各時代の大争闘
恵みの王国と栄光の王国
弟子たちが主の名によって宣べ伝えたものは、すべての点において正確で、それが指し示す出来事は、その当時でさえ起こりつつあった。「時は満ちた、神の国は近づいた」というのが、彼らのメッセージであった。「時」―─メシヤすなわち「油注がれた者」にまでおよぶ、ダニエル書9章の六九週―─の終了にあたって、キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた後、聖霊の油をお受けになった。そして、彼らが「近づいた」と宣言した「神の国」は、キリストの死によって建設された。この王国は、彼らが信じるように教えられていた地上の帝国ではなかった。また、「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる」時に建設される、将来の不滅の王国、「諸国の者はみな彼らに仕え、かつ従う」永遠の王国でもなかった(ダニエル書7章27節)。聖書でよく用いられている「神の国」という表現は、恵みの王国と栄光の王国の両方を指すのに用いられている。 GCJap 398.2
恵みの王国は、パウロによって、ヘブル人への手紙の中で述べられている。キリストが、「わたしたちの弱さを思いやる」ことのできる情け深い仲保者であることを指摘したあとで、使徒は、「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵み……を受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」と言っている(ヘブル4章15、16節)。恵みのみ座は、恵みの王国を代表している。なぜならばみ座の存在することは、王国の存在を意味しているからである。キリストは、多くのたとえの中で、人の心に働く神の恵みの活動を指すのに、「天国」という表現を用いられた。 GCJap 399.1
そのように、栄光のみ座は、栄光の王国を指すのである。救い主は、この王国について次のように言われた。「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集め」る(マタイ25章31、32節)。この王国は、まだ将来のものである。それは、キリストの再臨の時まで建設されない。 GCJap 399.2
恵みの王国は、人類の堕落後直ちに、罪を犯した人類の贖罪の計画が立てられた時に、設立された。それは、その時、神のみ心のうちに、そして神のお約束のもとに存在していた。そして、信仰によって、人々はその国民となることができた。しかしそれは、キリストが亡くなられるまでは、実際に築かれなかった。救い主は、地上の伝道開始後においても、人類の強情さと忘恩にうみ疲れて、カルバリーの犠牲を避けることも可能であった。ゲッセマネにおいて、苦悶の杯は、彼の手の中で震えた。彼は、その時でも、額から血の汗をぬぐって、罪深い人類を、その罪悪のうちに滅びるままにしておくことがおできになった。もし彼がそうなさったならば、堕落した人類の贖罪はあり得なかったのである。しかし、救い主が、その生命をささげ、「すべてが終った」と叫んで息を引き取られた時、贖罪の計画の完成が確保された。エデンにおいて、罪を犯した二人に対してなされた救いの約束は、批准された。これまで神の約束によって存在していた恵みの王国が、この時、設立されたのである。 GCJap 399.3
こうして、キリストの死、すなわち、弟子たちの希望を最終的に打ち砕いたと思われた事件そのものが、それを永遠に確かなものとした。それは、彼らにとって悲痛な失望ではあったが、彼らの信仰が正しかったという証明のクライマックスであった。彼らを悲嘆と失望に陥れた事件は、アダムのすべての子孫に希望の扉を開くものであり、あらゆる時代の、神のすべての忠実な民に、来世と永遠の幸福をもたらす中心事件であった。 GCJap 400.1