キリストへの道

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悔い改め

人は、どのようであったら神の前に正しいと言えるでしょうか。罪人は、どうすれば義とされるのでしょうか。私たちは、ただキリストによってのみ神と一致し、清くなることができます。それでは、どうすればキリストのもとに行くことができるでしょうか。ペンテコステの日に群衆が罪を悟って、「わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と叫んだように、今日、多くの人々は同じ質問をしています。ペテロは、「悔い改めなさい」(使徒行伝2:38)と言い、また「自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」(使徒行伝3:19)とも言っています。 SC 1940.4

悔い改めとは、罪を悲しむことと罪を離れることを含みます。人は、罪の恐ろしさを知るまでは罪を捨てるものではありません。心の中で全く罪から離れなければ、生活に本当の変化は起こらないのです。 SC 1940.5

悔い改めの意味を本当にわかっていない人が多くあります。罪を犯したことを嘆き、外面的には改める人もありますが、それはその悪事のために苦しみにあわねばならぬことを恐れるからです。しかし、これは聖書に教えられた悔い改めではありません。彼らは罪そのものよりは、むしろ罪からくる苦しみを悲しむのです。エサウが家督の権を永久に失ってしまったと気づいた時の悲しみがそうでした。また、バラムは、自分の行く手に剣をぬいた天使が立ちふさがっているのを見て、命が奪われるのではないかと恐れ、自分の罪を認めたのです。けれどもそれは、罪に対する純真な悔い改めではなく、目的を全く変えるのでもなければ悪を嫌悪するのでもありませんでした。イスカリオテのユダは主を裏切ったあとで、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」(マタイ27:4)と叫びました。 SC 1940.6

ユダは、恐るべきさばきと自分の犯した罪のため、自責の念に耐えかねてこういう告白をせずにはいられなかったのですが、それは自分の身にふりかかってくる結果を恐れたためで、傷なき神のみ子を裏切り、イスラエルの聖者を拒んだことを深く心の底から悔いたのではありませんでした。パロも、神の刑罰を受けて苦しんだ時、それ以上の刑罰を逃れるため自分の罪を認めましたが、災いがやむと、また、前のように神にそむいたのです、これらの人々はみな罪の結果を嘆いたのであって、罪そのものを悲しんだのではありませんでした。 SC 1940.7

けれども人の心が神の聖霊の感化に服従するならば、良心は呼びさまされ、罪人は神の聖なるおきて のいかに深くまた聖なるものであるかを悟り、これこそ天地を治めておいでになる神の政治の基礎であると知るようになるのです。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1:9)とある、その光に心の奥底を照らされ、また暗きにかくれた事柄を照し出されて、心も魂も自分は罪ある者であるという思いでいっぱいになります。そして正しく、また人の心を探りたもうエホバの神の前に、罪と汚れのまま立っことを恐れます。こうして神の愛、聖潔の美、純潔の喜びを認め、自分も清められて神との交わりに立ち帰りたいと切望するようになるのです。 SC 1940.8

ダビデが罪を犯した後にささげた祈りは、罪に対する悲しみをよくあらわしています。彼は真面目に、心の底から悔い改めたのです。自分の罪を弁解しようとするのでもなければ、恐ろしい刑罰を逃れようという気持ちから祈ったのでもありません。ダビデは自分の罪の恐ろしさと魂の汚れを認めて、自分の罪を憎んだのです。彼が祈ったのは、罪のゆるしばかりでなく心が清められることでした。また聖潔の喜びを切望し、もう一度神とやわらぎ、神との交わりに入りたいと願ったのです。彼の心から次のような言葉があふれ出ました。 SC 1941.1

「そのとががゆるされ、 SC 1941.2

その罪がおおい消される者はさいわいである。 SC 1941.3

主によって不義を負わされず、 SC 1941.4

その霊に偽りのない人はさいわいである」 SC 1941.5

(詩篇32:1、2) SC 1941.6

「神よ、あなたのいつくしみによって、 SC 1941.7

わたしをあわれみ、 SC 1941.8

あなたの豊かなあわれみによって、 SC 1941.9

わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。…… SC 1941.10

わたしは自分のとがを知っています。 SC 1941.11

わたしの罪はいつもわたしの前にあります。…… SC 1941.12

ヒソプをもって、わたしを清めてください。 SC 1941.13

わたしは清くなるでしょう。 SC 1941.14

わたしを洗ってください、 SC 1941.15

わたしは雪よりも白くなるでしょう。…… SC 1941.16

神よ、わたしのために清い心をつくり、 SC 1941.17

わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。 SC 1941.18

わたしをみ前から捨てないでください。 SC 1941.19

あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。 SC 1941.20

あなたの救いの喜びをわたしに返し、 SC 1941.21

自由の霊をもって、わたしをささえてください。…… SC 1941.22

神よ、わが救いの神よ、 SC 1941.23

血を流した罪からわたしを助け出してください。 SC 1941.24

わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう」 SC 1941.25

(詩篇51:1~14) SC 1941.26

このような悔い改めは、自分の力ではとてもできるものではありません。これは天にお上りになって、人類に聖霊の賜物を与えたもうキリストによるほかないのです。 SC 1941.27

ところがここで考え違いをして、せっかく、キリストが与えようとしておいでになる助けを受けない人が多いのです。つまり彼らは、まず悔い改めなければキリストに近づけない、悔い改めは罪のゆるしを受ける準備であると思っています。もちろん悔いくずおれた心だけが救い主の必要を感じるのですから、悔い改めが罪のゆるしに先だつのは当然です。それでは、罪人は悔い改めるまではイエスのもとに行かれないのでしょうか。悔い改めが罪人と救い主との間の障害物となってよいものでしょうか。 SC 1941.28

聖書は「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)というキリストの招待は、罪を悔い改めなければ受けることができない、とは教えていません。罪人が真に悔い改めるようになるのは、キリストから出る力によるのです。ペテロはこの点をはっきり述べて「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである」(使徒行伝5:31)とイスラエル人に言っています。私たちは、キリストなくしてはゆるしが与えられないのと同じように、キリストの霊が良心を呼びさまさなければ 悔い改めることができないのです。 SC 1941.29

キリストはすべての正しい動機の根源であって、彼のみが人の心のうちに罪を憎む心を植えつけることができるのです。真理や純潔を求めること、自分の罪深さを認めることなどはみな、キリストの霊が私たちの心に働いている証拠です。 SC 1942.1

イエスは「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)と言われました。キリストは世の罪のために死なれた救い主として罪人の前に示されなければなりません。カルバリーの十字架にかけられた神の小羊をながめる時にはじめて、説明することのできない贖罪の神秘が私たちの心にも理解され、神の恵み深きことが私たちを悔い改めへと導くのです、キリストは罪人のために死なれ、はかり知れない大きな愛をあらわしてくださいました。罪人がこの愛を知るとき、深い感銘を受けて心はやわらげられ、悔い改めへと導かれるのです。 SC 1942.2

もちろん、人は自分がキリストに導かれていることを意識する前に、罪深い行為を恥じて悪い習慣をやめることがあります。けれども、人が正しいことをしたいと切望して改めようと努力する時はいつでも、キリストの力が働いて彼らを引きつけているのです。自分たちは意識してはいないけれども、その力が心のうちに働いて良心を呼びさまし、行為が改められるのです。やがてキリストに導かれて十字架を見せられ、自分たちの罪が彼を刺し通したことを知る時、おきての何たるかが良心にはっきりと焼きつけられ、悪にみちた生活や心の底深くに根ざした罪が示されます。彼らはキリストの義とは何であるかを幾らかでも理解するようになり、「ああ、なんと罪は恐ろしいものだろう。罪のとりこになった者を救うためにはこのような大きな犠牲が払われなければならなかったのか、私たちが滅びず永遠の生命を受けるためにはこのような大きな愛、恐ろしい苦しみ、また、はずかしめが必要であったのか」と叫ばずにはいられなくなります。 SC 1942.3

罪人はこの愛を拒み、キリストに引かれることを拒むこともできますが、逆らいさえしなければ自然にイエスに引きよせられるのです。そして救いの計画を知るようになると、自分の罪が神の愛するみ子をこのように苦しめたことを悔いて、十字架のもとにひざまずくのです。 SC 1942.4

自然界にも働いているこの同じ神のみ心は、人の心に呼びかけ、人が持ち合わせていない何ものかに対する表現しがたい渇望を起させるのです。この世のものではいかにしても彼らの渇望を満たすことはできません。聖霊は、心に真の平安を与えうる唯一のものであるキリストの恵みと、清めの喜びを求めるように訴えています。私たちの救い主は絶えず、見える見えないにかかわらず、さまざまの力を用いて、満足のない罪の快楽を離れ、キリストによって与えられる限りない祝福を求めるよう、私たちの心に働いておいでになります。この世の渇ききった泉のほとりで、飲もうとしても飲むことのできない人々に、み言葉は、「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録22:17)と呼びかけています。 SC 1942.5

あなたがたのうちで、この世の与えるものよりもさらに良いものを心の中で求めておられる方は、その心の願いが魂へ呼びかける神のみ声であることにお気づきになるでしょう。どうかそのときは、神が悔い改めを与えてくださるように、そして限りない愛にあふれた全く純潔そのものの姿のキリストをお示しくださるように祈っていただきたいのです。救い主は、神のおきての原則、すなわち神と人とを愛するということを、その生涯において完全に実行されたのです。また、慈悲と無我の愛が救い主のいのちでした。ですから私たちが救い主をながめ、救い主の光に照らされるとき、はじめて自らの心の罪深さが見えてくるのです。 SC 1942.6

私たちもニコデモのように、自分の生活は正しくて道徳的にも間違っていないとうぬぼれ、ふつうの罪人のように神の前にへりくだる必要がないと考えているかも知れませんが、ひとたびキリストの光が心の中にさしこむとき、自分たちがどんなに汚れているかがわかるのです。また何をするにも自分の利益ばかり考え、神に逆らい、日常のあらゆる行動が汚れていた ことを悟るのです。そして、私たちの義は汚れた衣のようであって、キリストの血のみが罪の汚れより清め、彼のみ姿にかたどって、私たちの心を新たにすることを知るのです。 SC 1942.7

神の栄光のただ一筋でも、あるいはキリストの純潔のひらめきでも、人の心に照りこむとき、心の汚れの一つ一つが痛々しいまでに、はっきりと見せられ、人の性質の欠点、欠陥があますところなく示されるのです。それは汚れた欲望、不誠実、汚れたくちびるなどをはっきりと見せるのです。罪人の日には、神の律法を無視した不誠実な行いが、はっきりと見せられ、人の心を探る聖霊に打たれ苦しめられます。そして、キリストの純潔無垢のご人格をながめて、自分を忌みきらうようになります。 SC 1943.1

かつて預言者ダニエルは、自分に天使がつかわされた時、その天使の栄光をながめて、自らの弱さと不完全さを感じ、気を失ってしまったのです。その驚くべき光景にうたれ、「力が抜け去り、わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった」(ダニエル10:8)と語りました。このように、ひとたび、感動をうけた心は、我欲を憎み、利己心を忌みきらい、キリストの義によって神の律法、またイエスの品性に調和した心の純潔を求めるのです。 SC 1943.2

パウロは「律法の義については(外部にあらわれた行為)落ち度のない者である」(ピリピ3:6)と言いましたが、ひとたび、おきての霊的精神が理解されたとき、自分は罪人であると悟ったのです。人がおきてを外的生活にあてはめ、おきてを字義的に解釈すれば、彼は罪を犯していなかったと言えるのです。しかし、その聖なる条文の深い精神を見つめ、神がご覧になるように自らを見つめたとき、心へりくだってみ前に伏し、自らの罪を告白したのです。彼は「わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ」(ローマ7:9、10)と語りました。ひとたび、おきての霊的精神がわかったとき、罪の醜さがそのまま、ありありと見せられ、白尊心は失せ去ったのです。 SC 1943.3

神は、どの罪もみな同じであるとは思われません。人間と同じようにやはり大小、軽重の区別をされます。けれども、人の目にどんなに小さく見える悪事でも、神の前には、決して小さい罪というものはありません。人の判断はかたよって不完全なものですが、神はすべてをそのあるがままにお量りになります。例えば飲酒家は軽蔑されて、とても天国には行かれないと言われますが、その反面、高慢、我欲、どん欲などは責められず、見過ごしにされがちです。しかし神は、こうした罪を特に嫌われるのです。というのは、これは神のあわれみ深い品性に反し、堕落しない宇宙に満ちている無我の愛の精神に反するからです。何か大きい罪を犯した者は自ら恥じ入り、卑しさを感じ、キリストの恵みの必要を感じますが、高慢な者は何の必要も感じないため、キリストに対して心を閉じてしまい、キリストが来て、与えようとなさる無限の祝福を受けることができないのです。 SC 1943.4

「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(ルカ18:13)と祈ったあわれな取税人は、自らを大悪人であると認めました。また他の人々も同じように、彼をそう見なしていました。しかし彼は、自分の必要を感じ、罪の重荷と恥をいだいたまま神のみ前に出て、あわれみを請うたのでした。彼の心は聖霊の恵みある働きにより、罪の力から解放されるため開かれていました。一方、高ぶって自己を義としていたパリサイ人の祈りは、聖霊の働きに対して心を閉じていたことがわかります。彼は、神から遠く離れていたので、神の全き神聖さと比べてみて、自分がどれほど汚れているかを感じませんでした。そして彼は必要を感じなかったので、何も受けることができませんでした。 SC 1943.5

もし、自らが罪深いことに気づいたならば、自分でよくしようなどと思って待ってはなりません。自分はキリストのもとに行くにはふさわしくない、と思っている人が何と多いことでしょう。自分の力で良くなれるとでも思っているのでしょうか。「エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひようはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる」(エレミヤ13:23)とあります。私たちを助けてくだ さるのは神のみです。もっと強い確信、もっといい機会、あるいは、もっと清められた性質を持つまで、などと待ってはなりません。私たちは自分の力では何もできないのですから、ありのままでキリストに行くほかないのです。 SC 1943.6

しかし、神は愛と恵みに富まれるからといって、その恵みを拒む者まで救ってくださると思い、自らを欺いてはなりません。罪がいかに恐るべきものであるかは、十字架の光に照らされてはじめてわかるのです。神はあわれみ深いお方なので罪人をお捨てにはならないと説く者があれば、そういう人はカルバリーの十字架を見るべきです。というのは、人の救われる方法、つまり人類が汚れた罪の力から逃れ、聖なる者との交わりに立ち帰り、再び霊的生活にあずかる者となるには、キリスト自ら不従順の罪を負い、罪人のかわりにお苦しみになるよりほかに方法がなかったのです。神のみ子の愛と苦難と死はみな、罪がいかに恐ろしいものであるかをあかしし、キリストに心を全く任せるよりほかには、その罪の力より逃れることも、向上した生活への希望もないことを明らかにしています。 SC 1944.1

悔い改めない人は、クリスチャンととなえる人々のことを口実にして「私もあの人たちと同じぐらい善良だと思う。あの人々が自分よりも真面目で、慎重に行動しているとは思われない、私と同じように快楽を愛しているし、わがままもする」と言います。こうして彼らは他人の欠点を拾い上げて、自分の義務を行わなくてもいいと言いわけしているのです。しかし、他人の罪や欠点は言いわけにはなりません。なぜならば、主は私たちに間違いの多い人間を模範としてお与えになったのではないからです。私たちの模範として与えられたのは、傷のない神のみ子です。クリスチャンの間違いをかれこれ言う人こそ、より良い生活、より良い模範を示さなければなりません。クリスチャンについて、こうなければならないとそれほど高尚な意見を持っているとするならば、彼らの罪はかえってそれだけ大きくはないでしょうか。なぜならば、彼らは正しいと知りながら実行しようとしないからです。 SC 1944.2

延ばさないように気をつけましょう。罪を捨てることを延ばし、イエスによって心を清めていただくことを遅らせてはなりません。この点で幾千という人が誤り、永久に滅びてしまいました。私は今、人生の短いことや、はかないことを言おうというのではありませんが、ここに人の気づかない恐ろしい危険があります。それは、聖霊のささやきに従うことを延ばし罪の生活を続けていくという恐ろしい危険です。これは実に恐ろしいことです。たとえどんなに小さくても、罪にふけることは、永遠に失われる危険をおかしているのです。 SC 1944.3

私たちが打ち勝たないものは、やがて私たちを打ち破り、ついには私たちを滅びにいたらせるのです。 SC 1944.4

アダムとエバは、禁断の木の実を食べるということは、ほんの小さいことであるから、神が宣告されたような恐ろしい結果とはなりえないと、自ら思い込んでしまいました。しかし、この小さいことが神の変わることのない清いおきてを犯し、人を神から引き離し、この世に死と、言い尽されぬ災いをもたらしたのです。それ以来、いつの代にも、嘆き、悲しみの声が地より上がり、すべての被造物が人間の不従順の結果、うめき苦しんできたのです。天そのものさえ、人間の神への反逆の結果を感じました。カルバリーの十字架は、神のおきてを犯した罪をあがなうため払わなければならなかった驚くべき犠牲の記念碑として立っていま風ですから、罪は小さいものであると考えてはならないのです。 SC 1944.5

どんな罪の行為でも、また、キリストの恵みをおろそかにし拒んだりするどんな行為でも、その一つ一つが自分にまた返ってきます。そして心はかたくなになり、意志のカは衰え、理解力は麻痺し、ますます聖霊の優しいささやきに従わないようになるばかりでなく、従うことができないようになってきます。 SC 1944.6

けれども、世の中には、悪い行為を変えようと思えばいつでもできる、また、あわれみの招待を軽んじながら、なお聖霊の声に耳を傾けることはいつでもできると思って、良心の苛責を静めようとしている人々がたくさんいます。彼らは、恵みの霊を侮り悪魔にくみしていても、いよいよ動くに動けない窮地に陥った 時には方向を変えることができると思っています。しかし、それはそうたやすくできるものではありません。一生涯の経験や教育はすっかり人の性格を形づくってしまっているので、その時になって、イエスのみかたちを受けたいと望むことはほとんどないのです。 SC 1944.7

たとえそれがどんな小さい悪癖、どんな欲望であっても、いつまでも心の中でもてあそんでいれば、終わりには福音のすべての力を無にしてしまいます。魂は罪にふけるごとに、神をきらう心が強くなります。頑固に神を信じようとせず、真理に対して全く冷淡であるという人は、ただ自分のまいた種を収穫しているにすぎません。いにしえの賢人は、罪人は「自分の罪のなわにつながれる」(箴言5:22)と言いましたが、悪をもてあそぶことが恐ろしいということをこれほど適切に忠告しているものはありません。 SC 1945.1

キリストは、いつでも私たちを罪より解放しようとしておられます。けれども私たちの意志を強いることは決してなさいません。もし、私たちがどこまでも罪を犯し続ける結果、意志は全く悪に傾き、罪より解放されることを望まず、キリストの恵みを受け入れようとしないならば、いったいキリストは何をなさることができましょう。 SC 1945.2

私たちは彼の愛をどうしても受けようとしないため、自らを滅びに陥れるのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(Ⅱコリント6:2)。「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、……心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル3:7、8)。 SC 1945.3

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル上16:7)。人の心には、喜びと悲しみがあるかと思えば、横道にそれようとするわがままな心があって、さまざまの不純と虚偽が宿っています。神は、その動機、意図、また日的そのものをごらんになるのです。汚れたそのままの心で神のみもとに行きましょう。詩人がうたったように、すべてをご覧になる神にすっかり心を開け放して「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください」(詩篇139:23、24)と呼ばわりましょう。 SC 1945.4

世には宗教を頭だけで受け入れ、敬虔の形だけを受け入れて、心の清められていない人が多くあります。私たちは「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」(詩篇51:10)と祈りましょう。自分の魂の状態を吟味し、身に危険が迫っていると思って、たゆまず、また熱心でなければなりません。これは、神とあなたの魂との間で解決されるべき問題、永遠に決定すべき問題です。ただ、そうあればよいと望んでいるだけで、それ以上何もしないならば滅びるよりほかありません。祈りと共に神のみ言葉を研究してみるならば、み言葉は神のおきてとキリストの生涯を通して、清めという大原則を教えていることを知り、また、この清めがなくては「主を見ることはできない」(ヘブル12:14)ということがわかってくるのです。またそれは、罪と救いの道を明らかに示します。私たちは、これを神が魂に語るみ声として、耳を傾けなければなりません。 SC 1945.5

罪の恐ろしさを知り、自分自身をありのまま見つめるとき、絶望してはなりません。キリストは罪人を救うためにおいでになりました。私たちは、何も自分で神とやわらぐのではありません。——ああ、なんと驚くべき愛でしょう——神はキリストによって、「世をご自分に和解させ」(Ⅱコリント5:19)られたのです。神は優しい愛をもって、道に迷った神の子らの心を求めておられます。世の中のどんな親であっても、神が救おうとしておられる人々を忍ばれるほどに、子供たちの失敗やあやまちを忍ぶことはとうていできません。誰も、これほどの優しさをもって、罪を犯した者に訴えることはできません。また、これほど優しく迷える者を呼び返そうとした方はありません。神のみ約束もこ警告もみな、言葉ではあらわすことのできない愛の息吹きにほかならないのです。 SC 1945.6

悪魔がきて、あなたは恐ろしい罪人であると言うならば、あがない主を仰ぎその功績を語りなさい。キリストの光をながめることは大きな助けになります。自分の罪を認めるとともに敵には、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」(Ⅰテモテ 1:15)と告げねばなりません。そして、その測り知れない愛によって救われることを語りなさい。イエスはシモンに、2人の借財ある者について質問なさいました。1人の負債は少額でしたが、もう1人は多額の負債を持っていました。しかし主人は2人ともゆるしました。さて、キリストはシモンに、どちらが主人を深く愛したであろうかとお尋ねになりました。シモンはそれに答えて「多くゆるしてもらったほうだと思います」(ルカ7:43)とこたえました。私たちは大いなる罪人でしたが、私たちがゆるされるためにキリストは死なれたので、彼の犠牲の功績は私たちのかわりに神の前にささげられるに十分でした。最も多くゆるされた者がキリストを一番愛するようになり、その御座の最も近くに立って、その大きな愛と限りない犠牲をほめたたえるのです。神の愛が本当によくわかった時に、罪の深さがわかるのです。私たちを救うために下げられている鎖の長さを知り、キリストが身代わりになって払われた限りない犠牲をいくらかでも悟るとき、心は言い知れぬ感謝にあふれ、悔いくずおれずにはいられないのです。 SC 1945.7