各時代の大争闘

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堕落の原因

この大背教の原因は、いったいなんであったであろうか。教会はどのようにして、福音の単純さから離れたのであろうか。それはキリスト教が、異教徒に受け入れられやすいようにと、多神教の習慣に順応したからであった。使徒パウロは、彼の時代においてさえ、「不法の秘密の力が、すでに働いているのである」と言った(テサロニケ第二・2章7節)。使徒たちの生きている間は、教会は、比較的純潔を保っていた。しかし、「二世紀の終わりごろに、たいていの教会は、新しい形式を取り入れた。最初の単純さは消えた。そして、徐々に、年老いた弟子たちが墓に入るにつれて、彼らの子供たちが、新しい改心者たちとともに……登場し、運動の形態を新たなものにした」。改宗者を得るために、キリスト教の高い標準は下げられ、その結果、「多神教が洪水のように教会内に流れ込み、その習慣、風俗、偶像を持ち込んだ」。キリスト教が、世俗の支配者たちの愛顧と支持を受けるにつれて、一般大衆も名目上はキリスト教を信じるようになった。しかし、キリスト者らしく見えても、多くの者は「実質上は多神教であって、特に、隠れて彼らの偶像を礼拝していた」 GCJap 441.1

プロテスタントであると称するたいていの教会は、これと同様の過程を経たのではなかろうか。真の改革の精神をもっていた創立者たちが死ぬと、その子孫たちが登場して「運動の形態を新たなものにする」。改革者の子孫たちは、父祖たちの信条に盲目的に固執して、彼らが認めたこと以上の真理を受け入れようとはせず、その一方では、父祖たちの謙遜、自己犠牲、世俗の放棄などの模範から、遠く離れていった。こうして、「最初の単純さは消える」。世俗の洪水が教会に流れ込んで、「その習慣、風俗、偶像」を持ち込んだ。 GCJap 441.2

ああ、「神への敵対」である世を友とする精神が、今日、キリストの弟子であると称する人々の間に、なんと恐ろしいばかりに、広く行きわたっていることであろう。キリスト教国の一般の教会は、謙遜、自己犠牲、単純、敬虔といった聖書の標準から、なんと遠くかけ離れてしまったことであろう。ジョン・ウェスレーは、金銭の正しい用い方について、次のように語った。「このように貴重なタレントは、不必要で高価な衣服や、あるいは不用な飾りなど、単に目の欲を満足させるものに、少しでも浪費してはならない。自分の家を妙に飾り立てるために浪費してはならない。不必要な、または、高価な家具、ぜいたくな絵画、飾り物のために浪費してはならない。……持ち物の誇りを満足させ、人間の賞賛を得るために金を使ってはならない。……『みずから幸いな時に、人々から賞賛』される。あなたが『紫の布や細布を着て』『毎日ぜいたくに』遊び暮らしているならば、確かに多くの者は、あなたの趣味の高尚なことと、あなたの気前よさと歓待ぶりを賞賛するであろう。しかし、そのように高価な賞賛を買ってはならない。それよりも、神から受ける栄誉に満足すべきである」。ところが、われわれの時代の多くの教会は、こうした教えを無視している。 GCJap 442.1