各時代の大争闘
キリストなしのキリスト教
キリストは、天にふさわしくなるために男も女も修道院の中に閉じ込もるというような手本は、ご自分の一生を通して一つもお与えになってはいない。キリストは、愛と同情が抑制されなければならないとは決してお教えにならなかった。救い主の心は愛にあふれていた。人は道徳的完全さに近づくにつれて、その感覚は鋭くなり、罪をいっそう鋭く感ずるようになり、苦しむ者に対する同情がますます深くなる。法王はキリストの代理者であると主張しているが、彼の品性はわれらの救い主のご品性とどのように比べることができるであろうか。天の王としての尊敬を自分に示さないからといって、キリストが人々を牢獄や拷問台に渡されたということがあっただろうか。ご自分を受け入れない者を死に定めるみ声が聞かれただろうか。主がサマリヤの村で人々に侮辱を受けられた時、使徒ヨハネは怒りに満たされて、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」とたずねた。イエスはこの弟子を憐れみをもってごらんになり、「人の子は、人の命を滅ぼすために来たのでなく、救うために来たのだ」と言われて、彼の粗暴な精神を戒められた(ルカ9章54、56節、英語訳参照)。キリストによってあらわされた精神と、その自称代理者の精神との間には、なんという違いがあることだろう。 GCJap 661.1
現在ローマ教会は、その恐ろしい残虐行為の記録を弁解しながら隠し、世界にもっともらしい顔を見せている。この教会はキリストのような衣を装っている。しかし教会は変わっていない。過去に存在した法王制のあらゆる原則は、今日も保持されている。最も暗い時代に案出された数々の教理は、今もなお支持されている。だれも欺かれてはならない。今日プロテスタントが尊敬しようとしている法王制は、宗教改革の時代に世界を支配していたのと同じものである。その時神の民は、自分の生命の危険をおかして、この教会の悪を暴露するために立ち上がったのであった。教会は、かつて王たちや諸侯たちの上に君臨し、神の大権を主張した時と同じ誇りと尊大不遜な心を持っている。今日もこの教会の精神は、かつて人間の自由を押しつぶし、いと高き者の聖徒たちを殺した時と同じに残酷であり、専横である。 GCJap 661.2
法王制はまさしく、預言の中でこのようになると言われているとおりのもの、すなわち終末時代の背教である(テサロニケ第二・2章3、4節参照)。自分の目的を達成するのに最も都合のよい性格を身に装うことが、この教会の方針の一つである。しかしカメレオンのように変わりやすい外見の下に、この教会はへびのような不変の毒を隠している。「異端者もしくは異端の嫌疑ある者との誓約は守ってはならない」と教会は明言している。千年にわたるその記録が、聖徒の血によって書かれているこの権力が、今日キリストの教会の一部として承認されてよいであろうか。 GCJap 662.1