各時代の大争闘

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死は眠りである

霊魂不滅説は、ローマが異教から借りてきて、キリスト教の中に織り込んだ偽りの教理の1つである。マルチン・ルターは、これを「ローマ法王の教書というはきだめの一部をなす、奇怪な作り話」であると言っている。3伝道の書の中にある「死者は何事をも知らない」というソロモンの言葉に注を加えて、ルターはこう言っている。「これは、死者には感覚がないというもう1つの証拠である。義務もなければ、科学も、知識も、知恵もないとソロモンは言っている。死者は全く何も感じないで眠っていると、ソロモンは判断している。死者は、日も年も数えることなく横たわっている。しかし目がさめる時には、ほんの一瞬眠ったか眠らなかったか、というほどにしか思わないであろう。」4 GC 1865.5

死ねば、義人は天に行き、悪人は罰せられるというようなことは、聖書のどこにも書いてない。父祖たちや預言者たちは、そめような確証を残さなかった。キリストと弟子たちは、そのような暗示は何も与えなか った。死人は、すぐに天に行くものではないと、聖書に明らかに教えられている。彼らは復活まで眠っていると記されている(Ⅰテサロニケ4:14、ヨブ14:10~12参照)。銀のひもが切れ、金の皿が砕ける時に、人の思いはなくなるのである(伝道の書12:6参照)。 GC 1865.6

墓に下る者は、何も言わない。日の下に行われることは何事も知らない(ヨブ14:21参照)。疲れた義人たちにとって、それは幸福な休息である。時は、長かろうと短かろうと、彼らにとってはほんの一瞬間にすぎない。彼らは眠っているのである。そして、神のラッパによって呼び起こされて、輝く不死が与えられるのである。「ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、……この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった』」(Ⅰコリント15:52~55)。深い眠りから目ざめた時に、彼らは、考えることをやめたそのところから考え始める。最後の感覚は死の苦痛であった。最後の思いは、自分は死の力に屈するのだ、ということであった。しかし、彼らが、墓から起きあがる時に、彼らの最初の喜ばしい思いは、「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」という勝利の叫び声となってひびくのである(同15:55)。 GC 1866.1

………………………………………………… GC 1866.2

[注] GC 1866.3

1 William Tyndale, Preface to New Testament (ed. 1534). Reprinted in “British Reformers-Tindal, Firth, Barnes,” p.349. GC 1866.4

2 “Commentary” remarks on l Corinthians 15, par.3. GC 1866.5

3 E. Petavel, “The Problem of Immortality,” p.255. GC 1866.6

4 Martin Luther, “Exposition of Solomon's Books Called Ecclesiastes, ”p.152. GC 1866.7