患難から栄光へ
第一七章パウロの第一次伝道旅行
本章は使徒行伝一三章四節-五二節に基づく AAJ 178.1
パウロとバルナバは、アンテオケの兄弟たちにより按手礼を受けてから「聖霊に送り出されて、セルキヤにくだり、そこから舟でクプロ(注・キプロス島)に渡った」。こうして使徒たちは最初の伝道旅行を始めた。 AAJ 178.2
クプロは、ステパノの死後に起こった迫害のために、エルサレムから信者たちがのがれていった場所の一つであった。このクプロから何人かの人々が、アンテオケへと「主イエスを宣べ伝え」に出て行ったのである(使徒行伝一一ノ二〇)。バルナバ自身も「クプロ生れ」で、彼は自分の親戚にあたるヨハネ・マルコを連れて、パウロと共に、伝道地であるこの島をたずねた(使徒行伝四ノ三六)。 AAJ 178.3
マルコの母はキリスト教に改宗していて、エルサレムにある彼女の家は、弟子たちのための隠れ場であった。そこに行けば、彼らはいつでも必ず歓迎され、しばらくの休息が与えられた。マルコが伝道旅 行に加わりたいと、パウロとバルナバに申し出たのも、使徒たちが母の家をたずねたときのことであった。彼は心に神の恩寵を感じて、福音伝道の働きに自分のすべてをささげたいと望んだ。 AAJ 178.4
使徒たちはサラミスに着くと、「ユダヤ人の諸会堂で神の言ことばを宣べはじめた。・・・・島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、そこでユダヤ人の魔術師、バルイエスというにせ預言者に出会った。彼は地方総督セルギオ・パウロのところに出入りをしていた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロとを招いて、神の言を聞こうとした。ところが魔術師エルマ(彼の名は『魔術師』との意)は、総督を信仰からそらそうとして、しきりにふたりの邪魔をした」。 AAJ 179.1
一つの戦いもなしに、地上に神の国が建設されるのをサタンは許さない。悪の勢力は、福音宣伝のために定められた機関に絶えず戦いをいどみ、暗黒の力は、名声のある、真に高潔な人々に真理が宣べ伝えられる時、特に活発に働く。クプロの総督セルギオ・パウロが福音使命を聞いた時も同様であった。総督は、使徒たちが携えてきた使命を学ぶために彼らを迎えにやった。すると、悪の勢力が魔術師エルマを通じて働き、彼らの悪意をこめた暗示によって彼を信仰からそらし、神の目的をくじこうとした。 AAJ 179.2
このように、堕落した敵は、改宗すれば神のために有能な奉仕をするかもしれない影響力のある人々を、悪の列に加えようと、たえず働くのである。しかし、忠実な福音宣伝者は、敵の手にかかって敗北するなどと恐れる必要はない。すべてのサタン的な感化に抵抗するよう、天来の力で耐え忍ぶことが彼の特権だからである。 AAJ 179.3
パウロは、サタンに激しく悩まされたけれども、敵の手先となっている者を譴責けんせきする勇気を持っていた。パウロは「聖霊に満たされ、彼をにらみつけて言った、『ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲になって、当分、日の光が見えなくなるのだ』。たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた」。 AAJ 180.1
魔術師はこれまで、福音の真理の数々の証拠に目をつむっていた。そこで神は正義の怒りから、彼の肉眼を閉じさせて日の光を見えなくさせられたのである。この盲目は永久的なものではなく、一時的なものであった。それは彼に悔い改めをうながし、彼がはなはだしく背いた神に、ゆるしを求めさせるためであった。彼は狼狽ろうばいした。そしてキリストの教えに逆らう彼の陰険な術は、役に立たなくなった。彼が盲目となり、手探りして歩かなければならなくなったという事実は、使徒たちの行った奇跡、しかもエルマが奇術だとして公然と非難していた奇跡が、神の力によって行われたものだということをみんなに証明した。総督は、使徒たちが語った教えが真理であることを確信して、福音を受け入れた。 AAJ 180.2
エルマは教育を受けた者ではなかったが、サタンの仕事をするのに特に適していた。神の真理を説く人たちは、さまざまな違った形でずるい敵に会うのである。時にはそれは学識のある人たちの中にもいるが、無学なものの場合のほうが多い。サタンは彼らを仕込んで、巧妙に人々をだます道具とするので ある。神を恐れ、その偉大な力によって忠実に自分の持ち場に立つことが、クリスチャンの義務である。こうして彼はサタンの軍勢を混乱させ、主のみ名によって勝利することができる。 AAJ 180.3
パウロとその一行は旅を続けて、パンフリヤのペルガに渡った。それは骨の折れる道であった。彼らは困難や不自由な目に会い、四方から危険に襲われた。彼らが通った町や都市や、物寂しい街道で、目に見える危険にも見えない危険にもとり囲まれた。しかし、パウロとバルナバは、神の救いの力に頼ることを既に学んでおり、ふたりの心は滅びゆく魂への熱烈な愛に満たされていた。いなくなった羊を捜している忠実な羊飼いのように、彼らは自分たち自身の安楽や都合などは少しも念頭に置かなかった。自己を忘れ、疲れや飢えや寒さにもひるまなかった。彼らは、おりから遠くへさまよい出た人々の救いという、たった一つの目的しか心に留めていなかった。 AAJ 181.1
マルコはここで、不安と落胆にくじけてしまって、主の働きに全心全霊を打ちこんで献身するという彼の目的が、一時ぐらついた。彼は困難に慣れていなかったので、道中の危険と窮乏に気力を失ってしまったのである。彼はこれまで順調な境遇のもとに働いて成功してきたが、いま開拓伝道者たちにしばしばつきまとう反対と危険のさなかにあっては、十字架のよき兵士として困難に耐えることができなかった。彼は、勇敢な心で危険と迫害と逆境に立ち向かうことを、これから学ぶはずであった。しかし、使徒たちが前進するにつれて、更に大きな困難が危惧きぐされたとき、マルコは恐れてすっかり勇気を失い、先へ進むことを拒み、エルサレムへ引き返したのである。 AAJ 181.2
パウロは働きを放棄したマルコを非難し、一時は厳しいほどの批判を下していた。一方、バルナバは、経験のないマルコには無理もないことと思っていた。そして、彼は、キリストのために役立つ働き人になるにふさわしい資質を、マルコが備えていることを見て、マルコにこのまま伝道を放棄させてはならないと考えていた。このマルコへの配慮は、何年かのちに豊かに報われた。この若者は主のために、また困難な伝道地で福音使命を宣べ伝える働きに、惜しみなく献身したからである。神の祝福とバルナバの賢明な指導のもとに、マルコは貴重な働き人に成長した。 AAJ 182.1
パウロは後にマルコと和解して、共労者として彼を迎えた。パウロはまたマルコを、「神の国のために働く同労者」、「わたしの慰めとなった者」として、コロサイ人たちに推薦した(コロサイ四ノ一一)。更にパウロは、死ぬ少し前に、マルコのことを「務のために役に立つ」者と言った(テモテ第二・四ノ一一)。 AAJ 182.2
マルコが去ってから、パウロとバルナバはピシデヤのアンテオケを訪問し、安息日にユダヤの会堂に行って、席に着いた。「律法と預言書の朗読があったのち、会堂司たちが彼らのところに人をつかわして、『兄弟たちよ、もしあなたがたのうち、どなたか、この人々に何か奨励の言葉がありましたら、どうぞお話し下さい』と言わせた。」このようにして話を勧められたので「パウロが立ちあがり、手を振りながら言った。『イスラエルの人たち、ならびに神を敬うかたがたよ、お聞き下さい』。」それからすばらしい説教が続いた。彼は神がユダヤ人を、エジプトの奴隷の身から救い出された時から導いてこら れたその方法の歴史を語り、また、ダビデのすえとして救い主がどのように約束されたかを語った。そして彼は、「神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救い主イエスをイスラエルに送られたが、そのこられる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に悔改めのバプテスマを、あらかじめ宣べ伝えていた。ヨハネはその一生の行程を終ろうとするに当って言った、『わたしは、あなたがたが考えているような者ではない。しかし、わたしのあとから来るかたがいる。わたしはそのくつを脱がせてあげる値うちもない』」と大胆に述べた。こうして彼は、人間の救い主、預言されたメシヤとしてのイエスを力強く説いた。 AAJ 182.3
この宣言をしてからパウロは言った。「兄弟たち、アブラハムの子孫のかたがた、ならびに皆さんの中の神を敬う人たちよ。この救の言葉はわたしたちに送られたのである。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めずに刑に処し、それによって、安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した」。 AAJ 183.1
パウロは、救い主がユダヤの指導者たちに拒まれた明白な事実を、ためらわずに話した。「なんら死に当る理由が見いだせなかったのに、ピラトに強要してイエスを殺してしまった。そして、イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから、人々はイエスを木から取りおろして墓に葬った。しかし、神はイエスを死人の中から、よみがえらせたのである。イエスは、ガリラヤからエルサレムへ一緒に上った人たちに、幾日ものあいだ現れ、そして、彼らは今や、人々に対してイエスの証人となっている」と使徒は述べた。 AAJ 183.2
使徒はまた続けた、「わたしたちは、神が先祖たちに対してなされた約束を、ここに宣べ伝えているのである。神は、イエスをよみがえらせて、わたしたち子孫にこの約束を、お果しになった。それは詩篇の第二篇にも、『あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ』と書いてあるとおりである。また、神がイエスを死人の中からよみがえらせて、いつまでも朽ち果てることのないものとされたことについては、『わたしは、ダビデに約束した確かな聖なる祝福を、あなたがたに授けよう』と言われた。だから、ほかの箇所でもこう言っておられる、『あなたの聖者が朽ち果てるようなことは、お許しにならないであろう』。事実、ダビデは、その時代の人々に神のみ旨にしたがって仕えたが、やがて眠りにつき、先祖たちの中に加えられて、ついに朽ち果ててしまった。しかし、神がよみがえらせたかたは、朽ち果てることがなかったのである。」 AAJ 184.1
そして今、パウロは、メシヤに関するよく知られた預言の成就についてはっきりと述べ、悔い改めと、救い主イエスのいさおしを通して罪のゆるしが与えられることとを、彼らに説いた。「この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。」 AAJ 184.2
パウロの語る言葉に神のみ霊たまが伴い、人々を感動させた。旧約の預言に関する彼の訴えと、これらの預言がナザレのイエスの働きの中で成就されたと述べる言葉には、約束のメシヤの再臨を待ち望んでい る多くの人々を説得する力があった。そして救いの「よきおとずれ」が、ユダヤ人と同様に異邦人のためでもあるという説教者の確証の言葉は、血縁から言えばアブラハムの子孫の中に数えられていなかった人々に、希望とよろこびを与えた。 AAJ 184.3
「ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが」、その日に与えられたよろこびのおとずれを受け入れて、「パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた」。 AAJ 185.1
ピシデヤのアンテオケでは、パウロの説教により関心が高まり、次の安息日には「ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。 AAJ 185.2
パウロとバルナバとは大胆に語った、『神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。主はわたしたちに、こう命じておられる、「わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救いをもたらすためである」』。 AAJ 185.3
異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあ ずかるように定められていた者は、みな信じた。」彼らはキリストが彼らを、神の子らと認めてくださることをこの上もなくよろこび、感謝の気持ちで語られる言葉に耳を傾けた。信じた人々は福音使命を熱心に他の人々に伝えた。こうして、「主の御言はこの地方全体にひろまって行った」。 AAJ 185.4
幾世紀も前に、霊感による筆はこの異邦人の収穫について述べていたのであるが、その預言的なことばはぼんやりと理解されたにすぎなかった。ホセアは次のように言っていた、「イスラエルの人々の数は海の砂のように量ることも、数えることもできないほどになって、さきに彼らが『あなたがたは、わたしの民ではない』と言われたその所で、『あなたがたは生ける神の子である』と言われるようになる」。そして、更に、「わたしはわたしのために彼を地にまき、あわれまれぬ者をあわれみ、わたしの民でない者に向かって、『あなたはわたしの民である』と言い、彼は『あなたはわたしの神である』と言う」(ホセア書一ノ一〇、二ノ二三)。 AAJ 187.1
救い主ご自身も、地上で働いておられたとき、福音が異邦人に宣べ伝えられることを預言された。ぶどう園の譬たとえの中で、イエスは頑固なユダヤ人たちに、「神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」と言われた(マタイ二一ノ四三)。また復活後にイエスは弟子たちに「行って、すべての国民を弟子と」するようお命じになった。警告を受けない者がひとりもいないように、弟子たちは「すべての造られたものに福音を宣べ伝え」なければならなかった(マタイ二八ノ一九、マルコ一六ノ一五)。 AAJ 187.2
パウロとバルナバは、ピシデヤのアンテオケにいる異邦人たちに伝道しているあいだも、みことばを聞き入れる可能性のありそうなところではどこででも、ユダヤ人のために働きかけることをやめなかった。のちにはテサロニケやコリント、エペソ、その他重要な中心地において、パウロの一行はユダヤ人と異邦人に福音宣伝を続けていった。しかし彼らはそののち、真の神とみ子についての知識をほとんど持たない、あるいは全く持たない人々のいる異教の地に、神の国を築き上げることに主力を注いだ。 AAJ 188.1
パウロとその共労者たちの心は「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない」人々に引きつけられていった。異邦人に対する使徒たちのたゆまぬ伝道により、「以前は遠く離れて」いた「異国人」や「宿り人」たちは、自分たちが「キリストの血によって近いものとなった」こと、また、キリストのあがないの犠牲を信じる信仰により、自分たちも「聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族」になることができることを知った(エペソ二ノ一二、一三、一九)。 AAJ 188.2
パウロは、信仰が深まるにつれ、一層熱心に、イスラエルの教師たちがかえりみなかった人々の中に、神の国を打ち建てる仕事に励んだ。彼はたえずイエス・キリストを「もろもろの王の王、もろもろの主の主」とあがめて(テモテ第一・六ノ一五)、信者たちに「彼に根ざし、彼にあって建てられ・・・・信仰が確立され」るようにと説き勧めた(コロサイ二ノ七)。 AAJ 188.3
信じる者たちにとって、キリストは確かな土台である。この生きた石の上に、ユダヤ人も異邦人も建 てることができるのである。それはすべての者を受けいれるのに十分広く、全世界の重みと重荷を十分に支えるほど強い。これはパウロ自身がはっきり認めた事実である。パウロは伝道の最後の時期に、福音の真理をしっかり愛しつづけていた異邦人の信者たちにあてて「あなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である」と書いた(エペソ二ノ二〇)。 AAJ 188.4
ピシデヤに福音使命が伝わると、アンテオケの不信仰なユダヤ人たちが、盲目的な偏見から「信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた」。 AAJ 189.1
使徒たちはこうした取り扱いにも失望しなかった。彼らは主のみことばを思い出した。「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ五ノ一一、一二)。 AAJ 189.2
福音使命は進展してゆき、使徒たちもそれに励まされた。彼らの働きは、アンテオケのピシデヤ人たちの中で豊かに祝福され、しばらくのあいだみわざの進展をゆだねられた信者たちは、「ますます喜びと聖霊とに満たされていた」。 AAJ 189.3