各時代の大争闘
清めと日常生活
使徒ヤコブは、上からの知恵は、「第一に清く」と言っている。もしも彼が、たばこで汚れたくちびるでイエスの尊い御名を唱える人々、その息も体も悪臭に染まった人々、そして、大気を汚染してまわりのすべての者に毒を吸わせる人々に出会ったならば、すなわち、もし使徒が、福音の純潔とは全く逆の習慣と接触したならば、彼はそれを、「地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なもの」と非難しないであろうか。たばこの奴隷になっている人々は、自分たちは全き清めの祝福にあずかっていると主張して、天国への望みについて語る。しかし、神の言葉は、「汚れた者……は、その中に決してはいれない」と言明しているのである(黙示録21章27節)。 GCJap 544.3
「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリント第一・6章19、20節)。自分の体が聖霊の宮であるものは、有害な習慣の奴隷にはならない。彼の能力は、血の代価をもって彼を買い取られたキリストに属している。彼の持ち物は主のものである。この託された資本を浪費するならば、どうして罪を免れることができようか。自称キリスト者たちが、毎年、無用で有害な道楽のために莫大な額を消費している一方で、魂は生命の言葉が与えられずに滅びている。彼らは、什一や献金において神のものを盗み、貧しい人々の救援や福音の支持に与えるよりもっと多くのものを、破滅的な欲望の祭壇で焼き尽くしている。 GCJap 545.1
もしも、キリストの弟子であると公言する者がみな、真に清められるならば、彼らの財産は、無用で有害な道楽のために費やされるかわりに、主の金庫におさめられ、キリスト者は、節制と克己と自己犠牲の模範となるであろう。その時彼らは、世の光となるのである。 GCJap 545.2
世界は、すべて放縦に陥っている。「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」が大多数の人々を支配している。しかし、キリストの弟子たちは、より聖なる召しを受けている。「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない」。神の言葉に照らしてみても、邪悪な習慣や世俗の欲望の満足を全く放棄しない清めは真実のものでないという、われわれの主張は正しい。 GCJap 545.3
「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、……そして、汚れたものに触れてはならない」という条件に従う者に、神は、「わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」と約束なさるのである(コリント第二・6章17、18節)。神の事柄において豊富な体験を持つことは、すべてのキリスト者の特権であり義務である。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」とイエスは言われた(ヨハネ8章12節)。「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4章18節)。信仰と服従は、一歩ごとに、「少しの暗いところもない」世の光に、魂を密接に結びつける。義の太陽の輝く光線が、神のしもべたちの上に照り輝く。そして彼らは、その光を反射しなければならない。ちょうど天空の星が、天には大いなる光があって、その栄光によって自分たちは輝いているのだということを、われわれに告げているように、キリスト者は、自分たちが賛美し、倣うべき品性をお持ちの神が、宇宙の王座におられるということを、あらわさなければならない。神の霊の恵み、神の品性の純潔と聖潔とが、神の証人たちによってあらわされるのである。 GCJap 546.1