各時代の希望

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第31章 山上の垂訓

本章はマタイ5、6、7章に基づく DA 820.1

キリストは、ご自分の言葉をきかせるために、弟子たちだけをお集めになったことはめったになかった。主はいのちの道を知っている者だけを聴衆としてお選びにならなかった。無知とまちがいの中にある大衆の心に訴えることがイエスの働きであった。主は真理についての教えを人々のにぶい理解力でわかる範囲でお教えになった。イエスご自身が真理であって、彼は腰に帯をしめ、祝福するためにいつでも手をさし出して立ち、みもとにくるすべての者を、戒めと訴えと励ましのことばをもって、高めようとされた。 DA 820.2

山上の垂訓は特に弟子たちに与えられたものであったが、それは群衆の聞いているところで語られた。使徒たちの按手礼(あんしゅれい)ののち、イエスは彼らと海辺へ行かれた。ここに朝早くから人々が集まり始めていた。ガリラヤの町々からやって来るいつもの群衆のほかに、ユダヤから、エルサレムからさえ、またペレヤから、デカポリスから、ユダヤの南のイドマヤから、地中海沿岸のフェニキヤの都市ツロやシドンからも、人々がやってきた。彼らはイエスの「なさっていることを聞いて」「教を聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして」やってきた。そして「力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいや(された)」(マルコ3:8、ルカ6:18、19)。 DA 820.3

せまい海辺では、イエスのみ言葉を聞こうと望む人たちがみな、そのみ声のとどく範囲に立つ余地もなかったので、イエスは山の中腹まで道を退かれた。おびただしい群衆のために気持ちのよい集合場所になっている平らな場所にこられると、イエスはご自分から草の上にすわられたので、弟子たちも群衆もイエスにならってすわった。 DA 820.4

弟子たちの場所は、いつもイエスの隣だった。人々は絶えずイエスのそばに押しよせたが、弟子たちは、イエスの前から押し出されてはならないことを知っていた。彼らはイエスの教えを一言葉も聞きもらさないように、イエスのすぐそばにすわった。彼らは、すべての国すべての時代に知らせる真理を理解しようと、熱心に注意深く耳をかたむけた。 DA 820.5

彼らは、いつもとちがった何ものかが期待されるような気がして、今イエスの周りにつめかけた。彼らはみ国がまもなく建設されることを信じていたので、その朝の出来事から、み国について何か発表がなされようとしているという確信をいだいていた。群衆にもまた期待の感情がみなぎり、熱心な顔が深い興味を物語っていた。人々が緑の丘にすわって天来の教師イエスのみ言葉を待っていると、彼らの心は、将来の栄光についての思いで満たされた。そこには、憎むべきローマ人を支配して、世界の大帝国の富と栄光とを、自分たちの手におさめる日を待望している学者たちとパリサイ人たちがいた。貧しい百姓や漁師たちは、彼らのみじめなあばら家、乏しい食物、苦労の生活、欠乏の心配が、ぜいたくな邸宅と安楽な日々に取り替えられるという保証を聞きたいと望んだ。昼は体にまとい、夜は毛布となっている1枚のぞまつな外衣のかわりに、彼らは、キリストが彼らの征服者たちの高価な美しい衣服を与えてくださることを望んだ。もうすぐイスラエルが、主の選民として諸国民の前にあがめられ、エルサレムが世界帝国の首都として高められるのだという誇らしい望みに、すべての心が高鳴った。 DA 820.6

キリストは世俗的な偉大さへの望みをくじかれた。 山上の垂訓の中で、キリストは、まちがった教育によってなされた働きをもと通りにし、キリストのみ国とご自身の品性について、正しい観念を聴衆に与えようとされた。しかし彼は民の間違いを直接に攻撃されなかった。イエスは、罪のために世の人々がおちいっている不幸をごらんになったが、その悲惨な状態をまざまざと彼らの前にえがいてみせるようなことをされなかった。イエスは彼らが知っていたものよりももっと無限にすぐれた何ものかを彼らにお教えになった。神のみ国についての彼らの考え方と戦おうとしないで、イエスはそこへ入る条件を彼らに語り、み国の性質については彼らが自分で結論をひき出すのにまかされた。イエスのお教えになった真理は、イエスについてきた群衆に劣らずわれわれにとっても重要である。われわれも彼らと同じに神のみ国の根本的な原則を学ぶ必要がある。 DA 820.7

山の上で、キリストが民に語られた最初の言葉は祝福の言葉であった。自分の霊的な貧しさを認めて、あがないの必要を感ずる者はさいわいであるとイエスは言われた。福音は、貧しい人たちにのべつたえられるのである。福音は、霊的に高慢な人たち、すなわち自分は富んでいる、何も必要なものはないと主張する人たちに示されないで、へりくだり、くだけた心を持っている人たちに示される。罪を洗いきよめる泉はただ一つしかない。それは心の貧しい者のために開かれている泉である。 DA 821.1

高慢な心は、自分の行為によって救いを得ようと努力する。しかし天国に入る権利書と資格はキリストの義のうちにある。自分自身の弱さを自覚し、すべてのうぬぼれを取り去って、自分自身を神の支配にまか世るまでは、主は、その人の回復のために何もすることがおできにならない。自分自身を神にまかせる時に、彼は、神が与えようと待っておられる賜物を受けることができる。必要を感じている魂にはどんなものも与えられないものはない。彼は、「すべての満ちみちた徳」の宿っている神に、何の制限もなく近づくことができる(コロサイ1:19)。「いと高く、いと上な緒、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』」(イザヤ57:15)。 DA 821.2

「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」(マタイ5:4)。この言葉によって、キリストは、悲しむこと自体に罪の不義を取りのぞく力があると教えておられるのではない。主は、見せかけやわざとらしい謙遜を承認されない。イエスが言われた悲しむという言葉は、ふさぎこんだり、悲嘆にくれたりすることではない。われわれは罪のために悲しむが、一方では神の子であるという尊い特権を喜ぶのである。 DA 821.3

われわれは、自分の悪い行為によって面白くない結果が自分自身にふりかかるために悲しむことがよくある。しかしこれは悔い改めではない。罪について本当に悲しむことは、聖霊の働きの結果である。みたまは、救い主を軽んじ悲しませた心の忘恩を示し、われわれをくだけた心をもって十字架のもとに行かせる。われわれが罪を犯す度に、イエスは新たな傷を受けられる。自分が刺したイエスを仰ぎ見る時、われわれは、イエスに苦悩を与えた罪について悲しむ。このように悲しむことによって、われわれは、罪を放棄するようになるのである。 DA 821.4

世俗の人々は、この悲しみを一つの弱さと公言するかもしれない。しかしこれこそ、悔い改めた者をたちきることのできないきずなで限りないお方に結びつける力である。それは、かたくなな心と罪とがのために失われた恩恵を、神の天使たちが魂にとり戻してくれていることを示す。悔い改めた者の涙は、聖潔という日光に先立つ雨のしずくにすぎない。この悲しみは、魂の中の生きた泉となる喜びの先ぶれである。「わたしの声に聞き従わなかったことを言いあらわせと、主は言われる。」「わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない、わたしはいつくしみ深い者である。」「シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて……さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、 主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」(エレミヤ3:13、12、イザヤ61:3)。 DA 821.5

試練と不幸の中にあって悲しむ人々のためにもまた慰めがある。悲嘆と屈辱のつらさは、罪にふけるよりもましである。神の恵みによって、われわれが自分の欠点にうち勝つことができるように、神は苦しみを通してわれわれの品性のけがれた点を示される。われわれ自身に関する未知の章が目の前に開かれ、神の譴責と勧告とを受け入れるかどうかがテストされる。試練に会った時、いらだったり、不平をいったりすべきでない。反抗したり心配したりして、キリストのみ手から離れてはならない。われわれは、神の前に魂をへりくだらせるのである。ものごとを自分の気に入るような光の中に見たがる者には、主の道はぼんやりとしか見えない。それはわれわれ人間の性質にとっては、暗く、喜びがないように見える。しかし神の道は憐れみの道であり、その終わりは救いである。エリヤが荒野でもう人生はたくさんだと言って、死にたいと祈った時、彼は自分のしていることがわからなかった。憐れみ深い主は、エリヤをその言葉通りには受けとられなかった。エリヤにはまだしなければならない大きな仕事があった。そして彼の仕事が終わった時、彼は荒野で落胆と孤独のうちに死ぬのではなかった。彼は死の塵の中へくだるのではなく、天の戦車に守られて栄光のうちに天のみ座のもとへ上るのであった。 DA 822.1

悲しんでいる者に対する神のみ言葉はこうである。「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう」「わたしは彼らの悲しみを喜びにかえ、彼らを慰め、憂いの代りに喜びを与える」(イザヤ57:18、エレミヤ31:13)。 DA 822.2

「柔和な人たちは、さいわいである」(マタイ5:5)。われわれが出会わねばならない困難は、キリストのうちにかくれている柔和によってずっと軽くなる。もしわれわれが、主の謙遜を身につけるなら、われわれは毎日受ける軽蔑や拒絶や迷惑などに超越し、そうしたものが心に暗い影をなげることがなくなる。クリスチャンのうちにある高貴なものについて最高の証拠は自制心である。ののしられたり、ひどい目にあわされたりした時、冷静な、信頼に満ちた精神を持ち続けない者は、神がご自身の完全な品性を彼のうちにあらわされる権利を神から奪うのである。へりくだった心は、キリストに従う者たちに勝利を与える力であり、それは彼らが天の宮とつながっている証拠である。 DA 822.3

「主は高くいらせられるが低い者をかえりみられる」(詩篇138:6)。キリストのへりくだった柔和な精神をあらわす者たちは、神からやさしく見守られている。彼らは、世の人々からさげすみの目をもって見られるかも知れないが、神の御目には非常に尊いのである。賢明な人、偉大な人、慈善に富んだ人たちだけが、天の宮への旅券を獲得するのではない。それはまた、熱心で、休まず活動している忙しい働き人だけでもない。そうだ、心の貧しい者——キリストの内住を熱望し、謙遜な心をもち、神のみこころを行うことを最高の望みとしている人こそ、十分に天国に入るのである。彼らは、衣を洗い、小羊の血によって衣を白くした人たちの仲間に入るのである。「それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう」(黙示録7:15)。 DA 822.4

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである」(マタイ5:6)。自分がどんなに無価値な者であるかを意識する時、心は義に飢えかわくようになるが、この思いは失望させられることがない。心にイエスを入れる余地をつくる者は、イエスの愛を認める。神のご品性のみかたちをそなえたいとあこがれる者はみな満足させられる。聖霊は、イエスを見ている魂を助けのないままにしておかれない。聖霊は判ストの事柄を取り上げて、それを魂に示される。もし目をキリストにそそいでいるなら、みたまの働きは、その魂が神のみかたちに一致するまでやまない。純粋な愛の要素が魂を拡大し、もっと高い教養と天の事物についてのもっと多くの知識を受け入れる余地を 与えるので、その魂は、完全に達するまでは満足しない。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう」(マタイ5:6)。 DA 822.5

憐れみのある人は憐れみを見いだし、心の清い者は神を見る。すべての不純な思いは魂をけがし、道徳観念をそこない、聖霊の印象をかき消してしまう。それは霊的な眼をくもらせるので、人々は神を見ることができない。主は、悔い改める罪人をお赦しになるだろうし、また実際お赦しになるが、しかし赦されても、その魂は損なわれている。霊的な真理をはっきり見わけたいと思う者は、言葉や思いにおける不純さを避けねばならない。 DA 823.1

しかしキリストのみ言葉には、肉欲的なけがれがないとか、ユダヤ人が極力避けていた儀式上のけがれがないとかいうよりももっと深い意味がある。利己心は、われわれが神を見ることをさまたげる。利己的な精神は、神もまたまったく利己的なお方として判断する。この利己的な精神を放棄しない限り、われわれは愛であられる神を理解することができない。無我の心、へりくだって信頼する心だけが、神を「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」として見ることができるのである(出エジプト34:6)。 DA 823.2

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイ5:9)。キリストの平和は、真理から生まれる。それは神との調和である。世は神の律法に敵意をいだき、罪人たちは創造主に敵意をいだき、その結果、彼らは互に敵意をいだいている。だが詩篇記者は、「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」と断言している(詩篇119:165)。人間は平和を製造することができない。個人や社会をきよめ、向上させる人間の計画は、人の心をとらえないので、平和を生み出さない。真の平和をつくり出したり、永続させたりできる唯一の力は、キリストの恵みである。これが心にうえつけられる時に、それは争いや不和をひき起す悪い欲望を追い出す、「いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える、」こうして人生の砂漠は、「喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲」くのである(イザヤ55:13、35:1、2)。 DA 823.3

群衆はこの教えに驚いた。それはパリサイ人の教えや手本とまったく異なっていた。幸福とはこの世の事物を所有することにあって、人間の名声と名誉こそ大いに望ましいものであると人々は考えるようになっていた。「ラビ」と呼ばれ、公衆の前に自分の美徳を並べたて、賢明で信仰心のあつい人だとほめそやされることが非常にうれしいのであった。こういうことがこの上ない幸福とみなされていた。ところがイエスは、あのおびただしい群衆の前で、この世の利得と名誉だけがそういう人たちの受ける報いの全部であると宣言された。イエスは、確信をもってお語りになり、その言葉には人々を説得する力があった。人々は沈黙し、ひそかに不安な思いにとらえられた。彼らは疑わしげに顔を見合わせた。もしこの人の教えが事実だったら、自分たちの中のだれが救われるだろう。多くの者は、このすばらしい教師が神のみたまに動かされておられることと、彼が語られた思想は神からのものであることを確信した。 DA 823.4

真の幸福とはどういうものであるか、またそれはどのようにして得られるかを説明してから、イエスは、ほかの人たちを義と永遠の命の道へ導くために神から選ばれた教師としての弟子たちの義務をもっと明確にお示しになった。イエスは弟子たちが度々失望と落胆を味わうこと、彼らが断固たる反対に出会うこと、彼らがあざけられ、そのあかしが拒否されることなどをご存知だった。イエスのみ言葉に熱心に耳をかたむけたこのいやしい人たちが、彼らの使命を達成するにあたって、中傷、拷問、投獄、死に出会わねばならないことを、イエスはよく知っておられた。そこで主は言葉を続けてこう言われた。 DA 823.5

「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなた がたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように追害されたのである」(マタイ5:10~12)。 DA 823.6

世は罪を愛し、義を憎む。これがイエスに対する世の敵意の原因であった。イエスの限りない愛をこばむ者はみなキリスト教を一つの邪魔な要素と考える。キリストの光が、彼らの罪をおおっている暗黒をはらいのけ、改革の必要が明らかにされる。聖霊の感化に服する人は、自己との戦いを始めるが、罪に執着する人は、真理とその代表者たちに向かって戦いをいどむ。 DA 824.1

こうして衝突が生じ、キリストに従う者たちは、民を悩ます者として非難される。しかし彼らに世の敵意が向けられるのは、彼らが神と交わっているからである。彼らはキリストへの非難を負っているのである。彼らは聖徒たちが通った道を歩いているのである。彼らは悲しみをもってではなく、喜びをもって、迫害に応ずべきである。激しい試練の一つ一つは、彼らを洗練するための神の手段である。その一つ一つは、彼らを神の共労者として彼らの働きにふさわしい者とする。一つ一つの戦いは、義のための大きな戦いの中にそれぞれの立場を占めていて、それは、彼らの最後の勝利に喜びをまし加える。このことを念頭におく時、彼らの信仰と忍耐の試みは、恐れて避けるよりも、むしろ喜んで受け入れられるであろう。神の僕たちは、世に対する彼らの義務を果たすことを心がけ、神から承認されることに彼らの望みをおいて、人を恐れたり人から好かれたりなどということにかかわりなく、一つ一つの義務を果たすのである。 DA 824.2

「あなたがたは、地の塩である」とイエスは言われた(マタイ5:13)。迫害をのがれるために世からかくれてはならない。神の愛の香りが世を堕落から守る塩となるように、あなたがたは人々の中に住むのである。 DA 824.3

聖霊の感化に応ずる心は、神の祝福が流れるチャンネルである。もし神に仕える人々が地から取り去られ、神のみたまが人々の中からひきあげたら、この世は、サタンの支配の結果である荒廃と破壊にまかされるであろう。悪人たちにはわからないが、彼らに与えられるこの世のよいものでさえ、彼らが軽蔑し圧迫する神の民がこの世にいるために与えられるのである。しかしもしクリスチャンが、名前だけのクリスチャンなら、彼らはききめを失った塩のようなものである。彼らは世にあってよいことのために感化力を及ぼさない。彼らは神についてまちがった印象を与えるので、未信者よりも悪いのである。 DA 824.4

「あなたがたは、世の光である」(マタイ5:14)。ユダヤ人は、救いの恩恵を自国民だけに制限しようと考えた。しかしキリストは、救いは日光のようなものであることを彼らに示された。それは全世界のものである。聖書の宗教は、本の中や、教会の壁の内側にとじこめておかれるものではない。それは、自分自身のために時々とり出して、それからまた大事にしまいこんでおくものでもない。それは、日常の生活をきよめ、どんな実務上の取引にも、またわれわれのどんな社交関係にもあらわされるのである。 DA 824.5

真の品性は、外部から形づくられて着せられるものではなく、内部から輝き出るものである。もしわれわれが人を義の道にみちびこうと望むなら、義の原則がわれわれ自身の心のうちに宿っていなくてはならない。われわれの信仰告白は、宗教の理論を公言するかもしれないが、真理のことばを示すものは、われわれの実際の敬虔さである。矛盾のない生活、きよい行状、変らない誠実、積極的で情深い精神、敬虔な模範——こうしたものが世に光を伝える手段である。 DA 824.6

イエスは、律法のこまかい点までくわしく説明されなかったが、イエスが律法の要求を廃すうためにこられたのだと聴衆に結論させるようなことはされなかった。主は、スパイどもが一言葉一言葉をつかまえて、自分たちの目的に都合のよいようにこじつけようと待ちかまえているのをご存知だった。イエスは、聴衆の多くの者の心のうちにある偏見を知っておられたので、モーセを通して彼らに委託された宗教と制度に対する彼らの信仰を動揺させるようなことは何も言われなかった。道徳律も儀式上の律法も、キリスト ご自身がお与えになったのであった。イエスはご自分の教えに対する人々の信頼を破壊するためにおいでになったのではなかった。ユダヤ人のまわりに築かれている伝統的な資格という壁をイエスが打破しようとされたのは、律法と預言者とを非常に尊ばれたからであった。イエスは律法についてのまちがった解釈を取り除かれたが、その一方では、弟子たちがユダヤ人に委託された重大な真理を放棄するようなことのないように注意深く警戒された。 DA 824.7

パリサイ人は、自分たちが律法に服従していることを誇っていた。しかし彼らは、毎日の生活を通して、律法の原則をほとんど知らなかったので、彼らには救い主のみ言葉が異端のように聞こえた。イエスが、真理を下にうずもれさせていたがらくたを取り除かれると、彼らは、イエスが真理そのものを一掃しておられるのだと思った。彼らは、イエスが律法を軽んじておられると、互いにささやき合った。イエスは彼らの心の思いを読んで、こうお答えになった。 DA 825.1

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイ5:17)。ここにイエスはパリサイ人の非難を反ばくしておられる。イエスは律法を破っておられると彼らが非難しているその律法の聖なる要求を擁護することが、イエスの世に対する使命である。もし神の律法が変更したり廃止したりできるものだったら、キリストは、われわれの罪とがの結果を身に負われる必要はなかった。イエスは、律法と人との関係を説明し、自ら律法に従う生活をすることによって、その戒めを例示するためにおいでになった。 DA 825.2

神は、人類を愛されるから、その聖なる戒めをわれわれにお与えになったのである。罪とがの結果からわれわれをかばうために、神は義の原則をお示しになっている。律法は神の思想のあらわれである。キリストのうちにあって受け入れられる時、それはわれわれの思想となる。それはわれわれを生来の欲望や性質の力から高め、また罪にいたる誘惑から高める。神はわれわれが幸福になることを望んでおられる。そこで神は、律法の戒めをお与えになったが、それは、われわれがこれに従うことによって、喜びを感ずるようになるためである。イエスの誕生にあたって天使たちが、 DA 825.3

「いと高きところでは、神に栄光があるように、 DA 825.4

地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」 DA 825.5

と歌った時、彼らは、イエスが拡大しそして尊いものとするためにおいでになった律法の原則を宣言していたのであった(ルカ2:14)。 DA 825.6

シナイで律法が布告された時、神は、ご自分の品性の聖なることを人々にお知らせになったが、それは、対照的に彼らが自分自身の品性の罪深さを認めるためであった。律法は、彼らに罪を自覚させ、彼らに救い主が必要であることを明らかにするために与えられた。律法は、その原則が聖霊によって心に適用される時に、この働きをするのであった。律法は今もなおこの働きをするのである。キリストの一生には律法の原則が明らかにされている。神の聖霊が心にふれるように、またキリストの光が、罪を洗い清めるキリストの血と人を義とするキリストの義の必要とを人々に明らかにするように、信仰によってわれわれが義とされるために、律法は今もなおわれわれをキリストに導く手段である。「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ」る(詩篇19:7)。 DA 825.7

「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」とイエスは言われた(マタイ5:18)。天に輝く太陽、あなたの住んでいる大地は、神の律法が永遠不変のものであるという神の証人である。それらが過ぎ去ることがあっても、神の戒めは続くのである。「しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい」(ルカ16:17)。イエスを神の子羊としてさし示していた象徴的な制度は、キリストの死とともに廃されるのであった。だが十戒の戒めは神のみ座と同じに不変である。 DA 825.8

「主のおきては完全」であるから、律法にはずれたことはすべて悪でなければならない。神の戒めに従 わず、人々にもそうするように教える者は、キリストから罪を宣告される。救い主は律法に服従した一生によって、律法の要求を支持された。それは人性のうちにあっても律法を守ることができることを証明し、律法に従うことによって養われる品性のすばらしさを示した。キリストのように律法に従う者はみな同じように、律法が「聖であって、正しく、かつ善なるものである」とを宣言しているのである(ローマ7:12)。一方、神の戒めを破る者はみな、律法が不正であって従うことのできないものであるというサタンの主張を支持しているのである。こうして彼らは大敵サタンの欺瞞の後おしをし、神をはずかしめる。彼らは神の律法に最初に反抗した悪者サタンの子らである。もし彼らを天に入れるなら、再び不和と反抗の要素が持ちこまれ、宇宙の幸福は危険にさらされるであろう。律法のただ一つの原則でも、これを故意に無視する者は、だれも天国に入ることができない。 DA 825.9

ラビたちは自分自身の義を天国へのパスポートとみなしたが、イエスは彼らの義を不十分な、価値のないものと断言された。パリサイ人の義は、外面的な儀式と、真理についての理論的な知識にあった。ラビたちは、律法を守る自分自身の努力によって、自分たちが聖潔であると主張した。だが彼らのわざは、義を宗教からひき離していた。彼らは儀式を守ることにはきちょうめんだったが、その生活は不道徳で、堕落していた。彼らのいわゆる義は、決して天国に入ることができなかった。 DA 826.1

キリストの時代に人々の心のうちにあった最大の欺瞞は、真理にただ同意することが義であるということだった。真理を理論的に知っているということだけでは魂を救うのに不十分であることが、人間のあらゆる経験を通して証明された。それは義の実を生じない。いわゆる神学的な真理を熱心に重んじることは、生活にあらわされる真正の真理に対する憎しみをしばしば伴う。歴史の最も暗黒な幾章かは、頑迷な宗教家たちの犯した罪の記録を背負っている。パリサイ人はアブラハムの子であることを主張し、神のみ言葉を所有していることを誇った。しかしそうした特典も、彼らを利己主義、悪意、利得への貧欲卑劣な偽善から守らなかった。彼らは、自分たちが世界で最も偉大な宗教家であると思っていたが、彼らのいわゆる正統派的な信仰が、栄光の主を十字架につけさせたのであった。 DA 826.2

同じ危険が今も存在している。多くの者は、ある神学上の教義に同意しているからというだけのことで、自分は当然クリスチャンだと思っている。だが彼らは、真理を実生活に持ちこまなかった、彼らは真理を信じてもいなければ、愛してもいなかった。したがって彼らは、真理の清めを通して与えられる力と恩恵とを受けなかった。人は、真理に対する信仰を告白しても、もしその信仰によって、彼らが真実で、親切で、忍耐強く、寛大で、天来の心を持った者となるのでなければ、それは所有者にとって災いであり、また彼らの感化によって、それは世にとっても災いとなる。 DA 826.3

キリストがお教えになった義とは、心と生活とを神のみこころのあらわれに一致させることである。罪深い人間は、神への信仰を持ち、神と生きた関係を持続することによってのみ義となることができる。そのとき真の信心によって思想が高められ、生活は高潔なものとなる。その時、宗教の外面的な形式が、クリスチャンの内面的な純潔と一致する。その時、神の奉仕に要求されている儀式は、偽善的なパリサイ人の儀式のような無意味なものとならない。 DA 826.4

イエスは、戒めを一つ一つ取り上げて、その要求の深さと広さとを説明される。主は戒めの力を少しでもそぐようなことをなさらずに、その原則がどんなに深遠なものであるかを示し、ユダヤ人の表面的なみせかけの服従が致命的なまちがいであることをばくろされる。邪悪な思いや情欲的な目つきによっても、神の律法は犯されるのだとイエスは宣言される。どんな小さな不正に関係しても、人は、律法を破り、自分自身の道徳的性質を堕落させる。殺人はまず心のうちにある。心に憎しみが入るのを許す時、その人は殺人の道に足をふみ入れているのであって、彼の献げ物は神にきらわれる。 DA 826.5

ユダヤ人は復讐の精神を育てた。ローマ人を憎 むあまり、彼らは激しい非難の言葉を口に出し、サタンの特性を発揮して彼を喜ばせた。こうして彼らは、サタンが彼らをひきいれる恐るべき行為のために自らを訓練していた。パリサイ人の信仰生活には、異邦人に信心をすすめるようなものは何もなかった。心のうちで圧制者たちに反抗し、彼らの悪に復讐したいという熱望をいだいてもよいという考えで自らをあざむいてはならないと、イエスは彼らにお命じになった。 DA 826.6

キリストに従っている者たちの中にさえ、正当な憤りというものがあるのは事実である。神がけがされたり、神のご用について悪口がいわれたり、何の罪もないものが虐待されたりするのを見たり聞いたりすると、正義の憤りが魂を動かす。感じ易い道徳心から生ずるこのような怒りは罪ではない。しかし挑発と思われるようなことをされたら、怒りや恨みをほしいままにしてもかまわないと思う人は、サタンに向かって心を開いているのである。天と調和したければ、魂から冷酷さと憎しみとを追い出さねばならない。 DA 827.1

救い主はそれよりも以上のことを要求しておられる。イエスは、「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」と言っておられる(マタイ5:23、24)。宗教的な奉仕に熱心でありながら、一方では兄弟たちとの間に和解すべき不幸な不和のある人々が少なくない。神は、全力をつくして一致をとり戻すように彼らに要求しておられる。そうするまで神は、彼らの奉仕を受け入れることがおできにならない。この問題についてクリスチャンの義務がはっきり指摘されている。 DA 827.2

神は、すべての者に祝福をそそがれる。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」(マタイ5:45)。神は「恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである」(ルカ6:35)。神は、わたしと同じ上うにしなさいとわれわれに言われる。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである」とイエスは言われた(マタイ5:44、45)。こうしたことが律法の原則であり、それはまた命の泉である。 DA 827.3

神がご自分の子らに望まれる理想は、人間の最高の思いが達することができるよりももっと高い。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)。この命令は約束である。あがないの計画には、われわれをサタンの権力から完全にとり戻すことがもくろまれている。キリストは、悔い改めた魂を、いつでも罪から引き離される。主は、悪魔のわざを滅ぼすためにおいでになったのであって、すべての悔い改めた魂に聖霊を与え、罪を犯さないように道を備えられた。 DA 827.4

一つの悪の行為に対して、誘惑者の力は言いわけにならない。サタンは、キリストに従うことを告白している人たちが、品性の欠陥について言いわけをするのを聞くとこおどりして喜ぶ。罪へいたらせるのはこのような言いわけである。罪を犯すことに言いわけはない。悔い改めて信ずるすべての神の子らは、聖なる気質を持ち、キリストのような生活に入ることができるのである。 DA 827.5

クリスチャン品性の理想は、キリストに似ることである。人の子キリストが、その生活において完全であられたように、キリストに従う者も、その生活において完全でなければならない。イエスは、あらゆる点において、兄弟たちと同じようになられた。イエスは、われわれと同じように、肉体をおとりになった。彼は飢え、渇き、お疲れになった。主は、食物によって力づけられ、睡眠によって元気を回復された。イエスは、人と同じ身分でありながら、しかも傷のない神のみ子であられた。イエスは、肉体をとられた神であられた。キリストのご品性がわれわれのものとなるのである。主を信ずる者について、主は、こう言われる、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる であろう」(Ⅱコリント6:16)。 DA 827.6

キリストはヤコブの見たはしご、すなわち足が地面について、てっぺんが天の門、栄光の門口に達しているはしごである。もしこのはしごがたった1段でも地についていなかったら、われわれは滅びてしまったのである。だがキリストは、われわれが今いるところで、われわれにとどいてくださる。主は、われわれの性質をおとりになって勝利されたが、それは、われわれがキリストの性質をとることによって勝利するためである。イエスは「罪の肉の様」になられたが、罪のない生涯をおくられた(ローマ8:3)。今キリストは、神性によって天のみ座につらなっておられるが、一方では人性によってわれわれのもとに達しておられる。キリストは、わたしを信ずることによって、神のご品性の栄光に到達しなさいとわれわれに命じられる。だからわれわれは、「天の父が完全であられるように」完全な者となるのである(マタイ5:48)。 DA 828.1

イエスは、すでに、義が何にあるかを示し、神を義の根源としてさし示された。今主は、実際的な義務に目を向けられた。施しにおいても、祈りにおいても、断食においても、人の注意をひくためや、自分がほめられるために何事もしてはならないと、主は言われた。困っている貧しい者のために、まごころから施しなさい。祈りにおいて、魂を神と交わらせなさい。断食においては、頭をたれ、自我の思いでいっぱいになった心でこれを行ってはならない。パリサイ人の心は、収穫のない不毛の土地で、清い生活という種はそこに繁茂することができない。神に最も喜ばれる奉仕をする者は、自分を余すところなく神に従わせる者である。なぜなら、神との交わりによって、人は、神と共なる働き人となり、人類に神のご品性を示すことができるからである。 DA 828.2

誠実な心からなされる奉仕には、大きな報いがある。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:4)。キリストの恵みによって生きる生活を通して、品性が形成される。魂には本来の美しさが回復しはじめる。キリストの品性の特質がわけ与えられ、神のみかたちが光を放ち始める。神と共に歩み、働く男女の顔には、天の平安があらわれる。彼らは天の雰囲気でかこまれる。このような魂には、神のみ国がはじまったのである。彼らには、キリストの喜び、すなわち人類の祝福となっているという喜びがある。彼らには、主のご用に受け入れられるという光栄がある。彼らは、主のみ名によって、主の働きをするように信任されている。 DA 828.3

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」(マタイ6:24)。二心をもって神に仕えることはできない。聖書の宗教は、たくさんある感化力の中の一つではなく、この感化力は、最高のものとして、ほかのすべてのものに浸透し、それらを支配するのである。それは画布の上のそこここにさっと塗られた色のようなものではなく、ちょうど布地の1本1本の糸が、あせない深い色に染まるまで、画布がその色の中にひたされるように、生活の全体に浸透するのである。 DA 828.4

「だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう」(マタイ6:22、23)。純潔と堅固な目的は、神から光を受ける条件である。真理を知りたいと望む者は、その真理によって示されるすべてのことを進んで受け入れねばならない。彼は誤謬と妥協することはできない。真理への忠誠が、中途半端であったり、動揺したりすることは、誤謬の暗黒とサタンの欺瞞とを選ぶことである。 DA 828.5

世俗的な方針と、まっすぐな義の原則とは、虹の色のように気づかないほど互いにまざりあうことがない。この両者の間には、永遠の神によって、はっきりした太い線がひかれている。キリストのみかたちは、真昼と真夜中の対照のように、はっきりサタンのかたちと区別される。キリストの生涯に生きる者だけが、キリストの共労者である。もし一つの罪が魂のうちに宿っていたり、一つの悪い行為が生活のうちに保留されていたら、生活全体がけがされる。その人は不義の器となる。 DA 828.6

神の奉仕を選んだ者はみな、神の守りに安心していることができる。キリストは、空を飛ぶ鳥と野の花 とを指さして、神のおつくりになったこうしたものを考えてみなさいと、聴衆に言われた。「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」と彼は言われた(マタイ6:26)。神は、どんなものにも、それぞれの身分に応じた尺度で守りをお与えになる。小さな茶色のすずめは、神に見守られている。野の花や、地面に敷物をしいたような草は、それぞれに天父の注意と守りとを受けている。大画家であられる神は、ゆりの花に心を用いて、これにソロモンの栄光をしのぐ美しさをお与えになった。神は、ご自分のみかたちであり栄光である人間に、どんなにかもっと多く心を用いておられることだろう。神はご自分の子らが、ご自分に似た品性をあらわすのを見たいと熱望しておられる。日光が、変化に富んだ優美な色彩を花に与えるように、神は魂にご自身の品性の美しさをお与えになる。 DA 828.7

キリストの愛と義と平和のみ国を選び、このみ国の利害を、他のすべての利害にまさるものとする者はみな、天の世界に結合しており、この世の生活に必要な祝福はことごとく彼のものである。われわれは、神の摂理という本、すなわち人生という本の中に、各々1ページを与えられている。そのページには、われわれの歴史が、細かい点まで書かれていて、頭の髪の毛までかぞえられている。神の子らは神のみこころから忘れられることがないのである。 DA 829.1

「だから、あすのことを思いわずらうな」(マタイ6:34)。われわれは、日々キリストに従うのである。神は明日のための助けをお与えにならない。神は、ご自分の子らが混乱することがないように、彼らに人生行路の方向を全部1度にお教えにならない。神は、彼らがおぼえて実行することができる程度にお語りになる。与えられた知恵と力は、現在のさし迫った必要のためである。今日のために「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ1:5)。 DA 829.2

「人をさばくな。自分がさばかれないためである」(マタイ7:1)。自分は人よりまさっていると考えて、人をさばく立場に自分を高めてはならない。あなたは、動機を見わけることができないのだから、他人をさばくことはできない。相手を批判することによって、あなたは自分自身に宣告をくだしているのである。なぜなら、あなたは、兄弟たちを訴える者すなわちサタンの仲間であることを示しているからである。主は「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい」と言われる(Ⅱコリント13:5)。これがわれわれの働きである。「自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう」(Ⅰコリント11:31)。 DA 829.3

よい木はよい実を結ぶ。もし実の味がまずくて無価値なら、その木が悪いのである。同じように、生活の中に結ばれる実は、心の状態とすぐれた品性とを証拠だてる。善行によって救いを買うことはできないが、しかしそれは、愛によって働き、魂を清める信仰の証拠である。永遠の報いは、われわれの功績によってさずけられるのではないが、それでも、キリストの恵みによってなした働きに比例して与えられるのである。 DA 829.4

キリストは、このようにみ国の原則を説明し、これを生活の大原則としてお示しになった。この教訓を印象づけるために、彼は例話をつけ加えておられる。あなたがたは、わたしの言葉を聞くだけでは十分でないと、主は言われる。従うことによって、あなたがたはわたしの言葉を品性の土台としなければならない。自我は移り変る砂にすぎない。人間の学説や作り話の上に家を築くなら、その家は倒れてしまうであろう。試みの風すなわち試練の嵐によって、それは吹きとばされてしまうであろう。だがわたしが与えたこれらの原則は持ちこたえる。わたしを受け入れ、わたしの言葉の上に築きなさい。 DA 829.5

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである」(マタイ7:24、25)。 DA 829.6