各時代の大争闘

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死後の状態

死者に意識があるという教理は、霊魂不滅という根本的な誤りに基づくものである。そしてこの教理は、永遠の責め苦という教えと同様、聖書の教えに反するものであり、理性の命じるところにも、人間の慈悲の心にも、相反するものである。一般に信じられているところによれば、贖われて天にある者たちは、地上で起きるすべてのことを、そして特に、彼らがあとに残してきた友人たちの生活を、よく知っているというのである。しかし、死者が、生きている人々の悩みを知り、自分の愛する者たちの罪を目撃し、彼らが人生のあらゆる悲哀、失望、苦悩に耐えるのを見ることが、どうして幸福の源となり得ようか。地上の友人たちの上をさまよう者に、天国の喜びがどれだけ味わえようか。 GCJap 631.1

また、息が絶えるとすぐに、悔い改めなかった者の魂は地獄の炎の中に投げ込まれるという考えは、なんと嫌悪すべきものであろうか。自分たちの友人が、不用意のまま墓にくだり、永遠の苦悩に陥るのを見る人々は、どんなに激しい苦しみを味わうことであろうか。このような悲惨なことを考えて、気が狂った者も多いのである。 GCJap 631.2

こうしたことについて、聖書はなんと言っているであろうか。ダビデは、人間が死んだならば、意識はないと言明している。「その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる」(詩篇146篇4節)。ソロモンも同じ証言をしている。「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない」「その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」「あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである」(伝道の書9章5、6、10節)。 GCJap 631.3

ヒゼキヤの祈りに答えて、彼の生命が一五年延ばされた時、感謝にあふれた王は、神の大いなる憐れみに対して賛美の言葉をささげた。彼は、この歌の中で、彼の大きな喜びの理由を挙げている。「陰府は、あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、あなたのまことを望むことはできない。ただ生ける者、生ける者のみ、きょう、わたしがするように、あなたに感謝する」(イザヤ書38章18、19節)。一般にゆきわたっている神学は、死んだ義人は天国の喜びにあずかり、朽ちることのない舌で神を賛美していると言うのである。しかし、ヒゼキヤは死にあたって、そのような輝かしい期待を持つことはできなかった。彼の言葉と詩篇記者の証言は一致している。「死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか」「死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない」(詩篇6篇5節、115篇17節)。 GCJap 632.1

ペテロは、ペンテコステの日に、ダビデについて、「彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている」「ダビデが天に上ったのではない」と言明した(使徒行伝2章29、34節)。ダビデが復活の時まで墓の中にとどまっているという事実は、義人は死んだ時に天に行くのではないということを証明している。復活を経ることによってはじめて、そしてキリストの復活の事実の功績によって、ダビデは、ついに神の右に座すことができるのである。 GCJap 632.2

パウロも言っている。「もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである」(コリント第一・15章16~18節)。もしも、四千年にわたって、義人が死ぬと直接天国に行っていたとするならば、パウロはどうして、もし復活がないならば「キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまった」と言うことができたのであろうか。もしも、義人が死ぬとすぐに天国に行ったのであれば、復活は必要ないはずである。 GCJap 632.3