キリストへの道

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キリストへの道

神の愛

自然と啓示は、神の愛をあかししています。天の父なる神は、生命と知恵と喜びの源です。自然の妙(たえ)に美しいものを見てごらんなさい。また自然が、人間ばかりでなく、あらゆる生物の必要と幸福を驚くほど満たしていることを考えてごらんなさい。輝かしい日の光、地をうるおす雨、また山、丘、海、平原それらはみな神の愛を物語っています、このようにすべての造られたものの必要をお満たしになるのは神です。詩篇の記者は、美しい言葉をもって次のように歌っています。 SC 1935.1

「よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます」と。 SC 1935.2

(詩篇145:15、16) SC 1935.3

神ははじめ、人を全く清く幸福なものにお造りになりました。そして、この美しい地球が創造主のみ手で造られた時には、一点の衰えの兆しも呪いの影もありませんでした。愛のおきてである神のおきてを人が犯したために、死と悩みが生じたのです。けれども罪の結果起った苦しみの中にさえ、神の愛はあらわされています。聖書にも、神は入のために土を呪われたとしるされています(創世記3:17)。いばらとあざみ、つまり、いろいろの困難や試みがこの世の生涯を心配や苦労の多いものにしていますが、これは人のためであって、罪のもたらした破滅と堕落から救い出すためには、ぜひなくてはならない訓練として神がお定めになったのです。世界は堕落したとはいえ、悲惨なことばかりではありません。自然そのものに希望と慰めのおとずれを読むことができます。その証拠に、あざみにも花が咲き、いばらも花でおおわれています。 SC 1935.4

神は愛であるということが、どのつぼみにも、またどの草にもしるされています。かわいい小鳥は楽しい歌声で空気を震わせ、美しい色の花はよいかおりをあたりに漂わせ、森の大木は青々と茂り、それぞれにみな神は優しい父親のように私たちを守ってくださること、私たちの幸福を望んでおいでになることを示しています。 SC 1935.5

神のみ言葉は神のご性質をあらわしています。神は自ら、ご自身の限りない愛とあわれみについてお語りになりました。モーセが「どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください」と言った時に、神はそれに答えて、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ」(出エジプト33:18、19)と言われました。これが神の栄えです。神はモーセの前を過ぎて、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」(出エジプト34:6、7)、「怒ることおそく、いつくしみ豊かで」(ヨナ4:2)「いつくしみを喜ばれる」(ミカ7:18)ものであると言われます。 SC 1935.6

神は天にも地にも、数えきれぬほどの愛のしるしをまき散らして、私たちの心をご自分に結びつけました。自然界のいろいろのもの、または人の心が感じることのできる深い優しい地上の絆によって、神は私たちに神ご自身を示そうとなさいました。しかし、これらは神の愛のただ一部を示すにすぎません。このような証拠が与えられているにもかかわらず、善の敵である悪魔は人の心をくらまし、神を恐ろしいもののように見せかけ、残酷で人を決してゆるさない者、きびしい裁判官か強欲な金貸しのように、厳として動かぬ者のように思わせています。また創造主をつねに人類のあやまちを拾い上げて厳罰に処している者のように思わせています。イエスが人類の間にお住みになったのは、この暗いかげを取り除いて神の限りない愛を示すためでした。 SC 1935.7

神のみ子が天からおいでになったのは、天の父をあらわすためでした。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、 神をあらわしたのである」(ヨハネ1:18)。「父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」(マタイ11:27)。弟子の一人が「わたしたちに父を示してください」とイエスに願った時、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか」(ヨハネ14:8、9)と言われました。 SC 1935.8

イエスはこの地上でのご自分のみわざについて次のように説明されました。すなわち「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ」(ルカ4:18)ると。これがイエスの使命でした。彼は広くめぐり歩いて良いことをなし、悪魔に苦しめられている者をいやされました。こうしてあらゆる病気をいやしながら、村々をお通りになったので、村中誰一人、病で苦しむ者がいなくなったほどでした。こうしたお働きがイエスの神からつかわされたことのしるしでした。イエスの生涯のあらゆる行為には愛と情とあわれみとが見られ、その心は優しい同情となって人々の上にさしのべられたのです。イエスが人となられたのも、人間の必要に応じることができるためでした。どんなに貧しい者も、どんなに卑しい者も、恐れなくイエスに近づくことができました。また幼い子供でさえ彼にひきつけられ、そのひざによじのぼって愛にあふれた物静かなみ顔に見入るのでした。イエスは真実をなんの遠慮もなく語りましたが、そういう時にはいつも愛をもってお語りになりました。また人と交際するにあたっては、いかにも上手に、深い思いやりと細かい注意を払い、荒々しい言葉を用いたり、なんの理由もないのに言葉を鋭くしたり、感じやすい心をなんの必要もないのに傷つけたり、人の弱さを責めたりなさいませんでした。つねに愛をもって真実を語りました。また偽善、不信、不義をお責めになりましたが、そうした鋭い譴責の言葉を語った時にも、そのみ声は涙にふるえていました。 SC 1936.1

道であり真理であり生命である自分を拒んだ、愛する町エルサレムのことを考えて、主イエスは泣かれました。人々はイエスを拒んだのですが、イエスは優しく彼らをあわれまれたのです。彼は一生の間、自己を全く捨てて人のために尽くされました。イエスの目にはどの魂もみな尊く映ったのです。彼は神の子の威厳を備えていましたが、へりくだって、神の家族の一人一人をやさしく思いやり、どの人を見ても、この罪に落ちた魂を救うことこそ自分の使命であると思われたのです。 SC 1936.2

キリストの生涯はこうした性質のものでしたが、これこそ神のご性質です。キリストのうちにあらわされ、人類の上にあふれ出た天からの愛の流れは、天の父のみ心から出たものです。優しい思いやり深い救い主イエスは「肉において現れ」(Ⅰテモテ3:16)た神でした。 SC 1936.3

キリストが地上に生活し、苦しみ、十字架上で死なれたのは私たちをあがなうためでした。彼は私たちが永遠の喜びにあずかることができるように、「悲しみの人」となりました。神は、恵みと真理に満ちたひとり子を、栄光に輝くみ国より罪にそこなわれ死とのろいに暗く閉ざされたこの世にくだされたのです。神は、イエスが愛のふところを離れ、天使たちの賛美の声をあとにして、苦しみと恥、無礼、屈辱、憎しみ、はては死をさえ受けることをおゆるしになりました。「彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)。荒野の、ゲッセマネの園の、または十字架上のイエスをごらんなさい。1点の汚点もない神のみ子が、罪の重荷を負い、また神と共におられた方が罪の結果である神と人との間の恐ろしい離別を経験されたのです。そして「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)という苦しい叫びがそのくちびるをついて出たのです、罪の重荷、罪の恐ろしさ、神から遮断されることなどが神の子の心を砕いたのでした。 SC 1936.4

しかし、この大きな犠牲が払われたために、天の神 のみ心に人に対する愛の気持ちをおこさせたのでもなければ、救いたいとの考えを生じさせたのでもありません。いいえ、そうではなく「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛」(ヨハネ3:16)されたのです。神は、その大きななだめのそなえもののゆえに、私たちを愛されたのではなく、私たちを愛するゆえに、なだめのそなえものを与えられたのです。キリストは罪に落ちた世界に神の限りない愛を注がれる仲介者でした。「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ」(Ⅱコリント5:19)とあります。神はみ子と共にお苦しみになりました。ゲッセマネの苦しみ、カルバリーの死を通し、限りない愛をもたれる神は私たちのあがないの価をお払いになったのです。 SC 1936.5

イエスは「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)と言われました。これはつまり、こういう意味です。 SC 1937.1

「私の父は、あなたがたをこの上なく愛しておられますから、私があなたがたの救いのために命を捨てたため、以前にもまして私を愛してくださいます。あなたがたの負債と罪を負って生命を捨て、あなたがたの身代わり、保証人となったため、私は父にいっそう愛せられるようになったのです。なぜならば、私の犠牲によって神は義であることができると同時に、私を信じる者をも義とすることができるからです」 SC 1937.2

神の子のほかには誰も私たちのあがないを全うすることはできません。というのは神のふところにいた者でなければ神をあらわすことはできないからです。神の愛の高さ、深さを知る者だけがそれをあらわすことができるのです。堕落した人類のためにキリストが払われた限りない犠牲ほど、失われた人類に対する神の愛をあらわすことのできるものはありません。 SC 1937.3

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。神はキリストを、ただ人々の間に生活し、人々の罪を負い、彼らの犠牲となって死ぬためにお与えになったばかりでなく、神はキリストそのものを堕落した人類にお与えになったのです。キリストは人類の利害、また必要を人々と共に味わわれました。神と一つであったキリストは、人々と切っても切れない絆で結ばれ「彼らを兄弟と呼ぶことを恥」(ヘブル2:11)とされません。彼は私たちの犠牲、また助け主、私たちの兄弟です。神の御座の前に人間の姿をもって立ち、永遠に自らあがなわれた人類の一人となった「人の子」です。これはみな罪の淵より、また滅びより人が引き上げられ、神の愛を反映し、清き者となる喜びにあずかるためでした。 SC 1937.4

私たちのあがないのために払われた価、私たちのためにそのひとり子に死をさえおゆうしになった天の神の測り知れない犠牲を考えるとき、キリストによって私たちは非常に高潔な状態に到達することができるという観念をおこさずにはいられません。霊感に動かされた使徒ヨハネは、滅びゆく人類への天の父の愛の高さ、深さ、広さをながめて、心はただありがたさと敬虔の念でいっぱいになり、その愛の偉大さ、優しさを適当に表現する言葉を見いだすことができないで、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか」(Ⅰヨハネ3:1)と世界に呼びかけています。人はなんと尊い価値をもっていることでしょう。罪を犯して人の子らは悪魔の奴隷となりましたが、キリストのあがないの犠牲を信じることによって、アダムの子らはまた神の子となることができるのです。キリストは人の性情をおとりになって人類を引き上げてくださいました。罪に落ちた人類は、キリストにつながってはじめて「神の子」という、その名にふさわしい尊い者となれるのです。 SC 1937.5

このような愛に比べ得るものは何もありません。天の王子となるというのです。なんと尊いみ約束でしょう。これは深いめい想に価する主題です。神を愛さなかった人類へのたぐいもない神の愛です。この愛を考える時心はへりくだり、神のみ旨のままに従うようになります。そして、十字架の光に照らされて、神のご性質を学べば学ぶほど神の恵みとあわれみを知り、神の公平と正義とゆるしとが一つになっていて、放蕩息子を思いやる母親にも勝る限りない優しい愛の、数知れない証拠を認めることができるのです。 SC 1937.6