各時代の大争闘

315/453

第29章—罪悪の起源

罪の存在に対する疑問

どうして罪というものが起こったのか、なぜ罪があるのかということは、多くの人々の心を苦しめる問題である。人々は、悪の働き、その恐るべき結果である不幸と悲しみを見て、いったいなぜ限りない知恵と力と愛であられる神の主権の下にこうしたすべてのことが存在するのかと疑問をいだく。人間の説明できない神秘がここにある。人々は、半信半疑でいるために、神のみ言葉の中にはっきりあらわされていて救いに不可欠な真理を、悟ることができないのである。なぜ罪というものがあるのかということを調べるために、神が啓示されたことのない点まで追求する人たちがいる。そのため彼らは、この困難な問題を解決することができない。疑ったり、あらさがしをしたりするような気持ちに動かされる人は、これを口実にして聖書のみ言葉を拒否してしまう。中にはまた、言い伝えや誤った解釈のために、神のご品性、神の統治の性質、罪に対する神の取り扱いの原則などについての聖書の教えに暗くなり、悪という大問題について満足な理解を得ることができない者もある。 GCJap 566.1

罪の存在を理由づけようとして罪の起源を説明することは、不可能である。しかし、罪の起源についてもその処分についても、悪に対する神のすべての取り扱いの中に、神の公義と憐れみが完全にあらわされているということに関しては、十分に理解できるのである。聖書の中に何よりもはっきり教えられていることは、罪が入ってきたことに対して神にはなんの責任もないということ、すなわち神の恵みが独断的に取り去られたり、神の統治に欠陥があったりしてそれが反逆の発生のきっかけになったのではないということである。罪は侵入者であって、その存在については理由をあげることができない。それは神秘的であり、不可解であって、その言いわけをすることは、それを弁護することになる。 GCJap 567.1

もし罪の言いわけがあったり、その存在の原因を示すことができたら、それはもはや罪ではなくなる。罪についての唯一の定義は、神のみ言葉のうちに与えられている定義である。それは「罪は不法である」ということである。すなわち罪は、神の統治の基礎である愛という大法則と戦っている原則が、外にあらわれた結果である。 GCJap 567.2