Search for: 聖霊
681 キリストへの道, p. 1944.7 (Ellen Gould White)
… 、なお聖霊の声に耳を傾けることはいつでもできると思って、良心の苛責を静めようとしている人々がたくさんいます。彼らは、恵みの霊を侮り悪魔にくみしていても、いよいよ動くに動けない窮地に陥った 時には方向を変えることができると思っています。しかし、それはそうたやすくできるもの …
682 キリストへの道, p. 1947.4 (Ellen Gould White)
罪のために道徳的知覚が鈍くなってしまうと、悪を行う者は自分の品性の欠陥を認めもしなければ、自分が犯した罪の恐ろしさを悟ることもありません。罪を示す聖霊の力に従わなければ、人は自分の罪に対して部分的に見えないでいるわけです。ですから、その人の告白は真面目でもなければ熱心でもありません。自分の罪を認めて悪かったとは言うものの、そのたびに自分の行為に弁解をつけ加え、ああいう事情さえ起こらなかったら、自分はああもしなかったしこうもしなかったし、何もしかられることはなかったのだと言います。
683 キリストへの道, p. 1947.6 (Ellen Gould White)
… は聖霊に動かされたものではありませんから、神に受け人れられることはできません。真の悔い改めは、自分の罪を自分で負い、何の虚飾も偽善もなく、罪を認めるのです。哀れな取税人のごとく目を天に向けることさえしないで、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫ぶのです。自分の罪を認める …
684 キリストへの道, p. 1948.4 (Ellen Gould White)
… ます。聖霊は私たちの状態を次のように言っています。「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エペソ2:1)、「その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで完全なところがなく」(イザヤ1:5、6)と。私たちは全く「悪魔に捕らえられて」(Ⅱテモテ2:26)彼の思いのままに、しっかり …
685 キリストへの道, p. 1950.4 (Ellen Gould White)
聖霊によって私たちの良心が目覚めると、罪がいかに忌わしく、罪の力、罪のとが、また罪からくる災いがどんなものであるかがいくらか分かってきて、罪を憎む上うになります。罪が自分を神より引き離してしまい、自分は悪の力の奴隷になっていることに気づくのです。逃れようと、もがけばもがくほど、自分の力なさを感じます。動機は不純で心は不潔で、自分の生活は全く利己心と罪ばかりであるのを知り、何とかしてゆるされ清められて、自由になりたいと望むのです。神と調和し、神に似るにはいったい何をすればよいのでしょうか。
686 キリストへの道, p. 1951.7 (Ellen Gould White)
ですから、私たちは自分のものではなく、価をもって買われたものです。「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(Ⅰペテロ1:18、19)とあります。神を信じるこの簡単な行為によって、聖霊は私たちの心に新しいいのちを 与えます。私たちは神の家族の子供として生まれたのです。ですから、神はみ子を愛されると同様に私たちを愛してくださるのです。
687 キリストへの道, p. 1952.1 (Ellen Gould White)
さて、あなたは自分をキリストにささげたのですから、退いたり、また自分を取りもどしたりしてはなりません。ただ日ごとに「私はキリストのものです。私は自分をキリストにささげました」と言って、聖霊を与えられ、彼の恵みによってささえられるよう祈りましょう。自己を神にささげ、神を信じるとき神の子となるのですから、そのように神にあって生活しなければなりません。使徒パウロも、「あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい」(コロサイ2:6)と言いました。
688 キリストへの道, p. 1952.6 (Ellen Gould White)
… みな、聖霊のやさしい訴えの声であって、さまよい出た者へ熱心に話しかけ、哀願し、父なる神の愛の心に引きつけようとしておられるのです。
689 キリストへの道, p. 1953.3 (Ellen Gould White)
疑い、わななく人々よ、目を上げて見ようではありませんか。イエスはなお生きて、私たちのために執り成しをしておられます。神が愛するひとり子をお与えになったことを感謝するとともに、彼の死が無駄にならないよう祈りましょう。聖霊は今日、あなたを招いておられます。全心をささげて、イエスのもとに行きましょう。そうすれば主の祝福を自分のものとすることができるのです。
690 キリストへの道, p. 1953.6 (Ellen Gould White)
… ます。聖霊が人の心に働くのも、ちょうど同じです。人の目には見えませんが、再創造の力が魂に新しい命を与え、神のみかたちにしたがって新しい人をつくるのです。聖霊の働きは音もなく目にも見えませんが、その結果は明らかなものです、聖霊によって心が新たにされるならば、生活がその事実 …
691 キリストへの道, p. 1956.2 (Ellen Gould White)
ですから、私たち自身のうちには、何ら誇るところはなく、何の自己を賞揚する根拠もありません。私たちの唯一の希望は、キリストの義が私たちに被せられることで、それは私たちのうちに働き、私たちを通して働いてくださる聖霊の働きによるほかはないのです。
692 キリストへの道, p. 1956.4 (Ellen Gould White)
… が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人があります。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。私たちは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いてイエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ拒まれたの …
693 キリストへの道, p. 1957.1 (Ellen Gould White)
イエスに近づけば近づくほど、ますます欠点が多く見えてきます。それは自分の目が開けて明らかになり、イエスの完全さに比べて、自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。これは悪魔の惑わしの力が失われ、人を生かす聖霊のカが働いている証拠です。
694 キリストへの道, p. 1960.1 (Ellen Gould White)
… し、聖霊の更生力が彼の心を新しくしました。
695 キリストへの道, p. 1960.5 (Ellen Gould White)
… なる聖霊が、ペンテコステの時に彼らに与えられたのです。キリストは「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(ヨハネ16:7)と言われましたが、それ以来、キリスト …
696 キリストへの道, p. 1961.9 (Ellen Gould White)
… する聖霊の喜びで満たされているならば、黙っていることはできないはずです。もし、主の恵みを味わい悟ることができたならば、何か誌いたくなるものです。ピリポが救い主を見いだしたときのように、他の人々を主のみ前に誘わずにはいられなくなるでしょう。そして、彼らにキリストの美と、見え …
697 キリストへの道, p. 1965.1 (Ellen Gould White)
神は、摂理を通し、または心にささやく聖霊の感化を通してお語りになります、私たちの事情や環境、つまり私たちのまわりで毎日起きている変化の中からも、私たちが心を開いて見ようとさえすれば、尊い教訓を得ることができます。詩篇記者は神の摂理の働きの跡をたどって、「地は主のいつくしみで満ちている」(詩篇33:5)、「すべて賢い者はこれらの事に心をよせ、主のいつくしみをさとるようにせよ」(詩篇107:43)と言っています。
698 キリストへの道, p. 1966.6 (Ellen Gould White)
… は、聖霊の導きを祈らねばなりません。この導きは必ず与えられます。ナタナエルがイエスのもとにきたとき、救い主は、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と賛嘆の叫びをあげました。ナタナエルが「どうしてわたしをご存じなのですか」と尋ねると、イエスは「ピリポ …
699 キリストへの道, p. 1966.7 (Ellen Gould White)
聖霊は救い主をあがめ、救い主に誉れを帰しま実またキリストとその純潔な義をさし示し、キリストによって私たちに与えられる大いなる救いを示すのがその役目です。イエスは「わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16:14)と言われました。真理の霊のみが、神の真理を本当に教えることのできる力ある教師です。神が人類のためにそのひとり子を与えて死なせ、また聖霊を与えて人の教師とし、絶えざる案内者とすることから見て、どれほど人類を価値あるものとみなしておられるかがわかるのです。
700 キリストへの道, p. 1967.1 (Ellen Gould White)
神は、自然と啓示、摂理、および聖霊の感化を通して私たちに語られます。しかしそれだけでは十分でありません。私たちも、また、神に心を注ぎ出す必要があります。霊的生命と力を得るためには、私たちの天の父と実際に交わらねばなりません。私たちは、心が神に引かれ、神のみわざ、あわれみ、祝福などを瞑想するでしょうが、これは、十分な意味での神との交わりではありません。神と交わるためには、私たちの実生活について何か神に話すことがなければなりません。