患難から栄光へ

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第二〇章パウロの第二次伝道旅行

本章は使徒行伝一五章三六節-四一節、一六章一節-六節に基づく AAJ 216.1

アンテオケでしばらくのあいだ伝道をしてのちパウロは、また別の伝道旅行に出かけることを仲間に提案した。「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」と彼はバルナバに言った。 AAJ 216.2

パウロとバルナバは、自分たちの働きにより少し以前に福音使命を受け入れていた人々への、優しい心づかいを持っていたので、もう一度その人々に会いたいと思っていた。パウロはこの心づかいを忘れなかった。たとえ遠い伝道地にいても、以前に働いた場所からはるかに離れた所にいてもパウロは「神をおそれて全く清くなろうではないか」と改宗者たちを励まして、信仰を守り通させる重荷を持ち続けていた(コリント第二・七ノ一)。彼は絶えず彼らを助けて自信を持たせ、成長するクリスチャンとなり、信仰を強め、熱意を燃やし、誠意をこめて神とみ国の到来を早める働きへと献身させようとした。 AAJ 216.3

バルナバは、パウロと一緒に行くつもりであったが、決心を新たにして伝道に献身したマルコも連れて行きたいと思った。だがパウロはこれに反対だった。彼は、第一次伝道旅行の際いざというときに離れて行ったような者は「連れて行かないがよいと考えた」。彼は、家庭生活の安全と楽しみのために働きを放棄するようなマルコの弱さを、ゆるす気になれなかった。そんなに耐久力のない者は、忍耐、克己、勇気、献身、信仰、心からの犠牲、いや必要ならば生命さえも要求する働きには向かないと、パウロは主張した。こうして激論となり、その結果ふたりは互いに別れ別れになり、バルナバは自分の主張したとおりにマルコを連れて行った。「バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。」 AAJ 217.1

パウロとシラスは、シリヤ、キリキヤの地方を通って、諸教会を力づけ、それからルカオニヤ地方のデルベとルステラにたどりついた。パウロが石で打たれたのはルステラにおいてであったが、彼はいままたこの以前の危険な場所に姿を現している。彼は自分の骨折りによって福音を受け入れた人たちが、試練に耐えているのを見たかったのである。彼は失望しなかった。ルステラの信者たちが、激しい反対に会いながら、信仰を固く持ちつづけているのを見たからである。 AAJ 217.2

ここでパウロは、ふたたびテモテに会った。テモテは、パウロが初めてルステラをおとずれた時の終わりごろ、パウロが受けた苦難を目撃し、そのとき心に受けた印象が時がたつにつれてますます深くなり、伝道の働きに全的に献身することが自分の義務であると、確信するようになっていた。彼の心はパ ウロの心に固く結びつけられ、道が開けるならばパウロを助けて働きを共にしたいと熱望していた。 AAJ 217.3

パウロと共に働いていたシラスは、預言の霊をさずけられており、頼りになる働き人であった。しかしなすべき仕事があまりにも多かったので、とにかく活発に仕事をしてくれる働き人を、もっと養成する必要があった。パウロはテモテが、牧師の働きの尊さを理解し、前途の苦難や迫害にも動揺せず、よろこんで指導を受ける人だと見ていた。それでもなおパウロは、まずテモテの性格や過去の生活が、十分満足すべきものだということがわかるまでは、この未経験な若者に福音伝道の訓練を与える責任を負うことはあえてしなかった。 AAJ 218.1

テモテの父はギリシヤ人で、母はユダヤ人であった。テモテは子供のころから聖書を知っていた。彼が自分の家庭で見た信仰は、健全で良識的であった。聖書に対する彼の母と祖母の信仰は、彼に神のみこころをなすことの祝福を絶えず思い出させた。神のみことばは、これら二人の敬虔な婦人たちがテモテを導いた原則であった。この二人から受けた教訓の霊的な力によって、彼の語ることは純潔で、彼は周囲の悪影響にけがされなかった。このように、家庭の訓育者たちは、神と協力して、彼が重荷を負う準備をしたのであった。 AAJ 218.2

パウロはテモテが誠実で、しっかりしていて、正直だと知って、自分と共に働き、伝道旅行をする相手として彼を選んだ。子供のころのテモテを教育した人々は、自分たちの世話した息子が、偉大な使徒と親しく交わっているのを見て報われた。教師として神から選ばれたとき、テモテはただの若者にすぎ なかった。しかし初期の教育によって彼の信念は確立されており、彼はパウロの助手としての地位を受けるにふさわしかった。彼は若かったがクリスチャンの素直な心で責任を引き受けた。 AAJ 218.3

予防手段として、パウロは賢明にもテモテに、割礼を受けるようにすすめた。それは神が要求されたからではなく、ユダヤ人の心から、テモテの奉仕にじゃまとなるようなものを取り除くためであった。パウロは伝道の仕事で、町から町へと多くの地を旅行し、いろいろの集会所やユダヤ人の会堂でも、キリストを説く機会にしばしば恵まれた。それで、もし彼と共に働く者のひとりが、まだ割礼を受けていないことがわかると、彼の働きはユダヤ人の偏見と頑迷さによってじゃまされたことだろう。使徒はいたるところで断固とした反対や厳しい迫害に会ったのである。彼はユダヤ人の兄弟にも異邦人の兄弟にも、福音の知識を伝えたいと思ったので、自分の信仰に反しないかぎり、反対の口実をすべて除こうとした。彼はユダヤ人の偏見にそこまで譲歩したが、それでもなお、割礼や無割礼は問題ではなく、キリストの福音こそ最も重要なものであると信じて、そのように教えた。 AAJ 220.1

パウロは「信仰による・・・・真実な子」テモテを愛した(テモテ第一・一ノ二)。この偉大な使徒はしばしば、聖書の歴史についてこの若い弟子に質問しては話を引き出した。またふたりで旅行してまわるときには、働きを成功させる方法を注意深く教えた。パウロもシラスも、テモテと一緒にいるときにはいつでも、すでにテモテが心に受けとめている福音伝道の働きの尊さ、重大さを、より深く彼の心に植えつけようとした。 AAJ 220.2

テモテはその働きにおいて、絶えずパウロに忠告や指示を求めた。彼は衝動的に行動することなく、一歩ごとにこれは主の方法だろうかとたずねながら、慎重に落ち着いて考えた。聖霊はテモテを、神が内住される宮として形づくることのできる者と見られた。 AAJ 221.1

聖書の教訓が日常生活の中に徐々に入って行くとき、それは品性に深く、永続的な感化を及ぼす。このような教訓をテモテは学び、実行した。彼は、特にすぐれた才能を持っていたわけではないが、神からさずけられた能力を主のご用のために用いたので、彼の働きには価値があった。彼の、経験に基づく敬神の知識は、ほかの信者たちの中でも抜群で、影響力があった。 AAJ 221.2

魂のために働く人々は、普通の努力で得られる以上により深く、完全に、明確に、神についての知識を得なければならない。彼らは主の働きに全力を注がなければならない。彼らは高く聖なる召しを受けている。そしてその報酬として魂を得るのであれば、彼らはすべての祝福の源であられる神から、日毎に恵みと力を受け、神にしっかりつかまっていなければならない。「すべての人を救う神の恵みが現れた。そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」(テトス二ノ一一-一四)。 AAJ 221.3

パウロとその一行は、新しい地方へ向かう前に、ピシデヤとその周辺の地方に設立した教会をたずねた。「彼らは通る町々で、エルサレムの使徒たちや長老たちの取り決めた事項を守るようにと、人々にそれを渡した。こうして、諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数を増していった。」 AAJ 222.1

使徒パウロは、自分の働きによって改宗した人々に対して、重い責任を感じていた。何よりも彼らが信仰を持ち続けて、「キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる」ようにと彼は切望した(ピリピ二ノ一六)。パウロは自分の伝道の結果を気づかっていた。彼は、もし自分が、自分の義務を果たさないならば、また、教会が救霊の働きにおいて、自分と協力できないとすれば、自分自身の救いさえも危くなると感じた。信者にいのちのことばを伝えさせる教育を施すには、説教だけでは十分でないことを彼は知っていた。キリストのみわざを進展させるためには、規則に規則を、教訓に教訓を、ここにも少し、そこにも少しと教えなければならないことを彼は知っていた。 AAJ 222.2

神から与えられた力を用いることを拒むときはいつでも、これらの力が衰退して、消滅するということは、宇宙の原則である。生かされていない真理、告げられない真理は、そのいのちを与える力やいやしの効力を失う。このゆえに、彼らをキリストにあって全きものとして立たせることができなくなるのではないかと使徒はおそれた。パウロは、教会を神にかたどるどころか、人にかたどってしまう結果になるような自分のがわの失敗のことを考えるとき、天国への希望が薄らいでいく思いであった。彼が働 きかけていた人々が、神の恵みを受けられずに、彼の働きが失敗に終わったら、彼の知識も、雄弁も、奇跡も、第三の天に引き上げられたときの永遠の光景に関する見解も、すべては無益になるだろう。そこで彼は、キリストを受け入れていた人々が、「責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるため・・・・いのちの言葉を堅く持って・・・・星のようにこの世に輝いている」ようにと、口で語り、手紙に書いてその人々に訴えた(ピリピ二ノ一五)。 AAJ 222.3

真実な牧師はみな、自分にゆだねられている信徒の霊的成長のために重い責任を感じ、彼らが神の共労者となるように切望している。教会の繁栄が、神からゆだねられた働きを忠実に実行することに、大部分かかっていることを牧師は知っている。教会員の増加は、そのまま、あがないの計画の実行者の増加でなければならないことを覚えて、牧師は熱心に、たゆまず、人々をキリストに導くようにと信徒たちを励ますのである。 AAJ 223.1

ピシデヤとその近隣地方を訪問してから、パウロとシラスはテモテを伴って、「フルギヤ・ガラテヤ地方」へ進み、そこで救いのよろこばしいおとずれを力強く宣べ伝えた。ガラテヤ人たちは偶像礼拝をやめるように導かれたが、使徒たちが教えを説いているうちに、罪の束縛からの自由を約束している使命をよろこぶようになった。パウロとその仲間の働き人たちは、キリストのあがないの犠牲を信じる、信仰による義についての教理を宣べ伝えた。彼らは、キリストが堕落した人類の救いようのない状態をご覧になり、みずから神の律法に従う生活をなさって、不従順の罰をお受けになることにより、彼らを あがなうために来られたかたであると教えた。そして十字架の光により、これまで真の神を知らなかった多くの人々が、み父の愛の偉大さを理解しはじめた。 AAJ 223.2

こうしてガラテヤ人たちは「父なる神」と、「わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられた」「主イエス・キリスト」についての重要な真理を教えられた。彼らは「聞いて信じたから」神のみ霊を受け入れ、「キリスト・イエスにある信仰によって、神の子」となった(ガラテヤ一ノ三、四、三ノ二、二六)。 AAJ 224.1

ガラテヤ人の中にいたころの自分の生活態度についてパウロは、のちになって「兄弟たちよ。お願いする。どうか、わたしのようになってほしい」と言うことができた(ガラテヤ四ノ一二)。彼のくちびるは祭壇からとった燃えている炭に触れていたので、彼は身体の欠陥を超越し、イエスを罪びとの唯一の望みとして示すことができた。彼の言葉を聞いた人々は、彼がイエスと共にいたことを知った。天来の力をさずけられて、彼は霊によって霊のことを解釈し、サタンの拠点を打ちくだくことができた。彼が神のひとり子イエスの犠牲に表されている神の愛を示すと、人々の心はくだかれて、多くの者が「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」という気持ちにまで導かれた。 AAJ 224.2

福音を提示するこの方法は、パウロの異邦人伝道の一貫した働きを特色づけるものであった。彼は常にカルバリーの十字架を彼らに示した。のちになって彼は、自分の体験を「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために 働くあなたがたの僕にすぎない。『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである」と述べた。(コリント第二・四ノ五、六)。 AAJ 224.3

キリスト教の初期のころ、滅びゆく世に救いのよきおとずれを携えていった献身的な使命者たちは、自己称揚の思いから、キリストとその十字架を示す働きを台なしにするようなことはなかった。彼らは権威も、自己の卓越をも望まなかった。彼らは救い主の中に自己をかくし、救いの偉大な計画と、この計画の創り主であられ、完成者であられるキリストのご生涯をかかげた。きのうも、きょうも、また永遠に変わることのないキリストが、彼らの教えの要旨であった。 AAJ 225.1

もし今日神のみことばを教えている人々が、キリストの十字架をいよいよ高くかかげるならば、その伝道はもっと大きく成功するのである。もし罪人にひとたび十字架を熱心に見させることができるならば、もし彼らが十字架につけられた救い主についての全ぼうを知り得たら、彼らは神の深いあわれみと自分の罪の深さとを認めるようになるであろう。 AAJ 225.2

キリストの死は、人類に対する神の深い愛を証明している。それはわれわれの救いの保証である。クリスチャンから十字架を取り除くことは、空から太陽をおおい隠すようなものであろう。十字架はわれわれを神に和解させ、われわれを神に近づかせる。父親の愛の優しいあわれみをもって、神は、人類を永遠の死から救うためにみ子が耐えられた苦悩をご覧になり、愛するみ子によってわれわれを受け入れ てくださるのである。 AAJ 225.3

十字架がなければ、人は神と和合することができなかった。われわれのすべての望みは十字架にかかっている。そこに救い主の愛の光が輝いている。罪人が十字架のもとで、彼を救うために死なれたおかたを見上げるときに、彼は満ちたりたよろこびを味わうのである。それは彼の罪がゆるされたからである。信仰をもって十字架のもとにひざまずくとき、彼は人が到達できる最高の場所に到達しているのである。 AAJ 226.1

われわれは、天のみ父が無限の愛をもってわれわれを愛してくださっていることを、十字架によって学ぶのである。「わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」とパウロが叫んだのは、当然である(ガラテヤ六ノ一四)。十字架を誇りとし、われわれのためにご自身をお与えになった主にわれわれを全くささげることは、われわれの特権でもある。その時に、カルバリーの十字架から流れる光を顔に受けて、この光を暗黒にある者たちへ現すために出かけて行くことができるのである。 AAJ 226.2