多くの人々がこれと同じ致命的な絶望に向かって進んでいることだろう。異教の暗黒のうちにある魂が、神の恵みを受け入れる一方では、キリスト教国において、光を受けながらこれを無視する者がどんなに多いことだろう。 DA 831.6

カペナウムから20マイル(約32キロ)以上離れたあたりの、広い美しいエズレルの平原を見渡す台地にナインという村があった。イエスは次にそこへ足を向けられた。弟子たちの多くとそのほかの人々が、イエスといっしょだったが、道中いたるところから、人々がイエスの愛と憐れみのことばを求め、いやしてもらうために病人をつれてやってきた。彼らはまたこのよ うにふしぎな力を発揮されるイエスが、イスラエルの王として名乗りをあげられるのを、いつも待ち望んていた。群衆はイエスの足あとにむらがり、喜びと期待に満ちた群衆が、この山村の門へ向かって岩だらけの道をイエスについて行った。 DA 831.7

彼らが近づくと、葬式の行列が門から出てくるのかみられる。ゆっくりと悲しい足どりで、行列は埋葬場へ進んで行く。行列の先頭を行く屋根のない棺台の上には死体がのせられ、そのまわりには会葬者たちがいて、彼らの泣きわめく声が大気を満たしている町中の人たちが集まって死人への哀悼と、遺族への同情を表している様子である。 DA 832.1

それは同情をそそる光景だった。死人は母親の1人息子で、その母親は寡婦だった。この1人ぽっちの喪主はこの世のただ1人の支えであり慰めであった息子のあとを墓場までついて行くところだった。「主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ」た(ルカ7:13)。母親が何も目にはいらないで、イエスのおられることにも気がつかず泣きながら進んで行くと、イエスは、彼女のそば近くにこられて、「泣かないでいなさい」とやさしく言われた。イエスは彼女の悲しみをよろこびに変えようとしておられたが、それでもこのようなやさしい同情のことばをかけないではいられなかった。 DA 832.2

イエスは「近寄って棺に手をかけられ」た(ルカ7:14)。イエスにとっては死人にふれることさえけがれとならなかった。棺をかついでいた人たちが立ちどまり、会葬者たちの泣き声がやんだ。両方の群れは望みのないことを望みながら棺台のまわりに集まった。病気を追い出し、悪鬼を征服されたお方が目の前におられるのである。死もまた彼の力に屈服するであろうか。 DA 832.3

権威のあるはっきりした声で、みことばが語られる「さあ、起きなさい」(ルカ7:14)。その声は死人の耳をつらぬく。若者は目をあける。イエスは彼の手をとって起こしておやりになる。若者は自分のそばで泣いていた母親をみつめる。母親と息子は、喜びのあまりしっかりと抱き合っていつまでも離れない。群衆は魔法にでもかけられたように無言のうちにながめている。「人々はみな恐れをいだ」いた(ルカ7:16)。しばらくの間、彼らは、神の前にいるかのように、だまってうやうやしく立っている。それから彼らは「『大預言者がわたしたちの間に現れた』、また、『神はその民を顧みてくださった』と言って、神をほめたたえた」(ルカ7:16)。葬式の行列は、凱旋の行列となって、ナインへもどった。「イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった」(ルカ7:17)。 DA 832.4

ナインの門で、悲しむ母親のそばにお立ちになったイエスは、棺のかたわらで泣き悲しんでいる一人一人を見守っておられる。イエスの心はわれわれの悲しみへの同情で動かされる。愛し、憐れまれたイエスの心は、変ることのないやさしい心である。死人を生きかえらせたイエスのみことばは、それがナインの若者に語られた時と同じに、いまも力がある。イエスは、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」と言われる(マタイ28:18)、その権威は年月がたつにつれて減ったり、溢れるばかりの恩恵のたえまない活動によって尽きてしまったりするようなものではない。イエスを信ずるすべての者にとって、彼はいまもなお生ける救い主である。 DA 832.5

イエスは、息子を母親の手に戻された時、彼女の悲しみをよろこびに変えられた。だがこの若者は、この世の生活に呼びもどされて、その悲しみと苦労と危険に耐え、ふたたび死の権力に渡されたにすぎなかった。しかしイエスは次のような限りない望みのことばをもって、死者を悲しむわれわれの心を慰めてくださる。わたしは、「生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉(よみ)とのかぎを持っている」「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放っためである」(黙示録1:18、ヘブル2:14、15)。 DA 832.6

神のみ子が死人に生きよとお命じになる時、サタンは彼らをつかまえておくことができない。サタンは、キリストの力のみことばを信仰をもって受け入れる魂を1人も霊的な死のうちにとらえておくことができない。罪のうちに死んでいるすべての者に向かって、神は、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい」と言われる(エペソ5:14)。このみことばこそ、永遠の命である。最初の人間に生きよとお命じになった神のみことばが、いまもなおわれわれに命を与えるように、また「若者よ、さあ、起きなさい」とのキリストのみことばがナインの若者にいのちを与えたように、「死人のなかから立ちあがりなさい」とのみことばは、これを受け入れる魂にとっていのちである。「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった」(コロサイ1:13)。救いはすべてみことばのうちに提供されている。みことばをうけいれる時に、救いがある。 DA 833.1

「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(ローマ8:11、1テサロニケ4:16、17)。主は、こうした慰めのことばをもって互に慰め合うようにと命じておられる。 DA 833.2