各時代の大争闘

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恐るべき永遠責め苦説

悪人が死ぬと永遠の焦熱地獄において火と硫黄をもって苦しめられるという教理や、この短い地上の生涯において犯した罪のために、神が生きておられるかぎり責め苦を受けるという教理は、愛と憐れみの感情や正義感から見て、実に忌まわしいかぎりである。それにもかかわらずこの教理は広く教えられて、今なお、多くのキリスト教会の信条の中に含まれている。博学なある神学博士は、次のように言った。「地獄の責め苦の光景は、永遠に聖徒たちの幸福を増進するのである。同じ性質を持ち、同じ環境のもとに生まれた他の者たちが、こうした悲惨な状態に陥っているにもかかわらず、自分たちは特別な恵みにあずかっているということを自覚する時、彼らは自分たちがどんなに幸福であるかを感じるのである」。他の者は、また次のように言った。「滅亡の命令が、怒りの器たちの上に永遠に執行され、その苦しみの煙は、憐れみの器たちの目の前で永遠に立ちのぼる。憐れみの器たちは、こうした悲惨な者たちの運命に陥ることを免れて、アーメン、ハレルヤ! 主を賛美せよ! というのである」 GCJap 619.1

神の言葉のどこに、そのような教えが見いだされるであろうか。贖われて天にある者たちは、あらゆる憐れみと同情の念を失い、普通の人間の感情さえ持たなくなるのであろうか。彼らは、禁欲主義者のように無関心になり、未開人のように残酷になるのであろうか。いや、そうではない。こうしたことは、神の書の教えではない。ここに引用したような意見を表明する人々は、学識があり、まじめな人々であろうが、しかし、サタンの詭弁にまどわされているのである。 GCJap 619.2

サタンは、聖書の強烈な表現を彼らに曲解させ、その言葉を、創造主ではなくて、彼自身の恨みと悪意で彩るのである。「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。……あなたはどうして死んでよかろうか」(エゼキエル書33章11節)。 GCJap 619.3

もし仮に、神が絶え間ない責め苦を見て喜びとし、地獄の炎の中に閉じ込められている者たちの苦しみの叫びや悲鳴やのろいの声を楽しみとされるとしたところで、それはいったい神にとってなんの益になるであろうか。このような恐ろしい叫びが、無限の愛の神の耳に音楽となるであろうか。悪人が永遠の責め苦を受けることは、神が罪を、宇宙の平和と秩序を乱す悪として憎悪されることを示すものであると、主張されている。ああ、これはなんという冒瀆であろう。罪に対する神の憎悪が、それを永続させる理由であるかのように言われている。これらの神学者の教えによるならば、憐れみを受ける望みもなく永遠の責め苦にあうことは、その哀れな苦悩者たちを狂気に陥れ、そして彼らが怒り狂ってのろいと冒瀆の言葉を吐く時、彼らは自分たちの罪の量を永遠に増し加えているのである。しかし、このようにして永遠にわたって罪を増し加えていっても、神の栄光は決して高揚されるものではない。 GCJap 620.1

永遠の責め苦という邪説が及ぼした害悪は、とうてい人間の知力でははかり知ることができない。愛と恵みに満ち、憐れみに富んだ聖書の宗教が、迷信によって暗くされ、恐怖で覆われている。サタンが、神の品性をどんなに誤った色彩で彩ってきたかを考えるとき、人々が恵み深い創造主を恐れ、憎みさえするのも、不思議ではないのである。教会の説教壇から説かれて、今日全世界に広がっている神に関する恐ろしい見解は、幾千、いや幾百万の人々を、懐疑論者や無神論者にしたのである。 GCJap 620.2

この永遠責め苦説は、バビロンがすべての国民に飲ませる憎むべき酒といわれている偽りの教理の一つである(黙示録14章8節、17章2節参照)。キリストの牧師たちが、この邪説を受け入れて、説教壇から語るということは、本当に不思議である。彼らはこれを、偽りの安息日と同様に、ローマから受け継いだのである。 GCJap 620.3

確かに、これは、偉大で善良な人々によって教えられてきた。しかし彼らには、この問題について、われわれに与えられたような光が与えられてはいなかったのである。彼らは、その時代に輝いた光にだけ責任があった。そしてわれわれは、われわれの時代に輝く光に責任がある。もしわれわれが、神の言葉のあかしを離れ、先祖たちが教えたものであるからという理由で偽りの教理を受け入れるならば、われわれは、バビロンにくだされた罪の宣告を受ける。われわれはその憎むべき酒を飲んでいることになるのである。 GCJap 621.1