各時代の大争闘
暗黒から光明へ
彼は、こうした状態で数か月間過ごした。そして、次のように言っている。「突然、救い主の品性が、わたしの心に生き生きと印象づけられた。恵みと憐れみの思いに満ち、ご自身でわれわれの罪を贖い、罪の罰である苦難からわれわれを救って下さる方があるように思えた。わたしはその時すぐに、そのような方は、なんとうるわしい方であろうと考えた。 GCJap 366.1
そしてわたしは、その方の腕に自分自身を投げかけ、その憐れみに頼ることができると想像したのである。しかし、はたして、そのような方がおられることを証明することができるであろうか、という疑問が起こった。そうした救い主、あるいは来世についても、聖書を除いては、その存在の証拠を見いだすことはできなかった。…… GCJap 366.2
聖書は、ちょうどわたしが必要としているような救い主を示していることがわかった。堕落した世界の必要に、このように完全に適合した原則を展開している書物が、霊感によらずに与えられるとは、わたしにはどうしても考えられなかった。わたしは、聖書が神の啓示に違いないと認めないわけにいかなかった。聖書は、わたしの喜びとなった。そして、わたしは、イエスという友を見いだした。救い主は、わたしにとって、万人に抜きんでた方となられた。そして、不可解で矛盾していると思われた聖書が、今度は、わが足のともしび、わが道の光となったのである。わたしの心は落ち着き、満たされた。わたしは、主なる神が、人生の大海のただ中にある岩であることがわかった。今や聖書が、わたしの主要な研究書となった。そしてわたしは、自分は大きな喜びをもってそれを研究したと、心から言うことができる。わたしは、その半分も知らされていなかったことがわかった。わたしは、なぜその美と栄光とを、以前には見ることができなかったのであろうかといぶかり、それをどうして拒否することができたのであろうかと驚いた。わたしは自分の心の願いがすべて啓示されているのを見いだし、心のすべての病のいやしが備えられているのを見いだした。わたしは、他の読書を全くしたくなくなり、神から知恵をいただくことに心を集中した」 GCJap 366.3
ミラーは、彼が軽蔑していた宗教に対する信仰を公に告白した。しかし、彼の無信仰な友人たちは、彼自身がしばしば聖書の権威に対して抱いたあらゆる議論を吹きかけてくるのに、後れをとらなかった。その時彼は、それらに答えることができなかったが、しかし、聖書が神の啓示であるならば、そこに矛盾はないはずであると考えた。また、聖書は人を教えるために与えられたものであるから、人間の理解にふさわしいものであるに違いないと考えた。彼は、自分で聖書を研究して、一見矛盾と思われるものを調和させることができないか、確かめようと決心した。 GCJap 367.1
彼は、すべての先入観を捨てようと努め、注解書を用いないで、欄外の引照とコンコーダンス(用語索引)を参考にして、聖句と聖句とを比較した。彼は、規則正しく組織的に研究を続けた。まず創世記から、一節ずつ読んでいき、数節の意味が、なんの疑念もなくはっきり理解されるまでは先に進まなかった。何か不明瞭なところがあると、彼は、その問題点に関係があると思われる他の聖句を全部比較してみるのであった。すべての言葉は、その聖句の主題に対して適正な意味を持つものとし、もし彼の見解が、すべての関連した聖句と一致するならば、それで問題は解決するのであった。こうして彼は、理解することが困難な聖句に当面すると、聖書の他のところにその説明を見いだした。彼が神の光を求めて、熱心に祈りつつ研究していった時に、これまで不可解と思われていたところが明らかにされた。彼は、詩篇記者の次の言葉が真実であることを経験した。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」(詩篇119篇130節)。 GCJap 367.2