各時代の大争闘
修道会の腐敗
ウィクリフが、長年にわたって断固たる戦いをいどんだもう一つの悪習は、托鉢修道会の制度であった。これらの修道士たちは、英国に群がり、国家の偉大と繁栄にとっての障害となっていた。産業・教育・道徳上に衰退的影響を及ぼしていた。修道士たちの怠惰な物ごい生活は、財政的に人民の重い負担となったばかりでなく、有用な労働を軽蔑するに至らせた。青年たちは堕落し腐敗した。修道士たちの影響を受けて、修道院に入り、隠遁生活をする者が多くいた。しかもこのことは、親の同意を得ないばかりか、彼らには知らせず、また彼らの命令に反してまで行われた。 GCJap 95.3
ローマ教会初期の教父の一人は、子としての愛と義務の要求以上に修道院生活の要求を重要視して、次の GCJap 95.4
ように宣言していた。「たとえ、なんじの父が戸口に倒れて嘆き悲しみ、なんじの母が、なんじを抱きし身をあらわし、なんじに乳ふくませし胸をあらわそうとも、なんじこれを足下にふみにじり、まっすぐキリストヘと進み行くべし」。後にルターが言っているように、親に対して無情無感覚になった子供たちの心は、こうした「ぞっとするような冷酷さ」のゆえに「キリスト者や人間というよりは、おおかみや暴君のような感じがする」。こうして法王教の指導者たちは、昔のパリサイ人たちのように、自分たちの言い伝えによって神の戒めを廃した。こうして、家庭は荒廃し、親は息子や娘たちとの交わりを奪われた。 GCJap 96.1
大学の学生たちでさえ、修道士たちの偽りの言葉に欺かれて、その団体に誘いこまれた。多くの者が、後になって、自分たちの一生を破滅させ親を悲しませたことに気づき、後悔したが、しかし、ひとたびわなにかかるや、そこから抜け出ることはできなかった。修道士たちの影響を恐れて、息子たちを大学に送ろうとしなかった親も多くいた。学問の中心である各地の最高学府の学生の数は目立って減少した。学校は衰微し、無学な人が多くなった。 GCJap 96.2
法王はこれらの修道士たちに、告白を聞いて赦しを与える権威を授けた。これが一大罪悪の原因となった。修道士たちは利益の増大を図って、たやすく免罪を与えたので、あらゆる種類の犯罪人が彼らのもとにやってきて赦しを得るようになり、その結果、最もはなはだしい罪悪が急激に増加した。病人と貧者はかえりみられず、彼らの困窮を救うはずであった贈与物は修道士たちの手にわたった。修道士たちは、人々を脅して施し物を要求し、彼らの団体に寄付しない者を不信心であると非難した。表面では清貧を口にしながら、修道士たちの富は増える一方であった。そして、彼らの壮大な建造物とぜいたくな食卓とが国民をますます貧困に陥れることは明らかであった。彼らはぜいたくと GCJap 96.3
快楽にふける一方、自分たちの代理として無知な者たちを派遣した。この者たちは不思議な物語や伝説、たわごとしか話すことができず、こうしたもので人々を喜ばせて、ますます人々を修道士たちにとってだましやすいものとした。修道士たちは依然として、迷信深い大衆を支配し、すべての宗教的義務は、法王の至上権を認め、聖人たちをあがめ、修道士に施し物をすることの中に含まれていると信じこませていた。そして、天国に入るにはこれで十分であると思わせていた。 GCJap 97.1
学識ある、信心深い人々は、このような修道院制度を改革しようとしたが無駄であった。しかし、いっそうはっきりと洞察していたウィクリフは、悪の根源をつき、制度そのものが偽りであって、それは廃止すべきであると宣言した。それについて、種々の議論と研究がわき起こった。修道士たちが法王の免罪符を売りながら国内を巡歴する時、多くの者が、金で赦しを買うことができるかどうか疑うようになった。彼らは、ローマの法王の赦しよりも、神の赦しを求めるべきではなかろうかと、質問したのである。修道士たちの、飽くことを知らない貪欲を見て驚いた者も少なくなかった。「ローマの修道士と司祭たちは、ガンのように、われわれをむしばんでいる。神がわれわれを救ってくださらなければ、人民は死んでしまう」と彼らは言った。托鉢僧たちは自分たちの貪欲を覆い隠すために、自分たちは救い主の模範に従っているのであって、イエスと弟子たちは人々の施し物によって生活したのであると言った。ところがこの主張は、彼らに不利な結果となった。 GCJap 97.2
というのは多くの人々が、自分で真理を学ぼうと聖書の研究を始めたのである。これはローマがほかの何よりも望んでいなかったことであった。人々の心は、真理の源泉へと向けられた。それを隠すことが、ローマの目的であったのであるが。 GCJap 97.3
ウィクリフは、修道士たちに反対するパンフレット GCJap 97.4
を書いて発行しはじめた。しかしそれは、彼らと論争するためではなくて、人々の心を聖書の教えとその著者である神に向けるためであった。彼は、法王が持っている免罪や破門の権能は、一般の司祭の権能以上のものではなく、だれでもまず神から罪の宣告を受けることなくして、破門されることはあり得ない、と断言した。法王が築き、無数の人々の心と体とをとりこにしていたこの霊・俗両界にわたる巨大な組織の倒壊に、これ以上効果的な方法はなかった。 GCJap 98.1