キリストへの道

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キリストの必要

初め、人は優れた能力と調和の取れた精神を与えられていました。彼はまた人として完全で神と調和し、思想も純潔で、清い目的をもっていました。けれども、神に背いたためその能力は悪に向けられ、愛は利己心と変わってしまいました。罪のため人の性質はすっかり弱められて、自分の力では悪の勢力と戦うことができなくなりました。こうして悪魔のとりことなってしまったのですから、もし、神が特別に救ってくださらなかったならば、いつまでもそのままの状態でいたことでしょう。悪魔は、人類を創造なさった神のご計画を妨害し、この世を悲しみと破壊で満たそうと思いました。そして、こうした災いはみな神が人類を創造された結果であると言おうとしたのです。 SC 1938.1

人は、罪を犯す前には「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ2:3)キリストとの交わりを楽しむことができました。けれども罪を犯して後は、もはや清いことを楽しめなくなり、神のみ前から隠れようとしました。今日でも、新生を経験しない人の状態は同じで、彼らは神と一致していないため神と交わることを喜ばないのです。罪人は神のみ前では楽しむことはできません。彼らは、清い人々との交わりを避けようとします。たとえ天国に入ることが許されても、少しも喜びとはならないでしょう。天国では無我の愛の精神が満ち満ちていて、限りない神の愛をすべての心が反映しているのですが、そうした精神も、罪人の心にはなんの感動も与えないことでしょう。そして、その思想も興味も動機も天国に住む罪なき人々の気持ちとは全く異なっていることでしょう。彼らは天国の美しい音楽と調和しないものとなるのです。天国はあたかも苦しいところのように思われ、光であり喜びの中心である神のみ顔を避けようとすることでしょう。悪人は天国に入れないというのは、何も神が独断的にお定めになったのではありません。それは、彼ら自らがそうした交わりに不適当な者となってしまったからです。神の栄光は、罪人にとっては焼きつくす火です。罪人は、自分たちをあがなうために死なれたキリストのみ顔を避けて滅ぼされたいと望むようになるのです。 SC 1938.2

私たちは、自分の力で1度沈んだ罪の淵から逃れることはできません。また、私たちの悪い心を変えることもできないのです。「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか、ひとりもない」(ヨブ14:4)、「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:7)とあります。教育、教養、意志の力、人間の努力などいずれも、それぞれ大切な役割を持ってはいますが、心を新たにする能力は全くないのです。もちろん、私たちの行動にただ外面的な正しさは与えるかも知れませんが、心を変えることもできなければ、生活の源泉を清めることもできないのです。天よりの新しい生命がその人の内部に働かなければ、人は罪より清められることはできません。この力というのはキリストです。キリストの恵みのみが人の力なき魂を生きかえらせて、これを神と清きに導くことができるのです。救い主も「だれでも新しく生まれなければ」と言われました。すなわち、新しい生涯を送るための新しい心、新しい希望、目的、動機などが与えられなければ、「神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)のです。人は、生まれながらに持っている良いところをのばせばよいという考えは恐ろしい誤りです。聖書には、「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(Ⅰコリント2:14)、「あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない」(ヨハネ3:7)とあります。また、キリストについては「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1:4)、「この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)としるされて います。 SC 1938.3

人はただ、神の愛といつくしみ、また、父親のような優しさを悟っただけでは十分でありません。また神のおきてにあらわれた知恵と正義とを認め、おきてがいつまでも変わらない愛の原則の上にたてられていることを認めただけでも十分とはいえません。使徒パウロはこのことをよく知って、「もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる」「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」(ローマ7:16、12)と叫んだのですが、なおつけ加えて「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである」(ローマ7:14)と言ったのは、言うに言われぬ苦痛と失望があったからです。彼は純潔と正義とを求めてやみませんでしたが、彼自身にはそこまで達する力はありませんでした。そしてついに、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ7:24)と叫んだのです。こうした叫びは、どこにおいても、どんな時代にも、罪の重荷に悩む人々の心から等しくほとばしり出たものです。こうした人々への答えは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)というみ言葉よりほかにはありません。 SC 1939.1

神の聖霊は、罪の重荷から逃れたいと望んでいる魂にいくつも例をあげて、この真理をわかりやすく説明しています。ヤコブはエサウを欺いて罪を犯し、父の家を逃れた時、いい知れぬ罪の重荷でおさえつけられるように感じました。今までの楽しかった生活をあとにして、1人寂しく家を追われていく彼に、何よりもまず気になったのは犯した罪のために神から切り離され、天より全く見捨てられてしまったのではないかということでした。こうした悲しい心をいだいて、着のみ着のまま土の上に横たわる彼の周囲には、寂しく丘が起伏し空には星が明るくまたたいていました。彼が夢路に入ったかと思うと、不思議な光がまぼろしのうちに目の前に輝き出ました。それは、今自分が眠っている原野から、大きな影のようなはしごが天の門まで通じているかのように見え、その上を神の使いが上ったり下りたりしていました。そして輝く栄光のかなたから、慰めと希望にみちた神のみ声が聞えてきて、彼の心の求めと望みを満たすのは救い主であることを知らされたのです。彼は罪人である自分がもう一度神と交わることができる道を示されて、喜びと感謝に満たされました。ヤコブの夢にあらわれた不思議なはしごは、神と人類の間のただ1人の仲保者イエスを代表したものです。 SC 1939.2

キリストがナタナエルと語られた時、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」(ヨハネ1:51)と言われたのは、これと同じことを指していたのです。人間は神に背いて自ら神に遠ざかり、ついに地は天より切り離されてしまいました。このだれも渡ることができない深い淵を、再びつないで地と天と結びつけてくださったのはキリストです。キリストは御自らの功績によって罪の結果である深い淵に橋をかけ、奉仕の天使が人との交わりを続けることができるようにしてくださいました。キリストは、罪に沈んだ弱い無力な人間を限りない力の源につないでくださるのです。 SC 1939.3

人間がいかに進歩を夢み、人類向上のためいかに努力を惜しまないとしても、堕落した人類にとってただ一つの希望である助けの源泉に頼らなければ何の役にもたちません。「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は」(ヤコブ1:17)神より与えられます。神を離れては真にすぐれた品性をもつことはできません。そして神へのただ一つの道はキリストです。キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と言われました。 SC 1939.4

神は、死よりも強い愛をもって、地上の子らに思いをかけておいでになります。神がひとり子をお与えになったということは、全天をそそぎだして、一つの賜物として与えられたということなのです。救い主の生涯、死、その執り成し、天使の奉仕、聖霊の懇願これ らいっさいのものを通じて働いておいでになる父なる神と、天の住民たちの絶えざる関心などが、ことごとく人の救いのために力をそえているのです。 SC 1939.5

私たちのために払われた驚くほどの犠牲を静かにめい想してみましょう。ひとたび失われたものを呼びかえし、父なる神の家に連れもどすためには、天はあらゆる努力を惜しまないことを感謝いたしましょう。これにまさる動機や力ある方法は、他ではどこにも見いだすことはできません。正しい行為に対する大いなる報酬、天上の喜び、天の使との交わり、神のみ子の愛との交わり、また永遠にわたって私たちのあらゆる能力がのばされ、高められていくことなどは、私たちの創造主、あがない主に心から愛の奉仕をさせずにはおかぬ刺激であり、奨励ではないでしょうか。 SC 1940.1

ところが一方、罪に対する神の審判、必然的な報い、品性の堕落、そして最後の滅亡などがみ言葉にしるされているのは、私たちに悪魔の働きを警告するためです。 SC 1940.2

私たちは神のあわれみを無視してもいいでしょうか。神は一体これ以上何をなさることがあるでしょうか。驚くばかりの愛をもって私たちを愛された神との正しい関係に立ち帰りましょう。そして与えられた方法を最もよく用いて神のみかたちに変えられ、もう一度天使と交わることを得て、父なる神とみ子とに一致し、その交わりにはいることができるようにしたいものです。 SC 1940.3