各時代の大争闘

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天の最上の賜物

イスラエルは「神の使者たちをあざけり、その言葉を軽んじ、その預言者たちをののしった」けれども、神はなおもご自分を、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」として彼らにあらわされた(歴代志下36章16節、出エジプト記34章6節)。彼らが何度も拒んだにもかかわらず、神は、恵み深く彼らに訴え続けられた。父が、その息子を憐れむ以上の愛をもって、「主はその民と、すみかをあわれむがゆえに、しきりに、その使者を彼らにつかわされた」(歴代志下36章15節)。勧告と懇願と譴責が無駄であることが明らかになると、神は、天の最上の賜物をお与えになった。いやそれだけではない。神は、その一つの賜物によって、全天を注ぎ出されたのである。 GCJap 23.1

神のみ子ご自身が、かたくなな町に訴えるために送られた。エジプトからイスラエルをよいぶどうの木として携え出されたのは、キリストであった(詩篇80篇8節)。彼は、ご自身の手で、その前から異邦人を追い払われた。 GCJap 23.2

彼は、それを「土肥えた小山の上に」植え、それを保護するために、そのまわりに垣をつくられた。また、彼のしもべたちが、それを育てるためにつかわされた。「わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか」と彼は仰せられるのである(イザヤ書5章1~4節)。彼はよいぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、結んだものは野ぶどうであった。それでもなお、実を結ぶのを熱望して、なんとかしてこれを滅びから救おうと、彼ご自身がぶどう畑においでになった。彼は、ぶどうのまわりを掘り、はさみを入れ、 大切に育てられた。彼はご自分が植えたぶどうを救うためには、あらゆる努力を惜しまれなかった。 GCJap 23.3

こうして、三年の間、光と栄光の主は、彼の民と共に過ごされた。彼は、「よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回され」た。彼は、心のいためる者をいやし、捕らわれている者に解放を告げ、見えない人の目を開き、足の不自由な人を歩かせ、聞こえない人に聞かせ、ハンセン病人をきよめ、死人を生きかえらせ、貧しい人々に福音を伝えられた(使徒行伝10章38節、ルカ4章18節、マタイ11章5節参照)。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」という恵み深い招きが、すべての階級の人々に同様に発せられたのである(マタイ11章28節)。 GCJap 24.1

善に報いるに悪をもってされ、愛に報いるに恨みをもってあしらわれても、彼は、たゆまず慈悲深い働きを続けられた(詩篇109篇5節参照)。彼の恵みを求めた者で、拒まれた者は一人もいなかった。彼は家なき旅人として、屈辱と窮乏の生活を送られたが、彼の生きる目的は、困窮者に奉仕し、人々の苦しみを和らげ、彼らに生命の賜物を受けるように訴えることであった。恵みの波は、かたくなな心によって押しかえされても、言葉では表現できない慈悲深い愛の大きな潮となって、また返っていった。それにもかかわらず、イスラエルは、その最上の友であり唯一の援助者であるお方に背を向けた。彼の愛の訴えはさげすまれ、彼の勧告は退けられ、彼の警告は嘲笑された。 GCJap 24.2