各時代の大争闘

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大失望

しかし、彼らは、再び失望を味わわなければならなかった。期待した時は過ぎ、救い主はおいでにならなかった。彼らは、揺るぐことのない確信をもって、主の来られるのを待望したのであったが、しかし今は、マリヤが救い主の墓に来て、それがからになっているのを見つけ、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」と泣いて叫んだのと同じように彼らは感じた(ヨハネ20章13節)。 GCJap 462.3

使命が真実かもしれないという恐怖心が、しばらくの間、不信の世を抑制していた。時が過ぎ去っても、これは、すぐには消え去らなかった。最初、彼らは、失望した人々に勝ち誇ることはなかった。しかし、神の怒りのしるしがあらわれないので、彼らは恐怖心から立ち直り、ふたたび非難と嘲笑を始めた。主の再臨が間近いことを信じると公言していた多くの者が、信仰を捨てた。非常な確信を持っていた人々の中には、自尊心を深く傷つけられて、世から逃れたいと思う者もあった。彼らは、ヨナのように神につぶやき、生きるよりは死ぬことを願った。神の言葉でなくて、他人の意見に信仰の基礎を置いていた人々は、今や、再び自分たちの見解を変えようとしていた。嘲笑者たちは、弱く臆病な者たちを自分たちの側に引き入れた。そしてこのような人々はみな、もはや恐怖も期待もあり得ないのだと、口をそろえて宣言した。時は過ぎ、主は来られなかった。そして、世界は幾千年もこのまま続くように思われた。 GCJap 463.1

熱心で誠実な信徒たちは、キリストのためにすべてをささげ、これまでになく彼の臨在を感じていたのであった。彼らは、自分たちの信じたとおり、最後の警告を世界に伝えた。そして、まもなく彼らの主と天使たちとの交わりに入れられるものと期待していたので、使命を受け入れない人々との交わりはほとんどしていなかった。彼らは、切なる願望をもって、「主イエスよ、来たりませ。すぐ来たりませ」と祈っていた。しかし、彼は来られなかった。そして、今再び人生の心労と労苦の重荷を負い、あざ笑う世のののしりと冷笑に耐えることは、信仰と忍耐の恐ろしい試練であった。 GCJap 463.2