各時代の大争闘
聖所の清めとは何か
聖所とは何かという質問に対して、聖書ははっきりと解答を与えている。聖書に用いられている「聖所」という言葉は、まず第一に、天にあるもののひな型としてモーセが建てた幕屋をさし、そして第二に、地上の聖所がさし示していたところの、天にある「真の幕屋」をさしている。キリストの死によって、型としての奉仕は終わった。天にある「真の幕屋」は、新しい契約の聖所である。そして、ダニエル書8章14節の預言は、この時代に成就されるのであるから、ここで言う聖所は、新しい契約の聖所であるに違いない。二三〇〇日が一八四四年に終結した時に、この地上には幾世紀もの間、聖所はなかった。こうして、「二三〇〇の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する」という預言は、疑いもなく天の聖所をさすのである。 GCJap 478.3
しかし、聖所の清めとは何かという、最も重要な問題が、未解決のまま残っている。地上の聖所に関連してこうした儀式があったことは、旧約聖書に記されている。しかし、天において、清められねばならないものが、あるのであろうか。ヘブル人への手紙9章には、地上と天の両方の聖所の清めが明らかに教えられている。「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。このように、天にあるもののひな型は、これらのもの〔動物の血〕できよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない」(ヘブル9章22、23節)。それは、キリストの尊い血である。 GCJap 479.1
この清めは、型としての儀式においても実際の儀式においても、血によって成し遂げられなければならない。前者は、動物の血によって行われ、後者は、キリストの血によって行われる。パウロは、なぜこの清めが血によって行われねばならないかということの理由として、血を流すことなしには、罪のゆるしがないからであると述べている。ゆるし、すなわち罪の除去という働きが、成し遂げられなければならない。しかし、罪は、天や地上の聖所とどのような関係にあるのであろうか。このことは、象徴的儀式を調べることによって学ぶことができる。なぜなら、地上で奉仕した祭司は、「天にある聖所のひな型と影とに」仕えていたからである(ヘブル8章5節)。 GCJap 479.2
地上の聖所の務めは、二つの部分から成っていた。すなわち、祭司たちは毎日聖所で務めを行っていたが、大祭司は一年に一度、聖所を清めるために、至聖所において贖いの特別な働きを行った。毎日、悔い改めた罪人が幕屋の入り口に供え物を持ってきて、手を犠牲の頭において自分の罪を告白し、こうして自分の罪を象徴的に自分自身から罪のない犠牲へと移した。それから動物はほふられた。「血を流すことなしには」罪のゆるしはあり得ない、と使徒は言っている。「肉の命は血にあるからである」(レビ記17章11節)。破られた神の律法は、罪人の生命を要求した。罪人の失われた生命をあらわす血、すなわち犠牲が彼の罪を負って流したものが、祭司によって聖所の中に運ばれ、幕の前に注がれた。幕の後ろには、罪人が犯したその律法を入れた箱があった。この儀式において、罪は、血によって、象徴的に聖所に移された。ある場合には、血を聖所に持って入らず、モーセがアロンの子らに命じて「あなたがたが会衆の罪を負(う)……ため、あなたがたに賜わった物である」と言ったように、祭司は、そこで肉を食べなければならなかった(レビ記10章17節)。どちらの儀式も同様に、悔い改めた者から聖所へと、罪が移されることを象徴していた。 GCJap 480.1