各時代の大争闘
奇跡的な神の守り
彼らは、英国国教会の会員として、教会の礼拝形式に強い愛着を感じていたが、主は、聖書によって彼らにさらに高い標準を示された。聖霊は彼らに、キリストと彼の十字架を宣教することを迫った。至高者の力が彼らの運動に伴った。幾千の者が罪を認め、真に悔い改めた。これらの羊を、貪欲なおおかみから守らなければならなかった。ウェスレーは、新しい教派をつくろうという考えはなかったが、いわゆるメソジスト会のもとに人々を組織した。 GCJap 296.1
これらの説教者たちは、国教会から理解に苦しむほどの激しい迫害を受けた。しかし神は、教会それ自体の内部に改革が起こるように、事態を導いておられたのであった。もしこれが、全く外部からのものであれば、最も必要なところまで浸透しなかったことであろう。しかし、リバイバル(信仰復興)の説教者が教会内の人で、機会あるごとに教会内において活動したので、真理は、さもなければ閉じられたままのところにも、入っていくことができた。聖職者のある者は、自分たちの道徳的無感覚に目覚めて、それぞれの教区で熱心に宣教するようになった。形式主義によって麻痺していた教会が、生きかえったのである。 GCJap 296.2
教会歴史の各時代におけると同様に、ウェスレーの時代にも、異なった賜物を与えられた人々が、それぞれに定められた任務を果たした。 GCJap 296.3
彼らは、教義のすべての点において一致しているわけではなかったが、すべての者は聖霊に動かされており、魂をキリストに導くという大目的において一致していた。ホイットフィールドとウェスレー兄弟は、ある時、見解の相違から仲違いが起こりそうになった。しかし彼らは、キリストの学校で柔和を学んでいたので、お互いに忍耐と愛をもって和解した。至るところに誤りと悪が満ち、罪人が滅びに沈んでいる時に、争っている暇はなかった。 GCJap 297.1
神のしもべたちは、困難な道を歩いた。有力者や学者たちは、その力をふるって彼らに反対した。しばらくして、聖職者の多くは、彼らに断固たる敵意をあらわし、純粋な信仰とその宣言者とに対して、教会の扉はふたたび閉じられた。彼らに対する聖職者たちの説教壇からの非難は、人々の間に暗黒と無知と不法を引き起こすものであった。ジョン・ウェスレーは、何度となく神の憐れみ深い奇跡によって死を免れた。群衆が彼に対して激しく怒って、もはや逃げられないように思われた時、人間の姿をした天使が彼のそばに来て、群衆が後退したすきに、キリストのしもべは危険な場所から安全なところに行くことができた。 GCJap 297.2
このようにして激怒した群衆から救い出されたのであるが、そうした経験の一つについて、ウェスレーは次のように語っている。「われわれが町へ向かって、すべりやすい道を下っていた時、多くの者がわたしを倒そうとした。もし一度倒れたならば、それきり起き上がれなかったことだろうと思う。しかしわたしは一度も転ばず、すべりもせずに、彼らの手から完全に逃れた。……多くの者がわたしのえりや服をつかんで引き倒そうとしたが、彼らは、しっかりつかむことができなかった。ただ一人、わたしのチョッキのポケットのたれぶたをつかんだが、それはすぐにちぎれてしまった。もう一方の、銀行の小切手の入っていたポケッ GCJap 297.3
トのたれぶたもちぎれて、半分だけ残った。……わたしのすぐ後ろにいた頑丈な男は、わたしを大きな樫の棒で数回なぐった。もしも彼が、それでわたしの後頭部を一度なぐったならば、もうわたしは、それでおしまいだったであろう。しかし、そのたびに、棒はわきにそれた。どんなふうにかは知らない。なぜならわたしは、右にも左にも動くことができなかったのだから。……また、もう一人の男が群衆をかきわけて近づき、手を上げていきなり打ち下ろしたが、わたしの頭をなでただけであった。『なんて柔らかい髪をしてるんだ!』と彼は言った。……一番最初に悔い改めたのは、町の英雄たち、どんな時にでも野次馬たちの先頭に立つ男たちで、その中の一人は、娯楽場の拳闘選手だった男であった。…… GCJap 298.1
神は、なんと穏やかにわれわれを導いて、み心を行わせられることであろう。二年前に一個のれんががわたしの肩をかすめた。その一年後には、石がわたしの両眼の間に当たった。先月は一回なぐられ、今夜は町に入る前に一回と町を出てから一回、計二回なぐられた。しかし、二回ともなんともなかった。一人はわたしの胸を力いっぱい打ち、もう一人は、血が吹き出るほどの勢いでわたしの口を打ったのだが、わたしは、どちらの場合も、わらがさわったほどの痛みも感じなかった」 GCJap 298.2