各時代の大争闘

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聖書を学ぶ精神

聖書の研究は、祈りの精神に満たされ、謙遜に教えを聞く精神で行われないならば、難解な聖句はもちろん、やさしいところでも、その意味を取り違えて曲解してしまう。法王教の指導者たちは、彼らの目的に最も役立つ聖句を選び、彼ら自身に都合のよい解釈をして人々に教える。一方彼らは、人々が聖書を研究して、尊い真理を自分で理解する特権を許さない。しかし、聖書全体は、書かれているそのまま人々に与えられなければならない。聖書の教えが、このようにはなはだしく曲解されるくらいならば、聖書の教えを全然人々に与えない方がましである。 GCJap 602.1

聖書は、創造主のみこころを知りたいと願うすべての者を導くために与えられたものである。神は人々に預言の確かな言葉をお与えになった。天使だけでなく、キリストご自身さえおいでになって、ダニエルとヨハネに、やがて起こるべき事柄についてお知らせになった。われわれの救いに関する重要な事柄は、神秘に包まれたままにしておかれなかった。それは、まじめに真理を求める者を惑わせ誤らせるようには示されていない。預言者ハバククは、神の言われたことを次のように記した。「この幻を書き、これを……明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ」(ハバクク書2章2節)。 GCJap 602.2

祈りの精神をもって聖書を学ぶすべての者に、神のみ言葉は明らかに示され、真に誠実な者はだれでも、真理の光に来ることができる。「光は正しい人のために現れ……る」(詩篇97篇11節)。教会員が隠れた宝を捜すように真理を熱心に探究しないならば、どの教会も聖潔に進むことはできない。 GCJap 602.3

人類の敵がその目的を達成するために着々と働き続けているのに、人々は「寛大」という叫びによって、サタンの策略に目をくらまされている。サタンが、聖書に代えて人間の思想を置くことに成功する時、神の律法は廃され、教会は、自由であることを主張しながら、罪に縛られているのである。 GCJap 602.4