各時代の大争闘

251/453

「十人のおとめ」のたとえ

マタイによる福音書25章の、十人のおとめのたとえも、再臨信徒の経験を説明している。マタイによる福音書24章において、キリストは、再臨と世の終わりについての弟子たちの質問に答えて、彼の初臨から再臨までの間の世界と教会の歴史における重要な出来事をいくつか指摘された。すなわち、それらは、エルサレムの滅亡、異教および法王権の迫害による教会の大患難、日と月が暗くなること、落星などであった。この後で、彼は、ご自分がみ国の力をもって来ることを語られ、彼の出現を待つ二種類のしもべたちについてのたとえを話された。25章は、「そこで天国は、十人のおとめ……に似ている」という言葉で始まっている。ここに、24章の終わりに示されているのと同様の、終末時代に存在する教会が描かれている。このたとえにおいて、彼らの経験は、東洋の婚礼という出来事によって説明されている。 GCJap 451.2

「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」 GCJap 452.1

第一天使の使命が布告したキリストの再臨は、花婿が来ることによって表示されていると理解された。キリストの再臨が近いという布告を聞いて広く改革が行われたことは、おとめたちが出迎えたことに相当するものであった。マタイによる福音書24章と同じく、このたとえにおいても、二種類の人々があらわされている。すべての者が、あかりである聖書を手にし、その光によって花婿を出迎えようとした。ところが、「思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった」「思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた」 GCJap 452.2

思慮深い者たちは、神の恵み、すなわち、神の言葉を足のともしび、また道の光とするところの、聖霊の再生と啓発の力を受けていた。彼らは神をおそれ敬い、真理を学ぶために聖書を研究し、心と生活の清めを熱心に求めていた。この人々は、自分自身の体験を持ち、神とみ言葉に対する信仰を持っていたから、失望や遅延にもくじけることはなかった。他の者たちは、「あかりは持っていたが、油を用意していなかった」。彼らは、衝動に動かされたのであった。彼らは、厳粛な使命を聞いて恐れを感じはしたものの、同信の友だちの信仰に頼って、真理の十分な理解を持たず、また心に恵みの真の働きを経験せずに、良き感情という危うげな光に満足していた。彼らは、すぐに報いが与えられるものと期待して、主を迎えに出た。しかし彼らには、遅延や失望に対する用意がなかった。試練が来た時に、彼らの信仰はくじけ、彼らの光は消えそうになった。 GCJap 452.3

「花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをし」た。花婿の遅延は、主が来られると期待した際の時の経過と、失望と、そして一見遅延と思われたこととをあらわしていた。この不安な時において、表面的で半信半疑の人々の興味はすぐに動揺し始め、その努力はゆるみ始めた。しかし、自分で得た聖書の知識に信仰の基礎を置いた人々は、失望の波に洗い去られることのない岩の上に立っていた。「みな居眠りをして、寝てしまった」。一方の人々は自分たちの信仰を平然と放棄して、そしてもう一方の人々は、より明らかな光が与えられるまで忍耐して待ちながら。しかし、試練の夜、後者は彼らの熱心と献身をいくぶんか失うかに見えた。不熱心で表面的な人々は、もはや同信の友だちの信仰に頼ることができなかった。各自が、自分で立つか、倒れるかしなければならなかった。 GCJap 453.1