各時代の大争闘

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再臨の切迫とウォルフ

ウォルフは、「悲しみの人で、病を知っていた」人としてのキリストの初臨の大真理を受け入れるとともに、預言が同様の明快さをもって、力と栄光を伴うキリストの再臨を示していることをも悟った。彼は人々を、約束されたお方としてのナザレのイエスに導き、人々の罪の犠牲として身を低くして来られた初臨へと向けるとともに、王また救い主として来られる再臨のことをも人々に教えた。 GCJap 412.1

彼は次のように言った。「真のメシヤ、ナザレのイエス、すなわち、手と足を裂かれ、ほふり場にひかれて行く小羊のように引いて行かれ、悲しみの人で病を知っておられ、つえがユダを離れ、立法者のつえが足の間を離れたあとで初臨なさったお方は、天使のかしらのラッパとともに、天の雲に乗って再臨なさる」「そして、オリブ山上に立たれる。そして、ひとたびアダムに与えられて、彼が失った世界の統治権(創世記1章26節、3章17節参照)が、イエスに与えられる。彼は全地の王となる。被造物のうめきと悲しみはやみ、賛美と感謝の声が聞こえる。……イエスが父の栄光をもって、天使たちと来られる時、……死せる信徒たちがまずよみがえる(テサロニケ第一・4章16節、コリント第一・15章23節参照)。これは、われわれキリスト者が第一の復活と呼ぶものである。それから動物界は、その性質を変える(イザヤ書11章6~9節参照)。そして、イエスに従う(詩篇8篇参照)。ここに全世界の平和が訪れる」「主はもう一度地をごらんになって、『それは、はなはだ良い』と言われる」 GCJap 412.2

ウォルフは、主の来られるのが間近いと信じ、彼の預言期間の解釈によれば、この大いなる成就の日は、ミラーが指示した時期の、まさにその数年以内におかれていた。「その日、その時は、だれも知らない」という聖句を引用して、人間は再臨の切迫について何も知るべきではないと主張する人々に対し、ウォルフは答えた。「主は、その日、その時は、決してわからないと言われたであろうか。いちじくの葉が出ると夏が近いことがわかるように、少なくとも彼の再臨の接近をわれわれが知ることができるように、時のしるしをお与えにならなかったであろうか(マタイ24章32節参照)。彼ご自身が、預言者ダニエルの書を読むだけでなく、それを悟れと勧告されたのに、われわれは、その期間について、決して知るべきではないのであろうか。そして、そのダニエル書自体の中に、この言葉は終わりの時まで封じておくように言われており(彼の時代には封じられていたわけである)、また『多くの者は、あちこちと探り調べ(時について観察し思考するというヘブルの表現)、そして知識(時に関する)が増すでしょう』(ダニエル書12章4節)と言われている。さらに、主はこれによって、時の接近がわからないというのではなくて、正確な『その日その時が、あなたがたにはわからないからである』と言われたのである。ノアが箱舟を用意したように、われわれに主の再臨の準備をさせるだけの十分な時のしるしが与えられると、主は言われるのである」 GCJap 413.1

一般に行われていた聖書の解釈法、あるいは誤った解釈法について、ウォルフは次のように書いた。「キリスト教会の大部分は、聖書の明白な意味からそれて、人類の将来の幸福は空中を動き回ることにあると信じる仏教徒の空想的な解釈のほうに向かい、ユダヤ人とあるところは異邦人と解釈し、エルサレムとあるのは教会と解釈している。また、地といえば空のことであり、主の来られることは伝道団体の発展、主の家の山にのぼるといえば、メソジスト信者の大会合であると解釈している」 GCJap 413.2